第21話:居酒屋バイト①
高い位置へ据えられた電灯に、店内は柔らかく照らされる。仄かな瞬きは蝋燭めいた揺らぎを思わせ、心許なげな独特さで自然な温かみを感じさせた。
喧騒と呼ぶには控えめな賑わいが、和やかな空気となって室内を包み込む。談笑する声には酒気が帯び、けれど無法でも下品でもない穏やかな流れで空間を掻く。そのどれもが憩い、潤い、幸福と呼べる喜びの色を湛えていた。
カウンターに設けられた六つの席と、二つの四人掛けテーブルは全てが埋まっている。馴染みの常連客が半分、初めて訪れた客が半分。それぞれの面前にはコップと料理が並び置かれ、小さくも美しい世界を卓上に花開かせていた。
今宵も隠れ家系居酒屋「つきはみ」は盛況である。
特別に目を引く装飾があるでなく、大々的な宣伝を催しているわけでもなく、ただひっそりと存在している街角の一店。真摯にして朴訥、直向きで純粋な料理と酒の味わいが来客の心を掴み、人知れず人気を博す秘めた名店だ。
更にこれを支えるのが、朗らかな店主の人柄である。店主のツキハは店の持つ雰囲気そのままに穏やかな性情を持ち、新規・常連を問わずどんな客にも分け隔てなく穏当に接する。
その貴賤ない態度は客商売をする上で身に付いたわけでなく、店主生来のものだった。だからこそ嘘偽りない本心、抜き身の在り様として来客の胸へ響く。
常連客の目的は舌を楽しませたいのと、この店主と語らいたいのとで大凡3分の2を占める。
「マフユちゃん、奥のお客さんに運んであげて」
カウンターの奥から良く通る店主の声が響いた。活き活きとしていながら優しく、耳に心地良く染みる声音だ。
他者を従えようという威圧感は一切なく、共に歩む輩として遇すたおやかな声は、聞く者を知らず魅了する。
「はい」
これへ応じるのは、平淡で感情味の薄い声だった。琴を弾いたとも思える涼やかな旋律が、言葉の形で大気を渡る。
しなやかでいて確かな強さを宿す、まだ若い声。その内には思わず耳を傾けたくなる、不思議な吸引力がある。
短い返事に続き、店内を歩いていたマカベ・マフユがカウンターへ向かっていった。
華美ではなく落ち着いた色柄の和服を着て、群青色の帯を回し、白い足袋と草履を履き、手には漆塗りの盆を持っている。
桃色の髪を首筋まで伸ばし、藍瞳の少女。端整な顔立ちに凛然とした雰囲気を纏う、はっとするほどの美人。ただその面貌には表情がない。喜怒哀楽のいずれも浮かばず、凪いだ冬の湖面めいた冷たさがあるのみ。
アルバイト店員として働く彼女こそが、常連客が店通いをする最後の要因である。
マフユはカウンターの内へと回り込み、店主からコップを一つ受け取った。それを盆に乗せ、静々と歩いていく。
店内を巡る清涼な風が、少女の髪を軽やかに揺らす。
向かう先は店内奥に設けられたテーブル席。今そこには、スーツを着た30代半ばだろう男女が四人腰掛けている。仕事帰りのサラリーマンとOLだろう。
各々に赤ら顔で、上司や取引先の文句を面白可笑しく言い合っていた。
「お待たせしました」
足音もなくテーブル席に辿り着いたマフユは、盆からコップを上げて男性客の前へ置いた。
透明な器の中には、淡い琥珀色の液体が満ちている。照明の暖光を受けるそれは微妙な水面の揺れへ従い、硝子越しに七色の光沢を放った。
居酒屋つきはみ名物酒、純米吟醸「月影」である。
店主ツキハの大叔父が営む酒蔵で仕込まれ、当店のみに卸されている希少な逸品。
香りにはやや癖があるも、さわやかな喉越しと独特の甘さがあり、日本酒の苦手な者でも抵抗なく飲める。また見た目にも美しい。
「おお、来た来た」
男性客は眼前に置かれたコップを早速掴み、その縁へ口を寄せた。
最初に軽く舌先で表面を舐め、独特の味わいを口内に広げて楽しむ。暫しのあいだ余韻に浸り、程無くコップを煽って半分近く喉へと流した。
他にはない甘さが口腔を鮮やかに撫で、食道を滑り落ちる滑らかな感触と適度な温度が充足感を促していく。
胃の腑に至った清酒は慎ましい芳香を燻らせると、そのまま五臓六腑へ染み渡った。
「んーっ、美味い!」
コップを片手に掲げて、男性客はこれ以上ないという至福の息を吐く。
此処でしか飲めない銘酒に満足を露とし、だらしなく表情筋を弛緩させる。
「この一杯の為に今日を生きてきたんだよ。はぁ~、幸せ」
「ありがとうございます」
相手の幸福そうな賛辞に、マフユは恭しく頭を下げた。それでも彼女の顔に笑みはない。
態度や気配や空気から謝意が伝わってくるので、言葉や心持ちに嘘はないのだろう。それが充分に分かるため、酔った客も鷹揚に構えて絡みはしない。
そもそも店内の雰囲気そのものが諍い事とは無縁であった。全体へ漂う温かく和やかなそれが、皆を穏やかな気持ちにさせている。




