第6話 倒れる柱、逃げない一歩
水路を曲がった途端、鉱石の穂先が鼻先――鼻なんてないけれど、たぶんその辺――を貫いた。
身体を平たくしていなければ、真ん中を串刺しにされていた。
「ひゃっ……! ちょ、待て待て! 再会の挨拶が物騒すぎるだろ!」
半身を水に沈めた鉱殻リザードマンが、石の盾越しに赤い眼を細めた。頭の後ろに並ぶ黒い鱗は濡れた鉱石のように硬く、槍を引く腕は俺の身体より太い。
そいつが低く喉を鳴らす。ごろごろと岩を噛み砕くような音が水路を這い、腹の底まで震わせた。
前に槍と盾で追い立てられ、罠を組み直してようやく退けた個体だ。今日は逃げ切った先で、もう一度向き合う。背後には細い支流、正面には広い水場。そして無限胃袋の肉は、あと一食にも足りない。
逃げれば生きられる。ただし、次に喉が渇いたときの保証がない。
「俺は水。あっちは水場の番人。うん、交渉の余地は……その槍を見る限り、なさそうだな!」
リザードマンが踏み込んだ。盾が水を押し分け、槍が真っすぐ核へ走る。
俺は右へ身体を流した。穂先は外れたが、槍が巻き起こした水圧に側面を叩かれる。防水膜が大きくへこみ、そのまま岩壁へ押しつけられた。
「ぐえっ……刺さってない方でこれか。槍の本番、ますます受けたくないな!」
冗談を言っている間にも、二撃目が来る。今度は盾を前に出し、俺を支流側へ追い詰める動きだ。力任せに見えて、逃げ道を分かっている。
正面から水刃を当てても、あの鱗には通らない。前に試して、傷一つつかなかった。
俺は敵の顔から視線を外した。水底。盾の端。槍の間合い。その背後に、天井を支える一本の鉱柱が立っている。根元だけ砂が深く、流れに削られて細い溝ができていた。
柱を倒せば、あいつの立つ場所を潰せる。
ただし、外せば俺が潰される。
「手は震えない。手がないからな。……狙うなら、あの細くなった根元だ」
俺は左へ薄い水の筋を走らせた。水場の再戦で偶然できた、身体を二方向へ残す動き。今度はただの水溜まりではなく、逃げる俺みたいに揺らしてみる。
ところが、囮へ魔力を込めすぎた。本体の輪郭まで引っぱられ、俺自身が左へずるりと流れる。
「違う違う! 偽物に本物がついていってどうする!」
リザードマンの目は囮ではなく、崩れた本体を追った。槍が伸びる。俺は身体を丸め、穂先を外膜で滑らせた。浅い傷が走り、囮はただの飛沫になって消える。
失敗だ。水の量が多すぎる。敵を騙すのに、俺一人ぶんの水はいらない。必要なのは、目を向けさせる一度の揺れだけ。
俺は左へ、今度は糸ほど細い水を送った。先端だけを一度跳ねさせ、すぐ魔力を切る。
リザードマンの赤い眼が、ほんの一瞬だけ左へ動いた。
意識の奥で、新しい名が浮かぶ。
囮水流Lv0 → Lv1(+1)。
「よし、今のなら俺はついていかない! 短く揺らして、すぐ逃げる。これが囮水流か!」
その隙に、右から柱の根元へ水刃を撃った。だが、囮と同時に撃った刃は幅がぶれ、砂を浅く撫でただけで砕けた。
「二つ同時だと刃が鈍るのか。だったら長く保たない。細くして、一番削れた場所だけ!」
囮を消し、柱の根元へ感知を絞る。水路全体を拾おうとした瞬間は、柱の軋み、敵の足音、自分の水音が重なって頭が痺れた。いったん切り、根元の砂、盾の端、右脚の三点だけを順番に拾う。
見えなかった細い溝が、水の押し返しとして浮かんだ。
「そこだ。全部を見るんじゃない。崩したい場所だけ見ろ!」
短く絞った二発目の水刃が、狙った溝だけを深く削る。昨日までの刃より細いのに、飛沫へ逃げる水が少ない。青白い一筋が砂を抉り、鉱柱がほんの指一本ぶん傾いた。
水刃Lv1 → Lv2(+1)。水中感知Lv1 → Lv2(+1)。
「よし、効いた! 効いたけど、倒れるには遠いな。もうちょっと素直に倒れてくれても――」
リザードマンが吠えた。
耳をつんざく咆哮と同時に、そいつは盾を投げ捨てた。両腕で柱へ抱きつき、太い尾を水底へ突き立てる。傾きが止まった。
俺の狙いを理解したのだ。
「うそだろ。お前、柱を守るのかよ! 槍だけじゃなくて建築にも強いの!?」
片腕が柱から離れ、鉱石槍が横薙ぎに飛んできた。避ける方向を読まれていた。穂先が左側を裂き、透明な身体の中へ熱い線を引く。
「がっ……左が、持っていかれた。これ以上はまずい、逃げ――」
後ろへ下がりかけて、止まった。
リザードマンは片腕で柱を支え、もう片方で槍を振っている。盾は足元に落ちた。最初より守りが薄い。しかも、尾で踏ん張るために右脚が砂へ深く沈んでいた。
失敗して、相手の形が変わった。
「待てよ。逃げるのは、もう一回試してからでも遅くない。次は柱じゃない。お前の足場だ」
俺は槍を避けながら、無限胃袋を開いた。中から取り出したのは拳ほどの岩片が三つ。さっき通路で拾い、食べられないから放り込んでいたものだ。
「食べられない物にも出番はある。ほら、返品だ!」
一つ目を尾の左へ転がす。リザードマンは無視した。
二つ目を盾へ当てる。乾いた音に赤い眼が動く。
三つ目を右脚の前へ落とした瞬間、俺はさっき覚えた囮水流を左へ放った。今度は本体の厚みを残し、先端だけを逃げる獲物みたいに二度揺らす。敵がそちらへ槍を振る。ほんの半呼吸だけ、足元から注意が外れた。
水刃を、右脚の下へ撃ち込む。
砂が抜けた。
リザードマンの膝が沈み、柱を支える腕がずれた。鉱柱が軋み、天井から小石が降る。
だが、まだ倒れない。
敵は槍を捨て、両肩で柱を押し返した。喉から泡を噴きながら、執念だけで傾きを止める。近づけば爪で掴まれる。離れれば体勢を戻される。
俺の魔力も、残りは水刃一発ぶんがぎりぎりだ。
「頑張るなよ……! そっちが必死だと、俺まで諦めづらくなるだろ!」
咆哮が返ってくる。言葉は通じなくても、「退かない」という答えだけは嫌になるほど分かった。
俺は裂けた左側をかばい、柱の裏へ細く回り込んだ。敵の爪が水を掻く。ぎりぎり届かない。
根元には、最初の水刃で作った溝が残っている。二発目で脚の砂を抜いたせいで、水がそこへ集まっていた。
前なら、二方向へ水を分けた時点で身体が崩れていた。今は囮を残しながら、本体を細く伸ばせる。
「前の俺なら、ここで自分まで水たまりになってた。今は違う。俺は俺のまま、もう一回だけ撃てる!」
核を右へずらし、左側へ囮の揺れを残す。リザードマンの爪が囮を潰した。
同時に、俺は溝へ最後の水刃を滑らせた。
柱の根が抜けた。
鉱柱がゆっくり傾き、リザードマンの肩へ落ちる。凄まじい衝撃で水が跳ね上がった。敵はなお片腕を伸ばし、俺を掴もうとした。爪先が身体の表面を掠める。
俺は近づかなかった。砂へ沈んだ槍を水で転がし、その柄を柱の下へ噛ませる。支えを失った巨体がさらに沈み、咆哮が濁った泡へ変わった。
やがて、赤い眼から力が消えた。
俺は水面に残る振動へ意識を凝らした。尾も爪も動かない。槍の石柄だけが柱の下で、遅れて一度転がった。
「勝った……。本当に? 起きない? 起きたら俺、泣きながら逃げるぞ」
返事はない。
遅れて喜びが弾けた。身体が勝手に丸く跳ね、水面へ落ちる。
「やった! 水場だ、肉だ、しかも槍まである! 俺、今日はちゃんと強かった! ……いや、柱が強かったな。ありがとう、柱。もう倒れてるけど!」
笑った途端、裂けた左側がずきりと痛んだ。
「いっ……笑うと傷まで揺れるのか。知らなくてよかった情報だな」
鉱殻と魔石を無限胃袋へ収め、肉を少しだけ吸収する。熱が核を包み、傷がゆっくり閉じた。全部食べたい。けれど、ここで空にすれば、次の強敵に会ったとき何も残らない。
「全部食べたい。今すぐ食べたい。……でも、空っぽの胃袋で次の声を聞くのはもっと嫌だ」
倒れた柱の向こうから、低い鳴き声が響いた。
水面が盛り上がり、槍の穂先がひとりでに揺れるほどの圧が届く。
喜びで緩んだ核が、きゅっと縮んだ。
「……今の、柱より大きいやつの声じゃないよな?」
もう一度、鳴き声。今度は近い。
俺は残った肉をしまい直し、巨体が通りにくい横の支流へ滑り込んだ。水場を奪った。なら、次は生きて使う番だ。
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