第11話 骨鎧の重さ
黒殻ナマズと鉄爪猫の縄張り争いを抜けた水路の先で、骨が石を叩いた。からん、からん、と乾いた音が階段を下りてくる。水を踏む足音ではない。水を避けながら、その水場を自分のものにしている音だった。俺は出口の陰へ身体を寄せ、音が一段下りるたびに、水面の細い震えを数えた。
保有していた水一単位のうち、半単位だけを表面に集める。残りは胃袋の奥へ置いたままだ。食料はゼロ。直前の逃走を終えた俺は、HP31/38、魔力25/44。レベル四になって底は広がったが、満タンではない。新しく得た水圧制御を、逃げ道を作るために使いたい。その熱が、裂けた膜の痛みより先に核を押した。黒殻ナマズには通じた。なら次も通じるかもしれない。俺はその「かもしれない」を、準備より先に選びかけていた。
階段の中央に、骨鎧守護者は立っていた。四肢は太い骨、胸と背は鈍い灰色の鎧。鎧の継ぎ目を青い膜が走り、脈打つたびに内側でごり、と歯車のような軋みが鳴る。頭骨の奥には青い火が二つ。こちらを見ているのに、守護者は一歩も水路へ降りなかった。前脚の爪は段の縁を掴み、後脚は水を避けた高い石へ置かれている。大きい身体を、狭い階段へぴたりと噛み合わせていた。
俺は水中感知を薄く広げた。足裏から階段の内部へ、青い膜が何本も伸びている。守護者は身体の重さを水ではなく、迷宮の壁と段へ分けて預けていた。右足から壁へ、胸から段の奥へ、背から天井の裂け目へ。膜は足場ではなく、重さを受け渡す綱だった。一本を押しても、他が余った重さを抱える。
けれど、綱があるなら綱を切ればいい。俺は右足の膜だけを選んだ。
「その鎧、どう見ても俺より高いよな。なのに狙うのが足払いって、我ながら夢が小さい。……でも、生き残る夢としては満点だ。右足、借りるぞ!」
言ってから、相手に頼んでどうする、と自分で恥ずかしくなった。だが、右足の膜だけが他より細い。怖くても、見つけた弱い線を見なかったことにはできない。
黒殻ナマズで覚えた通り、半単位の水を右へ寄せる。膜の一本が震え、守護者の踵が半歩ずれた。骨鎧の肩が傾き、爪先が石を掻く。成功だ、と核が軽くなった。水の圧は足元へ届いた。ここで同じ場所をもう一度押せば、鎧を倒せる。そう判断し、俺は次の水の形を作り始めた。
だが、守護者は倒れない。
「待って待って、今ちゃんと傾いたよな? そこは倒れる流れだろ。踏ん張るなよ、階段まで味方にするのは反則だって!」
核の奥がきゅっと縮んだ。あの巨体は、俺の水圧を受けても姿勢を直す。強い、なんて言葉では足りない。階段そのものが、あいつの身体みたいだった。胸の奥で、がちり、と硬い音がした。切れかけた右足の流れを、胸の膜が受け直す。青い線は一つ消え、二つ増えた。守護者は傾いた肩を戻し、代わりに左の爪を深く食い込ませる。俺が次の圧を作るより早く、前脚が落ちた。
防水膜を厚くした。
「水刃! 倒れなくていい、爪の向きだけ――うわ、来る、来る来るっ!」
叫んでから、俺は自分の声が震えていることに気づいた。格好つけている場合じゃない。核に一撃もらえば終わる。骨爪は膜を押し潰し、俺の身体ごと階段へ叩きつけた。石の冷たさが核まで届く。散った水が段の目地へ吸われ、守護者の鎧は軋み一つで姿勢を戻した。膜を厚くするほど水は散り、散った場所ほど俺の身体は薄くなる。守ったはずの行動が、次の一撃の通り道を増やしていた。
「侵入者。中央より退け」
低い声は、口からではなく胸の鎧を震わせて響いた。追い払うための怒鳴り声ではない。守る場所を確認するための短い命令だ。青い火は俺ではなく、俺の後ろの水路も見ている。俺は返事をせず、左へ圧を逃がした。中央に残れば爪が来る。ならば壁際へ出ればいい、と考えたからだ。
得られたのは速度だけだった。身体は壁際へ滑ったが、逃げた先には守護者の後脚がある。爪が石を削り、俺の通り道を塞ぐ。水圧制御は攻撃を止める技能ではない。押した力が自分をどこへ運ぶかまで決めなければ、回避ではなく移動になる。俺は壁へぶつかる前に身体を丸め、膜を薄くして爪の影から抜けた。
その隙に俺は水刃を一枚だけ作り、胸の膜へ置いた。細い刃が青い線を裂く。膜の感触は肉ではなく、濡れた縄を切ったようだった。けれど骨鎧は残り、裂けた膜は階段の奥へ引かれた。別の接続が水を受け、守護者の体重を支え直す。二枚目を作れば、帰りに使う水がなくなる。俺は刃を消し、後ろへ退いた。
守護者は追わない。頭骨の火だけをこちらへ向け、中央を守る姿勢を崩さない。追わないなら、戻れる。そう判断した瞬間、背後の水路へ骨針が飛んだ。
ひゅ、と空気を裂いた針は、逃げ道の浅瀬へ突き刺さる。水が跳ね、次の針がその波紋をなぞった。守護者は動かずに退路だけを削れる。一本目は進む方向を変えさせ、二本目は変えた先へ来る。俺は防水膜を一点へ寄せ、核の位置を少しだけずらした。一本目は表面を裂き、二本目はすぐ後から来る。針の間隔が短い。考える時間まで、鎧の側に奪われていく。
「針を投げるだけでも嫌なのに、逃げた先へ二本目? お前、見た目より性格が細かいな!」
核がひやりと縮み、散った水が身体の端からこぼれた。だが針の横へ寄せた水は、壁ではなく中央へ跳ね返っている。守護者の足元に戻されたのは失敗だが、反動の向きは見えた。
「まず一本を壁へ捨てる。よし、できる。次は――って、反動が俺を戻すのかよ! 違う違う、そっちは骨の足元!」
残した半単位の水を押し返す。圧が針の横を叩き、骨針は壁へ逸れた。代わりに反動が俺を中央へ引いた。守護者の足元へ戻され、青い膜の影が核を覆う。針を外せても、圧を返した先が敵の領分なら意味がない。俺は一つ助かるために、次の一歩を守護者へ渡した。
失敗だった。水路で覚えた勝ち方を、階段へそのまま持ち込んだ。黒殻ナマズは流れの中にいた。骨鎧守護者は、流れを含む階段全体を足場にしている。敵の身体だけを敵だと思った。重さを受ける壁、段、青い膜までを一つの身体として数えなかった。
俺は身体を二つに割った。小さい方を針の前へ膨らませる。囮が裂ける音に合わせ、核を含む側を階段裏へ落とした。守護者の骨爪が水路を叩く。ごん、と迷宮の奥まで鳴り、青い膜が下へ伸びた。膜を押せば、胸の鎧はわずかに開く。俺はその隙を見た。今なら、さっき切った線より深く届くかもしれない。
だが同時に、守護者の鎧から細い針が伸びる。狙いは膜ではない。俺が押し返した水圧の戻りを読み、核のある側だけを選んだのだ。守護者は俺を目で探していない。水の戻り方を読んでいる。押せば押すほど、こちらは位置を知らせることになる。
防水膜が破れた。身体の端が裂け、冷たい水が薄くなる。俺は核だけを水路へ落とし、流れ読みで壁裏の細い排水路を探した。入口は守護者の膜の下にある。水圧制御を使えば潜り込めるかもしれない。だが魔力は、もう一度のために残っていない。入った後に膜が閉じれば、今度は逃げ道そのものを失う。使える技能を残すのではない。使わずに残る道を選ぶべきだった。
俺は技を使わなかった。
「無理だ。悔しいけど、今の俺じゃ勝てない。……逃げるぞ。格好悪いのは、生きてからいくらでも反省できる!」
悔しくて、逃げる自分を叩きたくなった。それでも、守護者の青い火を見た瞬間、別の声が核の内側で叫んだ。生きろ。次に来い、と。身体を薄くし、骨爪の隙間を滑る。爪が端を抉ったが、核は残る。排水路へ転がり込むと、背後で骨鎧の足音が止まった。からん。からん。守護者は俺を追わず、中央へ戻っていく。追わないのは見逃したからではない。そこから離れる必要がないほど、階段の重さを支配しているからだ。
排水路へ滑り込んだ時点で、HPは30/38、魔力は24/44。食べ物はない。壁を伝う冷たい水で膜の端を湿らせても、傷は閉じなかった。
「食料ゼロ、追撃あり。今日の俺の待遇、だいぶひどくない? せめて傷口にやさしい水を希望します」
文句を言っても回復はしない。それでも、前なら傷を押さえるだけで動けなかった。今は膜の薄い場所だけを湿らせ、核を動かせる。強くなったというより、傷ついたままできることが一つ増えた。
排水路の入口、最初の分岐、まだ戻れる限界へ、水滴を一つずつ残した。最初の滴は震えない。二つ目は階段側へ細く引かれた。三つ目を置いた途端、胸の裂け目がずきりと鳴り、俺はそれ以上進めなかった。
遠くで、乾いた骨が一つ転がった。戻りたい。今すぐ安全な水へ潜りたい。けれど階段側へ引かれた滴の先には、あの青い膜がある。俺は声を殺し、骨音と反対の暗がりへ身体を滑らせた。
その直後、目印に残した水滴が弾けた。守護者は追ってこない。代わりに、青い膜へ預けた骨針を排水路の曲がり角まで走らせてきたのだ。
「まだ届くのかよ! 負けた相手への追い打ち、礼儀が重すぎる!」
水圧を壁へ当て、身体を反対側へ押し出す。一針目は外れた。二針目は、俺が押した水の戻りへ正確に重なった。裂けかけた膜がえぐられ、HPが30から24へ、回避と補修で魔力が24から20へ落ちる。
痛みで核が跳ねた。それでも、二本目を受ける直前、針を運んだ青い膜が階段側へ張るのを見た。一本目では「飛んできた」としか思えなかった。二本目で、針の通る順番まで見えた。あいつは遠くまで自由に撃てるんじゃない。預け先とつながった線の上だけを狙っている。
流れ読みがLv1からLv2へ上がったのは、勝ったからじゃない。一本目を見失い、二本目でやっと順番を拾ったからだ。
「やった、見えた。……いや、やったじゃない。すごく痛い。でも次は、二本目が来る前に動ける!」
「痛っ……まだ来るのか。あの線、中央まで張ってる。切るな、触るな。今はここから離れろ、俺!」
遠くで、青い火が一度だけ膨らんだ。勝者の誇示ではない。中央へ戻り、次の侵入に備える無機質な光だった。俺は裂けた身体を寄せながら、その冷たさごと覚えた。
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