第9話 惜しい水晶、逃がせない一歩
水門から離れた支流で、俺は無限胃袋の中身を全部並べた。
肉は二欠片。鉱殻の小片。割れた板はもうない。そして、淡く光る水晶片が一枚。
黒殻鯰の低い唸りは、岩壁の向こうから近づいてくる。
「お財布の中身を全部出した日に限って、支払いが命なんだよなあ」
水晶片へ水を当てると、俺の魔力に似た揺れが広がった。囮として使えるかもしれない。ただし、置いて逃げれば回収できない。
拾ったときは、宝物だと思った。綺麗で、いつか何かに使えそうで、食べずに取っておいた。
「命と水晶。比べるまでもない。ないんだけど……惜しい! ものすごく惜しい!」
俺は水晶片を支流の中央へ置いた。周囲の砂を浅く掘り、囮水流を通す。偽物の揺れを残し、本体は岩棚の裏へ隠れる。
置いた水晶から身体を離し、胃袋を閉じた。
「ここで置いていく。戦いが始まったら、取りには戻らない。……聞き分けのいい持ち主じゃなくて悪いな」
第一手は囮。鯰が噛みついたら、その隙に左の穴へ逃げる。
水が重くなる。
黒殻鯰が現れた。殻に新しい傷が増え、白髭の一本が途中で折れている。さっきの狭い水路で岩に擦ったのだろう。そのぶん機嫌は最悪らしい。
鯰は水晶片へ向いた。
俺は喜びを噛み殺す。「そうそう。そっちだ。俺はもっと硬くて、光ってて、たぶん歯にもいいぞ」
白髭が水晶の周囲を撫でた。
巨体が止まる。
次いで、鯰の尾が水底を叩いた。
濁流が岩棚の裏へ回り込み、隠れていた俺を押し出す。
「また見抜いたのかよ! 偽物には厳しいな、お前!」
鯰は囮を食べない。水の重さを比べ、本体を先に追うことを覚えていた。
俺は左の穴へ飛び込もうとする。だが、白髭が穴の入口を塞いだ。前に使った逃げ道まで読まれている。
第一手も退路も潰された。
「賢くなるの、俺だけでよくない!?」
鯰の頭突きが岩棚を砕く。防水膜を張った瞬間、黒い額が身体へめり込んだ。膜が軋み、核が身体の中で跳ねる。
「ぐっ、ああっ……!」
岩へ叩きつけられ、視界が白く染まった。HPがごっそり削れた。次を同じように受ければ終わる。
水晶片は鯰の腹の下にある。戦う前に捨てた。それでも、踏まれる音を聞いた瞬間、決めたはずの悔しさが喉を突いた。
「返せとは言わない。けど、それ、俺が初めて宝物だと思ったやつなんだ。雑に踏むなよ!」
怒鳴っても鯰は止まらない。白髭が俺の位置を探り、尾が退路へ水を押す。
俺は水晶ではなく、その下の砂を見た。
拾わない。決めた言葉を飲み込まず、そのまま水晶へ狙いを定める。
「持って帰れない。だから最後まで、俺を帰す仕事をしてくれ!」
水晶片へ水刃を放つ。
ぱん、と青白い光が弾けた。
鯰が短く吠え、頭を光へ向ける。効いた。だが、目を閉じる代わりに尾を暴れさせた。見えないまま水路全体を薙ぎ払うつもりだ。
砕けた石と濁流が俺を追う。
「そこまでやる!? 宝物を壊した上に、俺まで壊す気か!」
俺は防水膜を厚くし、尾の波を受けた。
膜が裂ける。
身体の表面も裂け、核のすぐ外まで濁った水が入った。それでも、一撃で全部は崩れなかった。防水膜が、前より長く保っている。
痛みの中で気づく。膜が破れた場所を、別の水で塞げる。以前は張るか解くかだけだった。今は損傷した部分だけを閉じ直せる。
「まだ保てる……? 痛いけど、閉じる。そこだけ閉じろ! 俺、今は泣く場所じゃない!」
防水膜Lv2。
完全には守れない。それでも、二撃目までの数呼吸を買える。
鯰が光から立ち直り、口を開いた。支流の水が吸い込まれ、俺の身体が巨体へ引かれる。
前は吸われる水を横へ逃がすだけだった。今は流れ読みで、どの穴へ先に水が落ちるか分かる。水圧を入口の上ではなく、左下の細い溝へ押し込む。
鯰の吸引が一瞬だけ偏った。
「全部には勝てない。でも一瞬なら、俺の水だ!」
俺は右の亀裂へ身体を押し込んだ。
白髭が追い、入口の岩を削る。鯰は頭をねじ込み、亀裂を広げようとする。ここも長くは持たない。
水圧で砂を崩し、入口へ落とす。鯰の髭が砂を嫌って引いた隙に、さらに奥へ滑る。水晶の光が消え、背後は真っ暗になった。
悔しさが遅れて込み上げる。
「一枚で命を買ったなら安い……わけないだろ。高いよ。すごく高かった。でも、生きてる。だから無駄じゃない」
鯰が何度も入口へ頭をぶつける。岩が一撃ごとに割れる。
俺は核を縮め、水圧を最低限だけ維持した。魔力は残り少ない。強く押せば早く尽きる。弱すぎれば吸い出される。
鯰の吸引に合わせて押し、止まった瞬間は力を抜く。三回。四回。五回目で、白髭の動きが鈍った。
遠くから、きぃん、と金属の爪が岩を掻く音がした。
鯰の髭がそちらへ向く。低い唸りが、俺ではない相手へ向けられた。
巨体が亀裂から離れていく。
俺はすぐには出なかった。戦う前に捨てたはずの水晶へ、身体が勝手に戻ろうとする。亀裂の壁へ外膜を貼りつけ、その震えが収まるまで待ってから、奥へ進んだ。
狭い穴を抜けたところで、俺はようやく肉を一欠片食べた。熱が裂けた膜を塞ぐ。それでもHPは戻りきらず、核の痛みも残る。
無限胃袋の中が、急に広く感じた。水晶片があった場所だけ空いている。
「宝物入れ、空っぽになったな。次に拾った物は、ちゃんと持って帰れる使い方を考えよう」
それは約束というより、悔しさの置き場所だった。
前方の水路はさらに浅い。鯰の巨体は入りにくいが、俺も水刃を作りづらい。安全ではない。ただ、今の敵に不利な場所を選んだだけだ。
背後で鯰が吠え、別の獣の甲高い咆哮が応じた。
水路には、俺以外にもあの巨体を嫌う何かがいる。
「二体で俺を取り合うのだけはやめてくれよ。人気者になるなら、もっと平和な形がよかった」
軽口は震えた。それでも、足は止めなかった。
背後で、黒殻鯰が苦しげに水を叩いた。砕けた水晶の欠片が傷ついた髭へ残っているのか、低い唸りが途中でひしゃげ、巨体は追うのをやめて岩底へ顎を擦りつけた。
その音が遠のいた途端、俺の身体から力が抜けた。裂けた防水膜の内側がずきずき熱い。それでも、白髭がもう背中へ伸びてこない。その事実だけで、核の奥へ冷たい安堵が染み込んだ。
「痛い。悔しい。水晶もなくなった。……でも、俺は食べられてない。そこだけは、ちゃんと喜んでいいよな」
岩陰で無限胃袋を開く。肉は一欠片、鉱殻は二片。水晶片はゼロ。HPは二十四、魔力は二十まで落ちている。もう一度あの吸い込みを受ければ、今度は膜を張り直す余裕がない。
空いた場所へ身体を触れさせると、返ってくるのは自分の震えだけだった。俺は胃袋を閉じ、振り返らずに浅い流れの先へ進んだ。
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