第5話 盾の死角
再戦の準備は、腹の虫との交渉から始まった。
保存していた蒼晶甲虫の肉は、あと一回分。全部食べれば傷は楽になる。半分残せば、戦いの後に動けるかもしれない。
俺は肉を包み、半分だけ吸収した。身体へ熱が戻る。その代わり、無限胃袋の中が急に寂しくなった。
「はい、朝ご飯終了。おかわりは勝ってから。……その勝つ相手が、盾と槍を持って待ってるんだけどな」
裂け目の外では、鉱殻リザードマンが水場を巡回している。盾の縁が床を擦る音。槍の石柄が水深を測る音。あいつは待っているだけではない。俺が使った溝を埋め、水晶片を置けそうな割れ目を槍で潰していた。
「敵も準備中、と。俺だけ特訓回をもらえるほど、世の中は優しくないらしい」
蒼晶甲殻を岩へ立て、上から雫を落とす。一度目は角度が浅く、水がそのまま床へ流れた。二度目は傾けすぎて、返った水が俺の表面を切った。
「つめたっ……反射まで律儀に持ち主へ返さなくていい」
三度目、甲殻の下へ鉱粉を挟む。雫は甲殻を滑り、狙った壁へ細く反射した。置く角度を固定できれば、敵の視線を一瞬だけずらせる。
ただし、甲殻は重い。出したまま動けば、速度五の利点が消える。使うのは一度。回収できなければ置いていく。
次に、濁った水へ身体の端を浸した。泥が入り込まないよう、外膜を押し返す。意識した場所だけに、薄い膜が張った。
「お。弾いた。……待て、これ、全身に張ったら強いんじゃないか?」
調子に乗って身体全体へ広げる。膜は硬くなったが、今度は自分まで動きにくい。右へ進もうとして、その場でぷるぷる震えただけだった。
「動けない! 全身鎧、俺には早い!」
膜を解く。魔力がごっそり減った。防御に使えても、広げるほど逃げられなくなる。槍が来る側だけ。三呼吸より短く。それ以上は、自分で自分を捕まえる。
「防水膜。名前は頼もしいけど、今のところ三秒限定だな。三秒で逃げろってことか」
水刃で砂へ浅い溝を一本作る。盾の左足が入る位置。溝の奥には反射用の甲殻。逃げ道は右の細い支流。残った肉は支流の手前。魔石の中心部は、最後まで胃袋に入れておく。
前回の俺は、追い込まれてから何を捨てるか考えた。今日は先に決める。
甲殻は置いていける。水晶片も置いていける。肉も、命と引き換えなら諦める。
核だけは置いていかない。
「当たり前だけど、言っておく。持ち帰る一番大事なものは俺。荷物を惜しんで本体を忘れるなよ」
こつん。こつん。
槍の石柄が二度鳴った。
リザードマンが裂け目の正面へ現れる。赤い眼が溝、甲殻、俺の順に動いた。昨日のように真っすぐ来ない。槍先で床を探り、浅い溝を見つけると、石柄で砂を均そうとする。
「そこまで見つけるのかよ。俺の罠、設置した本人より先に片づけないでくれ!」
俺は水刃を石柄へ飛ばした。倒すためではない。作業を止めるためだ。
盾が出る。刃は斜面を滑り、床へ逃がされた。分かっていた。水刃へ盾を使った瞬間、左足に重さが集まる。
俺は溝へ水を流した。
左足が半分沈む。
「入った!」
鉱殻リザードマンは体勢を崩さず、槍を床へ突き立てた。三本目の脚のように身体を支える。さらに盾の縁で溝を押し潰し、沈んだ足を引き抜いた。
初手は読めた。対策もされた。
「そう来るか。うん、強い。ちゃんと強い。褒めたから少しくらい手加減してくれない?」
リザードマンが盾を振る。
冗談への返答にしては重すぎる一撃が、水ごと俺を壁へ叩きつけた。核が跳ね、身体の端が裂ける。
「ぐっ……褒め損!」
槍が続く。俺は正面だけに防水膜を張った。薄い膜へ穂先が当たり、完全には止まらない。それでも刺さる角度が滑り、核の横を通り過ぎた。
一呼吸。二呼吸。三呼吸目で膜が破れる。
「効いた! 三秒だけでも、俺には十分――」
盾の下端が跳ね上がり、膜のなくなった側面を殴った。
「十分じゃなかった!」
支流へ転がる。リザードマンは追う前に、俺が残した保存肉を槍で突いた。前回と同じ囮だと思ったのだろう。そのまま肉を踏み潰し、水へ流す。
最後の食料が、泥にまみれた。
「あっ――それ、俺の残り全部!」
怒りが先に出た。怖さを忘れて身体が前へ伸びる。リザードマンの槍がこちらへ向く。
寸前で止まった。
「それは俺の晩飯だぞ!」
飛び出しかけた身体を、槍先の冷たい光が止めた。俺は泥へ沈む肉から目を剥がし、支流の壁へ身体を押しつける。
悔しい。腹も減っている。けれど、敵は俺を怒らせて支流から引き出した。意図したかは分からない。結果として、俺は槍の間合いへ半歩入っている。
退こうとする。盾が先に支流を塞いだ。
前回と同じ形だ。
違うのは、甲殻を置いた位置と、防水膜を一度使えたこと。それから、胃袋に残した蒼晶甲虫の魔石。
今吸収すれば、形が止まる。だが盾が支流を塞いだ今、逃げ道はもともとない。
「食べるなら今。失敗したら、俺が昼ご飯。……嫌な二択だな!」
魔石の中心部を身体で包む。冷たい光が核へ流れ込み、次の瞬間、内側から熱が弾けた。外膜が大きく膨らみ、傷ついた端まで力が満ちる。
リザードマンが変化を見逃すはずもない。槍が一直線に核を狙う。
俺は避けようとして、速くなりすぎた身体を壁へぶつけた。
「速っ――うわ、そっちじゃない!」
穂先が横を掠める。情けない失敗だが、以前より身体が速く縮み、核を守る厚みも残った。
数字が浮かぶ。
レベル三。HP二十六、魔力二十八、攻撃六、防御四、速度九。
「増えた。ものすごく増えた。だから落ち着け。数字が槍を止めてくれるわけじゃない!」
目覚めた直後、核を動かしながら刃を作ろうとして崩れた。レベル二で、核をずらしたまま一本の水刃を保てるようになった。なら次は、水そのものを二つへ分ける。
左へ薄い流れ。右へ核を抱えた本体。
一度目は左へ水を出しすぎ、本体の端が薄くなった。
「多い、多い! 囮が俺より立派になってどうする!」
左の水を半分戻す。右の身体が安定する。以前なら、分けた瞬間にどちらも崩れた。今は二つの流れが、細いまま同時に残っている。
リザードマンの赤い眼が左の揺れへ向いた。槍が囮を貫く。
水だけが砕け、本体は右に残る。
「残った……俺が残った! よし、喜ぶのは後!」
敵はすぐ気づいた。槍を引かず、そのまま石柄で右側を薙ぐ。俺は甲殻の背後へ滑り、柄の衝撃を甲殻へ受けさせた。
甲殻が弾かれ、反射面が壁を向く。狙った角度ではない。だが、水刃を一発だけ当てれば、青い光は盾の外側へ走る。
俺は甲殻へ水刃を撃った。
反射した青線が、リザードマンの右後方を切る。敵は本体が回り込んだと判断したのか、盾を右へ振った。
盾が開く。
死角は盾の下ではない。盾を動かす腕と、槍を支える足の間。両方へ別の仕事をさせた瞬間だけ生まれる、半歩の隙だ。
「そこだ。盾が強いんじゃない。お前が全部を一人で支えてるから強いんだ!」
左の囮水を足元の溝へ流す。右の本体は支流から飛び出し、水刃を床へ走らせた。溝が深まり、槍を支えていた右足の砂が崩れる。
リザードマンは槍を抜こうとした。盾を戻せば足が沈む。槍を残せば盾の内側が空く。
喉の奥から、初めて焦りの混じった唸りが漏れた。
「ガァァッ!」
盾が俺へ倒れ込む。避けきれない。防水膜はさっき使って薄い。それでも、残った魔力を前面だけへ張る。
「一回だけでいい。滑れ!」
盾の縁が膜を裂きながら横へ逸れた。身体の半分が潰れ、痛みで声が飛ぶ。
「いっ、たあああっ!」
だが核は無事だ。俺は潰れた勢いを使い、盾の内側を抜けた。水場の中央へ到達する。
リザードマンは無理に追わなかった。沈んだ右足を引き抜き、槍と盾を構え直す。赤い眼が俺を見ている。昨日までの餌を見る目ではない。次の手を警戒する目だ。
俺も追わない。勝ち切れるほど強くはない。水場を半分取り戻し、敵を一歩動かした。それ以上を欲張れば、増えたHPごと盾に潰される。
「今日はここまで。そっちも痛い、俺もものすごく痛い。……引き分けってことで、どう?」
リザードマンが槍の石柄を一度だけ鳴らした。
こつん。
肯定ではないだろう。だが追撃もない。
俺は水場の端へ身体を沈め、傷を冷やした。空腹で核の周りが縮む。保存肉は失った。水晶片は一枚残り、甲殻は傷だらけ。防水膜は三呼吸も持たない。
それでも、前にはできなかったことができた。
一本の水へすべてを賭けず、囮と本体を同時に保った。敵の槍を囮へ向け、その間に本体を動かした。
ただし、左へ残した水は形も魔力も薄く、止まっていればすぐ偽物だと分かる。技能として名前が浮かぶほど安定してはいない。今できたのは、レベル上昇で身体を二方向へ保てた、それだけだ。
「今のは技っていうより、必死に水を置いてきただけだな。次は、ちゃんと俺らしく動く偽物にする」
左に残した囮水が消えても、核を包む厚みは残っていた。俺は確かめるように身体を一度だけ縮め、対岸の槍が動く前に水場の端へ戻る。
嬉しさで身体が弾み、潰れた場所がまた痛んだ。
「うっ……はしゃぐには、まだ半分潰れてた」
鉱殻リザードマンは対岸で盾を立て、こちらを見張っている。倒せてはいない。水場も全部は取り戻していない。赤い眼はもう囮水の揺れではなく、その向こうの俺を追っていた。
俺は泥に流れた肉が見えなくなるまで、しつこく目で追った。無限胃袋を開いても、空いた場所からは何も出てこない。
「勝ったら食べるって言ったのに、食べ物がなくなった。……次の目標、決定。強くなる前に、まず晩ご飯を探そう」
水場を取り戻した達成感より先に空腹が来る。その情けなさが、少しだけおかしかった。
笑えるなら、まだ進める。
⠀




