第7話 水を押す黒い影
支流へ逃げ込んだ俺を、鳴き声より先に水が追ってきた。
足元の泡が一斉にこちらへ押し戻される。流れに逆らう力が、曲がり角の向こうで膨らんでいる。
「見えないのに水だけ来るって、怖さの出前サービスかよ。頼んでない。返品したい」
ごぼり、と巨大な泡が弾けた。
倒れた柱の陰から、黒い頭が持ち上がる。岩を何枚も重ねたような殻。俺の身体より長い白髭。口を開いただけで周囲の水が吸い込まれ、砕けた石が歯の奥へ消えた。
黒殻鯰アイアンキャット。
名前を知らなくても分かる。あれは勝負を挑む相手ではない。見つかった時点で逃げる相手だ。
「大きすぎるだろ! あの口なら俺、噛まれる前に飲まれる。味わってもらえないの、ちょっと失礼じゃないか!?」
黒殻鯰の白髭が水面を叩いた。
俺が水刃を作るより速く、巨体が突っ込んでくる。
頭突きが岩壁を砕いた。俺は左の隙間へ飛び込んだが、尾が起こした濁流に巻かれ、反対の壁へ叩きつけられる。防水膜がたわみ、核の奥に鈍い痛みが走った。
「ぐっ……! 待って、今のは駄目だ。真正面で受けたら、俺が平たい染みになる!」
鯰は止まらない。白髭を広げ、濁りの中から正確にこちらを向いた。
濁りの中でも頭がこちらへ向く。白髭の隙間から、俺の輪郭が見えているらしい。
俺は囮水流を右へ放ち、本体を左へ走らせた。
鯰の頭が囮へ向く。
「よし、見てる。あの揺れを俺だと思ったな!」
次の瞬間、尾が左の壁を打った。
逃げた先へ濁流が回り込み、本体の俺を押し戻す。見えない囮へ頭を向けたまま、尾だけでこちらを薙いできた。
「見ないまま暴れるのかよ! 外れた方までまとめて潰す気だな!」
白髭が横から迫る。避けきれず、表面を削られた。冷たい痛みが走り、身体の一部が水へ散る。
恐怖で核が縮んだ。頭の中に「逃げろ」しか残らない。
それでも、鯰の尾が動く直前、足元の泡だけが先に曲がったのを見た。
右へ曲がる前には尾が左へ沈む。突進の直前には、口元の水が吸われる。白髭が開く前には、水面の砂が外へ押し出される。
「頭は囮の方だ。尾だけ見ろ……左へ沈んだ、右へ来る!」
俺は右の裂け目へ滑り込む。
直後、鯰の頭が左の岩を粉々にした。
読み勝った――そう思った。
喜びかけた俺の前で、鯰が身体をくねらせる。今度は尾で右側の出口を塞ぎ、頭をゆっくりこちらへ向けた。速さではなく、逃げ道を潰しに来た。
囮を見破ったのではない。二度目の横逃げを警戒して、両側を潰しに来たのだ。俺はそう決めつけた。
「二回目は塞ぐ、と。学ぶのが早いな。俺だって、同じ穴へは逃げないぞ」
返ってきたのは、腹の底を揺さぶる低音だった。
後ろは浅い窪み。前は鯰。窪みの水は薄く、巨体なら腹を擦る。俺も動きづらいが、差はある。
俺は浅瀬へ飛び込んだ。
鯰が追う。黒い腹が岩底を削り、速さが落ちる。ここで水刃を撃っても殻は切れない。必要なのは傷ではなく、傾きだ。
俺は腹の左側へ水を集めた。水圧で押し返そうとする。
水は広がり、力が逃げた。巨体はびくともしない。
「ですよね! 知ってた! いや、半分くらいは期待してた!」
鯰の頭が振り下ろされる。俺は横へ転がったが、殻の端に巻き込まれ、防水膜ごと潰された。核のすぐ脇まで衝撃が届く。
痛い。次は受けられない。
Lv3の俺には、水を横へ逃がすことはできても、一点へまとめて押し込むことができなかった。囮を二つに分けるのとは違う。散ろうとする水を、狙った場所だけに留める必要がある。
鯰が向きを変える。腹の右下には、岩が一つだけ出っ張っている。そこへ水を押し込めば、巨体全部ではなく、片側だけを持ち上げられる。
「全部動かそうとするから無理なんだ。お前は大きい。でも、右の腹一枚なら――!」
核の奥が熱く脈打った。
散っていた水が細い一筋へ集まる。前には保てなかった圧が、岩と腹の隙間へ食い込んだ。
「持ち上がる……! 散るな、その岩の先に残れ!」
鯰が濁った息を吐き、頭を振る。水圧が散らされかける。俺は水を増やさず、押す場所だけを岩の先へずらした。
黒い巨体が、わずかに傾いた。
その一瞬に腹と岩の間を抜ける。
白髭が背後から飛び、身体の端を掠めた。俺は痛みに声を上げながら、さらに細い横穴へ転がり込む。
「うああっ! 通れ、端は置いていけても核は置いていけない!」
鯰は怒り狂い、横穴へ頭をぶつけた。岩が割れ、入口が広がる。一度目の避難場所が、二度目も安全とは限らない。
俺は奥へ進み、岩の小穴へ身体の一部を差し込んだ。鯰が口を開く。水が吸われ、身体が入口へ引かれる。
さっき覚えた水圧制御で、吸われる水を横の穴へ逃がす。強く押せば気づかれる。細く、長く、必要なぶんだけ。
核が焼けるように熱い。魔力が削れていく。
「頼む、もう帰ってくれ。俺、今日の授業料は髭で払った。十分だろ……!」
鯰は何度も入口を叩いた。やがて遠くで別の水音がすると、白髭をそちらへ向ける。尾が一度だけ大きく揺れ、巨体はゆっくり水場へ戻っていった。
音が消えても、俺は動かなかった。
一つ、二つ。五つ数えても怖い。十まで数え、ようやく小穴から身体を抜いた。
「いない……? 戻って、こない?」
声を落としても返事はなかった。そこでようやく、俺は追われた流れを最初からたどり直した。
囮へ向いた頭。左へ逃げた本体だけを押し戻した尾。横穴の奥まで迷わず届いた白髭。もし目で追っていたなら、濁りの向こうの俺へあれほど正確には届かない。
「違う。囮を見たんじゃない。最初から、重い方が俺だって分かってたんだ」
勝ったつもりの一手は、一度も騙せていなかった。気づいたのが横穴の外だったら、次の尾で終わっていた。
安堵で身体が浮きかけたが、すぐに壁へへばりつく。水音で戻ってこられたら、今度こそ笑い話にもならない。
核の奥で、遅れて熱が弾けた。散った身体が引き戻され、髭に削られた傷が内側から塞がっていく。身体を満たす水と魔力の量が、さっきまでとは明らかに違った。
「うわ、増えた。身体も魔力も、ちゃんと増えてる! それに速い。前なら穴へ入る前に髭をもう一発もらってた。……レベルが上がるって、表示だけじゃないんだな」
傷へ肉を少しだけ当てる。全部食べたくなるのを我慢し、残りを胃袋へ戻した。
俺は囮を作る代わりに、流れへ身体の端を沈めた。自分の重さがどんな波を返すのか、さっきまで敵だけが知っていた答えを、今度は俺が拾う。
浅い支流の先から、きぃん、と爪が岩を掻く音が響いた。
鯰とは違う。軽くて、速い音だ。
俺は笑うのをやめた。
「次の授業、始まるの早すぎない?」
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