第24話:居酒屋バイト④
片付け終えたマフユは学生鞄を手に取り、出口へと向かった。休憩室の襖を開けて狭い廊下に出る。
一段降りた場所で草履ではなく革靴を履き、厨房の置かれた店内側へと戻る。
時刻は午後9時を回り、外はもう闇と星の領域だ。だからこそ客足は絶えず、店内は依然として満席だった。
入れ替わっている客も居れば、先頃から変わらず残っている客もいる。不動の筆頭は中年、茶髪、髭面の常連三人組。
カウンターの内側では、店主が焼き台の上で串焼きを作っていた。マフユは見知ったその背中へ声を掛ける。
「ツキハさん、お先に失礼します」
少女に気付いた店主は振り返り、人の良い笑顔で軽く頷いた。
「ああ、お疲れ様。おっと、そうだ」
何かに気付いて身を屈め、店主は作業所脇に置いていた包みを持ち上げる。
そのままマフユの傍までやってきて、桜柄の梱包物を差し出した。
「はい、これ。あり合わせで作ったものだけど、味には自信があるよ。持って帰って食べるといい」
「いつもすみません」
店主お手製の賄い料理を受け取って、マフユは感謝の言葉と共に頭を下げる。
「気にしなくていいんだよ。こっちだってマフユちゃんのお陰で助かってるんだ。お互い様ってやつだね」
「それは……仕事ですから」
僅かに目を伏せて、少女は困惑を交えて呟いた。
しかし店主は快活な笑い掛け、マフユの小さな肩を優しく叩く。
「勿論そうだ。でも仕事抜きにしてね、個人的にそう思う所もあるんだ。まぁ、難しく考える必要はないさ。良く働く従業員への差し入れだと思っておくれ」
気安くも温かみに溢れる言葉が、店主の人柄をそのまま表している。
マフユは自分より背の高い雇い主の顔を見上げた。年季と若々しさが混在する料理人の面貌には、自分とは対照的に華やかな感情の色がある。
出会ってこのかた滅多に曇らされたことのない清々しい笑みへ、彼女はもう一度頭を下げた。
「気をつけて帰るんだよ」
「はい。ありがとうございます。おやすみなさい」
終始穏やかな店主に別れを告げ、マフユはカウンターを回って店の出入り口へと向かう。
その横顔へ、例の三人組が話しかけてきた。
「マフユちゃん、おやすみねぇ」
「おつかれーっす。今度一緒に飲もうや~」
「夜道は危険だ、何かあったら大声を上げろ。だな」
全員が全員、ほどよく酔いの回った赤ら顔だ。
呂律が回らないほどではないものの、思考能力が正常に機能しているかは怪しい。
「皆さん、おやすみなさい。ゆっくりしていってください」
愛想笑いの一つも浮かべず軽く会釈を返し、少女はさっさと歩いていく。
何時もどおりの反応に、カウンター席の三人は相好を崩す。三者それぞれに親しみのこもる眼差しで、遠退く背中を見送った。
彼女が格子戸を開け、流れ込んでくる外気と入れ替わりに店を後にするまで、緩やかに手を振り続けて。
夜の帳がしっとりと降りた街並みは、それでも明るく活気があった。
等間隔に設置され彼方まで伸びる街灯の明かりに、ライトアップされたショーウィンドウ、未だ忙しなく行き交う車両と、止まる事無く流れ続ける人の波。
豊かな色彩で夜気を装飾した人工の灯に、追い立てられた静寂は燻る場所さえ失っている。
居酒屋「つきはみ」が面する街路の一角は、比較的人通りの少ない場所にあった。それでも表通りの賑わいが漏れて届く。
人々の幸福そうな笑い声や、走行車両の移動音。夜の静寂を破る賑わいは程近く、人恋しさに釣られて寄れば合流するのもとかく容易い。
しかしマフユはまったく逆の方向に、人気なく宵闇の蟠る暗路へと歩を進めた。
煌びやかな表の主道を真逆へ、暗澹とした裏の脇道に迷う事無く踏み入っていく。
突然、外界のあらゆる音が遠くなった。まるで水中へ頭を沈めたさながらに、それまで聞こえていた喧騒が曖昧に撓む。
更に数歩を踏むと、信じ難いことながら完全に途絶えて果てる。まったく感じられなかった静謐さが、巨大な厚みを持って待ち構えていた。
濃密な違和感が漂い、拭えない疑念が足下から這い登ってくる。
街灯の瞬きが奇妙に遠く、繁華街のうねりは一歩の差で急速に失せてしまう。栄えた明煌に背を向けて進むたび、出迎えやるのは不自然なほどの寂れよう。
少女の行くてには、茫漠とした無上の闇のみが広がっていた。
そこから先は街の構造上、陰の部分として忘れ去られた区画になる。
開発の途上で予期せぬ空白として生まれてしまい、そのまま放棄された本来ありえべかざる無名の地。
日々進歩していく日の当たる場所とは違い、誰にも顧みられることのない閉じた街域である。
おそらく街の住民でさえ、その存在を知る者は殆どいないだろう。道は確かに続いている。けれど誰も立ち入られない。
朧に伸びる一路は人々の意識から外れ、気付かれないまま時を刻んできた。
利用されないことを当然とするように、通る者こそが異質と糾弾するに等しい感覚さえ根差す。
「お待ちしていましたよ、我が主君」
淀むように満ちていた不健全な無音。それが不意に裂け、若い男の声が響いた。
そうかと思えばマフユの前方空間から、黒い帽子に黒いカマーベストと黒いズボン、黒のロングコートを身に着けた黒い男が一人やって来る。
何もない闇の内から染み出したとしか思えない、不可解な現れ方だった。ほんの一瞬前まで気配は勿論、文字通り影も形もなかったのだが。
眠っているようにも見える細い糸目と、胡散臭い笑みを貼り付けた、怪しさの塊。精霊セイギは芝居がかった大仰な一礼で、マフユへと頭を下げる。




