第10話 支流の向こうへ
この浅い支流へ入る直前、俺は残っていた肉を一欠片と、鉱殻リザードマンから取った小さな魔石を吸収した。
HPは動けるところまで戻り、魔力にも少し余裕ができた。代わりに食料は空っぽ。次の戦いは、勝っても負けても腹ぺこで終わる。
「先に食べた分、ちゃんと生き延びろよ。俺の胃袋への借金だからな」
黒殻鯰の唸りと、金属を擦るような咆哮が、前後から交互に響いた。
俺は浅い支流の真ん中で固まっていた。
後ろには黒殻鯰。前方の岩棚には、四本の鉄爪を食い込ませた大猫。黒い毛並みの間から銀色の筋が走り、赤い目が俺を見下ろしている。
鉄爪猫。
逃げ込んだ先が別の縄張りだったらしい。
「前門の猫、後門の鯰。ことわざとしては新しいけど、俺はまったくうれしくない!」
鉄爪猫が甲高く吠えた。岩棚を掴む爪から火花が散る。下の水路では、鯰の白髭が入口を探っていた。
鳴き声が交互に来るたび、俺は二体が合図を返しているように思えた。前後から追い込み、浅い場所で挟むつもりだ。
「相談するなら俺の聞こえない所でやってくれ。挟み撃ちの作戦会議なんて、参加したくないぞ」
使える素材は、鉱殻の小片が二つ。水晶も板も食料もない。魔力は少なく、HPも全快ではない。
「できることを数えよう。水を押せる。流れを読める。ちょっと速い。材料は二個。……よし、少ない! 泣きたい!」
猫が岩棚を蹴った。
速い。
俺は流れ読みで着地点を探るより先に、右へ飛んだ。鉄爪が水底を抉り、さっきまでいた場所に四本の溝を刻む。
避けた先へ、黒殻鯰の濁流が来た。
身体をすくわれ、猫の前へ押し戻される。爪が防水膜を掠め、膜の表面に白い亀裂が走った。
「やっぱり合わせてきた! 前と後ろで押し返す気だな!」
猫が低く唸り、俺ではなく鯰へ牙を見せた。鯰の白髭も、次は俺を越えて猫の脚へ伸びる。
俺は二体が次の合図を待つと思い、攻撃の間へ止まってしまった。俺は猫の横薙ぎに巻き込まれ、鉄爪が防水膜ごと身体の端を裂く。遅れて鯰の濁流が傷口へ入り、核が岩へ叩きつけられた。
「があっ……違う。こいつら、俺を挟んでるんじゃない。俺ごと、互いを殴ってる!」
二体の意図を読み違え、自分から攻撃の交点へ入っていた。もう一度同じ場所にいれば、次は膜では済まない。
倒すのは捨てる。二体の間を抜け、支流の向こうの石橋まで退く。そのために、猫には動く物、鯰には重い流れを別々に見せる。
俺は囮水流を石橋側へ放つ。猫は揺れを追って首を動かしたが、鯰は無視し、本体の俺へ向かった。もう囮では騙せない。
第一手は失敗。
「鯰は俺を読む。猫は動く物を追う。同じ罠じゃ駄目だ。じゃあ、別々に釣る!」
俺は鉱殻の一つを岩棚の端へ投げた。
硬い音に猫の耳が立つ。だが飛びつかない。赤い目は俺と殻を往復し、罠を疑っている。
次に、二つ目の鉱殻を石橋の手前へ滑らせた。水圧で殻を小刻みに動かす。
猫の肩が沈んだ。跳ぶ構えだ。
「一個目は音。二個目は動き。そうそう、そっちだ。でも飛ぶのは、まだ――」
黒殻鯰が口を開いた。
支流の水が一気に吸われ、動かしていた鉱殻が鯰側へ戻る。猫の視線もこちらへ戻った。
また読みが外れた。
鯰の吸引が強すぎて、素材を狙った場所へ置けない。
「俺の罠を勝手に片づけるな! 材料、もう残ってないんだぞ!」
叫びながら、俺は吸われる鉱殻を無限胃袋へ回収した。一つは戻った。もう一つは鯰の口へ消えた。
残り一個。
鉄爪猫が二度目の跳躍を放つ。俺は防水膜を左だけ厚くし、爪を受け流した。膜が裂け、身体が石橋側へ弾かれる。
痛みで視界が揺れたが、位置は進んだ。
「っ……左だけなら、まだ裂け切らない。橋まで持てばいい!」
猫が着地した段差の下には、砂が溜まっている。鯰の吸引で水が引けば固くなり、尾の濁流が来れば緩む場所だ。
俺は流れの順番を読む。
口が吸う。水位が下がる。猫が踏み込む。次に尾が水を戻す。
狙うのは、尾の水が来た瞬間。
「早く飛べ。いや、飛んでほしくないけど、今だけ飛べ! 俺の都合に合わせてくれ!」
猫が牙を剥き、岩棚から跳んだ。
鯰の尾が水路を打つ。
水位が跳ね上がる。
俺は残った鉱殻を段差の亀裂へ差し込み、水圧を一点へ押し込んだ。
「水圧制御――そこだけ崩せ!」
亀裂の砂が抜け、鉱殻が楔のように岩を押し開く。
猫の前脚が着地した瞬間、段差が崩れた。
鉄爪猫は悲鳴に近い咆哮を上げ、壁へ爪を立てる。落下は免れたが、身体が水路へ半分垂れ下がった。
そこへ黒殻鯰の頭が突っ込む。
猫は俺ではなく鯰へ爪を振った。鉄爪が黒い殻を削り、火花と鱗片が飛び散る。鯰は怒りの低音を響かせ、猫ごと壁へ押しつけた。
二体の注意が、初めて俺から外れた。
「今だ。勝つんじゃない、帰るんだ! 動け、俺!」
俺は石橋へ走った。
背後で猫が跳ね上がり、鯰の白髭を切る。鯰の尾が水を打ち、石橋まで濁流が届く。薄い身体を岩へ貼りつけ、流されないよう水圧を横へ逃がした。
石橋の中央で、表面がぬるりと滑った。
身体の半分が崖側へ落ちる。
「うわあっ! 橋まで来て落ちるのはなしだ、端でもいいから貼りつけ!」
防水膜を橋へ吸いつかせ、残った半身を引き戻す。猫の爪が背後の岩を掻いた。追ってきたのだ。
振り返る。猫は傷ついた前脚をかばい、片側だけで跳ぼうとしている。鯰は狭い入口に頭を詰まらせ、白髭をこちらへ伸ばす。
どちらも諦めていない。
魔力はあと一度、水圧を使えば危ない。素材はゼロ。逃げ道は石橋の向こうだけ。
俺は橋の端に残る薄い水を、猫の踏み切り側へ集めた。大きな罠ではない。ただ滑りやすくするだけ。
猫が跳ぶ。
濡れた前脚が滑り、爪が橋の縁を掠めた。届かない。
鯰の白髭が猫の尾へ絡み、二体の咆哮が重なった。
俺は橋の向こうへ転がり込んだ。
しばらく動けなかった。核が痛い。魔力は空に近い。怖さで身体が細かく震え続ける。
それでも、背後の音は遠ざかっている。
「逃げ切った……。今度こそ、逃げ切った! やった、俺、生きてる! 怖かったあ! 本当にもう駄目だと思った!」
喜びのまま跳ねようとして、疲労でぺしゃりと潰れた。
「……お祝いの体力、残してなかった」
自分で笑い、無限胃袋を開いた。食べ物はもうない。鉱殻も水晶も板も使い切った。残ったのは、身体と覚えた手順だけだ。
「勝ったご褒美が空腹かあ。厳しい。でも、食べる口が残っただけ大勝利だ」
前なら、鯰の流れを読むだけで精一杯だった。今は猫の着地と、鯰の吸引、尾の濁流を順番に見て、罠を発動する瞬間を選べた。
石橋の向こうから二体の声が重なる。今度は合図には聞こえない。互いを追い払おうとする、傷ついた声だった。
石橋の先には、小さな滝が落ちていた。丸い水溜まりに魚の骨と赤い石が沈み、三本の流れが別方向へ分かれている。
食べ物かもしれない。素材かもしれない。罠かもしれない。
俺はすぐには飛びつかず、まず流れを読んだ。
「帰る道、深い道、細い道。よし、先に細い道を確かめる。食べるのは戻れるって分かってからだ」
泡を一筋だけ送り込む。細い道から泡が戻ってきた。俺なら通れる。
そこで初めて、小さな魔石を一つだけ無限胃袋へ収める。赤い石には触れない。
背後で鉄爪猫が一度吠え、黒殻鯰の唸りが重なった。二体はまだ争っている。
「仲良く喧嘩しててくれ。俺は先へ行く。あと、できれば二度と会わない方向で!」
怖さは消えていない。けれど、怖いまま順番を選べるようになった。
俺は滝の裏へ続く細い岩棚へ、慎重に身体を滑らせた。
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