三十六頭の黒馬
白い雪の上へ、三十六頭の黒馬が一斉に横たわっていた。
黒い胴から立つ荒い息が、薄曇りの空へ白く噴き上がる。汗に濡れた毛へ雪が貼りつき、解けた雫が脇腹を細く伝っていた。近衛の騎手たちは手綱を握ったまま、声もなく立ち尽くしている。引けば馬の首が雪を擦る。励ませば耳だけが弱々しく動く。誰一人、その大きな体を起こせない。
「使えない馬を置いておく餌代などない。全頭、処分しろ」
ガレスの声は、凍った地面より冷たかった。
つい半刻前、私は彼の牧場を追い出されたばかりだ。
飼料が妙に熱を持っている。甘い匂いの奥に酸味がある。こんなものを訓練帰りの馬へ腹いっぱい食べさせてはいけない――そう訴えた私に、ガレスは言った。
『馬を怯えさせる厄介者に価値はない』
確かに、私が近づくと馬はよく耳を伏せた。けれど、それは私が馬を怯えさせるからではない。痛む場所へ手が近づいたときの、小さな拒絶を見落とさないからだ。そこで手を止める私を、ガレスは臆病で役立たずだと決めつけた。
馬は言葉で痛いとは言えない。代わりに耳を伏せ、鼻孔を細め、尾を振り、皮膚を震わせる。その声を聞かなかったことにして処置を続ければ、次には人の手そのものを拒むようになる。
私は雪を踏み、倒れた馬たちへ近づいた。踏み固められた雪が靴底で乾いた音を立てる。騎手の一人が腕を広げて遮った。
「雇われてもいない牧場女が触るな」
「だから、あなたではなく責任を取れる方に頼みます」
列の向こうに立つ騎手団長を見た。団長の足元には、ひときわ大きな黒馬が横たわっている。首を雪へ投げ出し、腹が細かく震えていた。団長の手袋は、その馬の手綱を握り締めたまま動かない。
「最初の一頭に触れる許可をください」
「治せるのか」
「治ると約束はできません。でも、立つために必要なことを一つずつ確かめられます」
団長は私の空の両手を見てから、三十六頭を見渡した。
「どの馬を選ぶ」
その問いは重かった。
一頭へ夜通し付き添えば、今夜の私はもう他の馬を診られない。蹄を冷やし、水を少しずつ飲ませ、呼吸と腹の動きを確かめ続ける。冷えた水へ何度も手を入れれば、明け方には指が利かなくなる。それを三十六頭同時にはできない。
私は列の間を歩いた。触れる前に耳を見る。鼻先へ手を出し、首が逃げれば追わない。呼吸の間隔、腹の膨らみ方、雪へ投げ出した脚の角度を一頭ずつ目に刻む。
団長の馬は、私が二歩まで近づいたところで耳を頭へ貼りつけ、歯を鳴らした。苦しさの中にも、近づくなという意志ははっきり残っている。
私はすぐに退いた。
「なぜそいつを後回しにする。いちばん苦しそうだ」
「今は私を拒んでいます。押さえつければ、呼吸も痙攣もひどくなる」
団長の顔が強張った。それでも、触れろとは命じなかった。伏せた耳を見つめたあと、自分の馬へ「分かった」と低く告げた。
私は列の半ばで横たわる一頭の前へ膝をついた。鼻孔は乾き、呼吸は速い。けれど私の手を嗅ぐと、右耳だけがこちらを向いた。首筋に触れても逃げない。汗で束になった毛は冷たく、その下の皮膚だけが熱を持っている。腹へ手を移すと、一度だけ尾を振ったので止める。耳が戻るまで待ち、今度は指先ではなく手の甲を当てた。
腹は冷えて硬い。かすかな腸の動きは残っている。
前脚の球節から下を包むと、毛の下で脈が強く打っていた。雪に接していたはずの蹄は、掌を離したくなるほど熱い。特に右前の蹄先が硬く張り、馬はそこを雪から浮かせようとしている。横たわっていてさえ痛む場所へ重みを掛けまいとしていた。
「この馬です」
「理由は」
「飲み込む力と腹の動きがまだあります。でも蹄の熱は進んでいる。今夜冷やさなければ、明日は体を起こしたくても前脚へ重みを掛けられません」
「ほかの三十五頭はどうする」
「飼葉を全部下げてください。無理に立たせず、濡れた腹の下へ乾いた毛布を入れる。首を不自然に折らせないよう支え、横倒しの馬は二刻ごとに体の向きを替える。水は鼻先へ置いても、口へ流し込まないで。飲むのを拒んだら下げてください」
「それだけか」
「今夜、私ができるのは一頭だけです」
言葉にすると、三十五頭を見捨てたようで胸が痛んだ。黒い瞳が並び、白い息が幾筋も上がっている。それでも全部へ手を出し、どの一頭にも必要な時間を掛けられなければ、全部を悪くする。
団長は短く息を吐いた。
「この一頭は君に任せる。ほかは我々が今の指示を守る」
私は馬の前へ戻った。
まず蹄鉄を外した。釘を抜くたび、蹄壁へ振動が伝わらないよう鉄を掌で支える。冷えた金属が皮膚へ貼りつきそうになる。右前で馬の肩が跳ねたため、そこで中断した。首が雪へ戻り、噛み締めていた口が緩むまで待つ。
「急げ!」
ガレスが怒鳴った。馬の脇腹がその声に合わせて強く震えた。
「急いで痛ませれば、この馬は次の処置も拒みます」
私は馬の耳がこちらへ戻ってから、残りの一本を抜いた。伸びて前へ逃げている蹄先だけを、薄く一枚ずつ削る。削れた角質から、湿った土に似た匂いが立った。刃を入れるたびに脚の筋肉を確かめ、硬くなれば止めた。踵には触れず、蹄先が地面へ引っかかる角度だけをわずかに戻す。
それから桶へ雪と水を入れ、前蹄を片方ずつ浸した。冷たすぎて脚を引いたときは追いかけず、水を足して温度を上げる。桶を引くと、馬の荒い鼻息が私の頬を撫でた。鼻先が私の肩へ触れてから、もう一度だけ桶を寄せる。今度は馬自身が蹄を下ろした。
腹の下には乾いた毛布を重ね、その上へ温めた湯袋を置いた。蹄の熱は奪い、冷えた腹は温める。同じ体だからと、全部を冷やしていいわけではない。濡れた毛布一枚でも残せば腹の冷えは戻り、蹄だけを冷やして水を与えなければ乾いた体は持ち直さない。どの工程も、別の工程の代わりにはならなかった。
水桶を口元へ運ぶと、馬は顔を背けた。
私は傾けかけた桶をすぐ下ろした。
無理に飲ませれば気管へ入る。しばらく唇を湿らせるだけにして、ひと口を待つ。水を含ませた布を触れさせると、乾いた唇がわずかに動いた。馬が自分から鼻先を戻したところで、底が見えるほど浅く水を入れた器を差し出した。
ぴちゃり、と舌が鳴った。
一口で下げる。もっと欲しがって首が伸びても、呼吸を十回数えるまでは待った。また一口。腹の音を聞き、蹄の水を替え、湯袋が冷めれば温め直す。その繰り返しだった。
夜半、ガレスが苛立って言った。
「水をまとめて飲ませ、鞭で起こせば済む。近衛馬は訓練されている」
「今それをすれば、弱った腹が膨れます。熱い蹄へ一気に全体重を掛ければ、立てても次に倒れたときはもっと悪い」
「血統のよい馬だ。根性が違う」
「痛みは血統を見ません」
私は桶へ手を沈めた。水を替え続けた指は赤さを失い、曲げるたび骨の中まで針を刺されるように痛んだ。桶の縁をつかみ損ね、水が膝へこぼれる。それでも冷却を途切れさせるわけにはいかない。手首まで沈め、動かない指の代わりに両腕で桶を抱えた。
ほかの三十五頭にも夜は過ぎていた。騎手たちは飼葉桶を下げ、濡れた毛布を交換し、横倒しの馬の体を慎重に返していた。黒い胴が雪の上を転がるたび、誰かが首を支え、別の誰かが脚を守った。水を口へ押し込もうとした者へ、団長がやめろと命じる声がした。
団長の愛馬は、支えられて体の向きを替えられている。私が近づかなくてもできる保温と姿勢の介助だけを、団長自身が続けていた。馬が耳を伏せれば手を止め、呼吸が落ち着いてから毛布を差し入れ直している。
空が薄青くなるころ、私の前の馬が首を持ち上げた。
雪を擦るだけだった鼻先が高くなり、前脚を胸の下へ畳もうとする。私は支えなかった。人が手綱を引き、力ずくで引き上げても、それはこの馬が立ったことにはならない。
馬は一度、右前脚を引いた。蹄の熱を確かめる。昨夜の焼けるような熱さはない。左右の差も小さくなっている。腹へ手の甲を当てると、内側から低い音が二度返った。与えた水を腹が受け止め、冷え切っていた中身が動き始めている。
「場所を空けてください」
騎手たちが離れた。踏み荒らされた雪の上に、人と馬の息だけが白く漂った。
馬は前脚をもう一度折り込み、胸を雪から離した。後脚が滑る。私は雪を掻き、蹄の後ろへ乾いた藁を敷いた。尻を押そうと触れかけると耳が伏せたので、手を引く。
「大丈夫。あなたの脚で決めて」
二度目の踏ん張りで尻が上がった。
震える四本の脚が、雪の上で一本ずつ位置を探す。右前が一度浮き、置き直される。誰も手綱を引かなかった。馬は大きく息を吐き、首を低くしたまま、それでも自分の脚で立っていた。
歓声は上がらなかった。騎手たちは息をするのも忘れたように、その四本の蹄を見つめていた。馬の耳がゆっくり左右へ動き、最後に私のほうを向いた。
やがて団長が、私の前へ水の入っていない器を置いた。
「次も、同じように立たせられるか」
「同じにはしません。次の馬には、次の馬に合う順番があります」
「なら、明日も一頭を選んでくれ」
私は返事の代わりに桶から手を抜いた。指は氷水で固まり、握ろうとしても半分も曲がらない。爪の色も戻らず、掌から落ちる雫さえ拭えなかった。今日、もう一頭を診ることはできない。
立った馬を乾いた場所へ移し、休ませるため厚く藁を敷く。すぐ歩かせようとした騎手を止め、鼻先へ少量の水だけを置いた。立てたことと、働けることは別だ。この馬が再び鞍を受け入れるか、それを決めるのも今ではない。
最後に、下げられた飼葉桶を確認した。
雪へ半分埋まった桶から、甘酸っぱい臭気が立ち上っている。手をかざさず、固まった指の代わりに手首の内側を飼料へ押し当てた。
外気は凍るほど冷たいのに、濃い飼料の芯だけが異様に熱かった。
その隣では、まだ幼い一頭が水桶を向けられるたび、乾いた唇を固く閉ざしていた。
残り三十五頭。
(第2話へ続く)




