第8話 一滴の罠と水路の声
黒殻鯰の気配が遠のいても、俺はしばらく岩陰から出られなかった。
逃げ切った。Lv4にもなった。なのに、白髭が水を叩く音を思い出すたび、身体の表面が勝手に波打つ。
「怖くない。いや、怖い。すごく怖い。ここで嘘をついても俺しか聞いてないし、正直にいこう」
無限胃袋から肉を出し、半分だけ吸収する。傷が閉じ、HPは戻った。残りの肉、鉱殻の小片、薄い板が一枚。黒殻鯰へ挑むには、頼りない在庫だ。
それでも、追いつかれる前に仕掛けが要る。
支流は幅が狭く、中央に浅い砂溜まりがある。鯰が突っ込めば腹が擦る。板を片側だけ砂へ埋め、水を当てて傾ければ、腹の下の砂を崩せるかもしれない。
「板一枚、水一滴。罠というより、貧乏工作だな。大丈夫。貧乏でも命を守れたら豪華だ」
俺は板を渡し、水を一点へ押した。
ぱきん。
板は中央からきれいに割れた。
沈黙のあと、俺は破片を拾う。
「……今のは板が悪い。いや、押しすぎた俺が悪い。板、ごめん。できれば割れる前に言ってほしかった」
水圧を一点へ押し込めるようになったからこそ、力加減を誤った。できることが増えても、上手くできるとは限らない。
遠くで黒殻鯰が低く鳴く。
もう一枚はない。割れた二片で、別の仕掛けを作るしかない。
そのとき、水門の奥から女の声がした。
「そこ、触らないで」
俺は文字どおり飛び上がった。身体が丸く跳ね、割れた板を水へ落とす。
「うわっ! 誰!? 先に声をかけるなら、もう少し優しい音量で頼む!」
岩棚の向こうに、淡い青髪の少女が立っていた。水面へ溶けそうな白い肌。細い身体を青い布で包み、こちらではなく、俺が崩した砂を見つめている。
きれいだと思うより先に、怒らせたらまずいと感じた。彼女の足元だけ、水が鏡みたいに静かだったからだ。
「その砂を水門へ流さないで。流れが死ぬ」
「流れが……死ぬ?」
俺は水門を見た。石の隙間から細い水が奥へ吸い込まれている。崩した砂は、確かにそちらへ向かっていた。
「ごめん、分からない。あの砂が入ると、何が起きる?」
少女はすぐには答えなかった。黒殻鯰の鳴き声に目を向け、水門と俺の距離を測るように視線を戻す。
「奥の水路が詰まる。小さな命から、先に息ができなくなる。あなたは逃げられても、あの子たちは逃げられない」
俺は答えず、砂から身体を離した。崩しかけた縁へ伸び、流れ込む前の砂を一粒ずつ窪みへ押し戻す。
助けてくれ、と言うつもりだった。でも、その言葉を出せば、彼女に水門を捨てさせることになる。
砂の筋が止まってから、ようやく顔を上げた。
「ここは使わない。……助けてほしいのは本当だけど、そっちを詰まらせてまでとは言えない」
少女の目が初めて俺へ向いた。警戒は消えない。ただ、追い払うだけの冷たさが少し薄れた。
「本当に?」
「本当に。俺は食いしん坊だけど、知らない誰かの水まで食べる趣味はない」
冗談は滑った。少女の表情は動かない。
「……今の、笑うところだったんだけど」
「笑えない」
「はい。反省します」
黒殻鯰の鳴き声が近づいた。支流の入口で、水が一度大きく盛り上がる。
少女は水門側へ一歩下がった。「あれを連れてきたの?」
「違う! 俺が誘ったみたいに言うなよ。向こうが俺を晩ご飯にしたがってるんだ!」
「なら、水門へ来させないで」
静かな声だった。けれど足元の水が震えた。彼女も怖いのだ。それでも、水門から離れない。
俺は割れた板を見た。敵を止める板ではなく、流れを知らせる印なら使える。二片を別々の溝へ立て、どちらが先に倒れるか見れば、鯰の接近方向が分かる。
「止められない。でも、曲げる。水門と反対へ一度だけ誘う。それで駄目なら、俺が横穴へ逃げる」
少女は板と砂を見比べた。「砂をこちらへ流さないで」
俺は返事の代わりに、水門側の溝へ身体を伸ばした。砂が一粒でも境を越えれば、罠より先に俺へ触れる位置だ。
「そこにいると、逃げるのが遅れる」
「分かってる。だから、ここにいる」
少女はわずかに頷いた。
最初の板を外側の溝へ刺す。二つ目は水門から遠い窪みへ。俺は流れ読みで泡の順番を追い、水圧を細く保った。
最初の板へ触れる泡を追い、砂を切る位置へ身体を寄せる。二つ目が倒れたら、残した水を押す。祈る余裕は、そのあとに残っていれば使う。
少女が水門の奥から言う。「最初の板、向きが逆」
俺は板と流れを見比べた。喉の奥まで出かかった反論を飲み込み、黙って板を抜く。反対向きへ差し直すと、今度は水が板の面を押した。
「……今のまま待ってたら、倒れない板を信じて食べられてた」
「今も少し格好悪い」
「少しで済んだ。やった」
少女の口元がほんのわずかに動いた。笑ったのかは分からない。
一枚目の板が倒れた。
「来た。入口、右側。次に中央の泡が潰れたら、あいつが曲がる!」
「水門から離れて」
「分かってる。そっちも奥へ下がれ!」
黒い頭が支流へ突っ込んだ。鯰は前回と同じく囮の揺れを無視し、本体の俺へ向く。
二枚目の板が倒れる前に、白髭が砂へ触れた。
読まれた。
鯰は板を尾で叩き割り、仕掛けの水ごと散らした。俺の初手は潰された。
「うそだろ、板に恨みでもあるのかよ!」
巨体が迫る。水門へ向かう砂が一筋、舞い上がった。
少女の声が鋭くなる。「砂!」
俺は返事をせず、逃げるより先に水門側の流れへ身体を伸ばした。水圧を反対へ押し、舞った砂だけを窪みへ戻す。そのぶん鯰との距離が詰まる。
白髭が背中を打った。防水膜が裂け、HPが削られる。
「痛あっ! もう、髭ってもっと優しい物だろ!」
痛みで集中が切れかける。それでも、戻した砂は水門へ入らなかった。
少女が息を呑む。「どうして、先に逃げなかったの」
「俺が壊した砂だからだよ! あと、その質問は逃げた後にしてくれ!」
俺は残った水を鯰の腹の右へ押し込む。倒せない。一瞬傾けるだけでいい。巨体が岩へ擦れた隙に、左の横穴へ身体を滑らせた。
背後で少女が叫ぶ。「そこ、二つ先で行き止まり!」
「先に言ってえっ!?」
慌てて一つ目の分岐を曲がる。鯰の頭が後ろの岩を砕いた。薄暗い水路を抜け、別の支流へ転がり込む。
追撃音が止まったところで、俺は壁へ潰れるようにもたれた。
水門の少女は来ない。水を守るため、あそこに残ったのだろう。
「名前も聞けなかったな。こっちは怒られて、道を教えてもらって、ちょっと助けた。……うん、次に会ったら、最初に名乗ろう」
板は全部失った。HPと魔力も減った。それでも、水門は詰まらず、俺も生きている。
遠くから、少女の声が水を伝って届いた。
「流れを見て」
今度は叱責ではなく、次に生き残るための言葉に聞こえた。
「見てる。今度は向きも間違えない」
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