第60話 警報を壊した責任
毒霧の外縁が停戦の石へ届く前に、俺は湿った根のくぼみへ体を沈めた。
焦って不完全なまま触れば、警報糸をもう一度壊す。
二時間だけ休む。
その間、ネフィラは一言も責めなかった。
だから余計に、逃げられなかった。
休息を終えた時、HPは三百八十。魔力は六百六十八まで戻っていた。
食料〇・五。携帯水ゼロ。星材一。
レベル二十一。進化ポイント二十。
俺は、最初に糸束を抜いた場所へ戻った。
木と木の間に、切れた白い端が垂れている。
片側は乾いて縮み、もう片側は毒霧の水分を吸って重くなっていた。俺が根だと思って収納したせいで、同じ糸だったものが別々の性質になっている。
骨縫いを使う。
以前、骨材をつないだ時と同じ要領で、両端へ細い穴を作り、継ぎ材を通せば戻せるはずだ。
俺は周囲を探した。
卵域にある物は収納しない。
停戦の石より外、毒霧に飲まれた低木の根元で、小さな甲虫の死骸を見つけた。中身は溶け、薄い外殻だけが残っている。
もう一つ、毒に枯れた獣の尾骨が泥に埋まっていた。
どちらも生き物ではない。卵域の物でもない。
俺はその場で外殻と尾骨を加工した。
胃袋へは入れない。
必要な長さへ切り、骨縫いの代用針にする。
一回目。
甲虫の外殻を細い筒にし、糸の両端を差し込んだ。
形はつながった。
俺が端を軽く揺らす。
振動は筒の中で散り、反対側へ届かなかった。
硬すぎる。
警報糸は音を運ぶだけじゃない。張力の変化を、森じゅうの網へ渡している。殻で固定すれば、つながって見えても警報にはならない。
俺は外殻を外した。
加工し直せないほど細かく割れ、毒の泥へ崩れた。
一つ目の代用品は消費した。
二回目。
尾骨を薄く削り、二本の針にする。糸の端へ刺し、骨縫いで交互に噛み合わせた。
今度は柔らかく曲がる。
ネフィラが遠い側の糸を一本弾いた。
振動が継ぎ目まで来る。
次の瞬間、湿った糸だけが大きく伸びた。
乾いた側との長さが合わない。
尾骨の針が回転し、継ぎ目を裂いた。
俺は慌てて水の膜で受け止めた。
新しい裂け目は最小限で止まった。でも、元どおりにはならない。
削った尾骨も、ねじれて砕けた。
二つ目の代用品も使い切った。
「骨では糸にならない」
ネフィラの声が頭上から落ちる。
「分かってた?」
「骨を張る者はいない」
「先に言ってよ」
「お前が壊した。お前が知れ」
言い返せなかった。
二度の失敗で分かったことはある。
素材が違えば、完全な修復はできない。
俺が魔力で形だけ真似ても、ネフィラの糸と同じ伸び方、同じ振動の伝え方にはならない。
新しい糸を作る技能もない。
ここで三回目を試せば、残った端まで短くする。
「全部をつなぐのはやめる」
ネフィラの脚が上がった。
「逃げるか」
「違う。切れたまま使う」
俺は両方の糸端を地面から持ち上げた。
つなげない。
互いに触れない距離で、向かい合わせに吊るす。
その間へ、水滴を連ねた。
糸が震えれば最初の水滴が揺れる。波が次の粒へ移り、反対側の糸端を叩く。
振動の中継だ。
元の警報網ほど遠くへは届かない。
向きも一方だけ。
毒霧側から卵域側へ来る揺れだけを運ぶ。逆向きの振動は、水滴の配置で吸収する。
水を増やせば広い範囲を拾えるが、揺れが混ざって何が来たか分からなくなる。
俺は範囲を半分に絞った。
一本目の水滴が動く。
二本目。
三本目。
反対側の糸端が震え、近くの警報糸が鈴のような音を返した。
小さい。
でも、鳴った。
「元どおりじゃない」
俺はネフィラを見上げた。
「毒霧側から来るものだけ。範囲も半分。俺が水滴を維持している間しか使えない」
「それを修復とは呼ばない」
「うん。応急の警報だ」
完全に直したふりはできない。
失敗を隠して進むこともできない。
俺にできるのは、壊した穴を今だけ塞ぐことだ。
警報が三度鳴った。
正面。
左。
右奥。
三方向から、低い振動が近づいてくる。
毒霧の中に、細長い影が浮かんだ。
牙が二本。六本脚。体表に熱を逃がす赤い筋。
毒牙の幼体だ。
一体ではない。
正面に四。左に三。右奥に二。
壊れた警報網なら、卵のそばまで来るまで気づけなかった。
ネフィラが正面へ糸を張る。
「前を止める」
「だめだ。霧の中では糸が重くなる」
言い終える前に、先頭の幼体が跳んだ。
粘着糸へ牙を立てる。
熱を帯びた毒液が糸を焼き、灰色の霧が切れ目へまとわりつく。二体目、三体目が同じ場所へぶつかり、正面の防壁がたわんだ。
正面で受け止め続ければ破られる。
だから、正面を守らない。
俺は中継用の水滴を三つだけ大きく震わせた。
一つは左の倒木。
一つは右の空洞。
一つは、毒霧の奥。
警報網に、逃げる獲物のような振動を流す。
毒牙の幼体が一斉に頭を向けた。
卵域から遠ざかる側へ。
「警報を囮にする」
「網を空にするな」
「全部は動かさない。三方向の入口だけ」
警報を強く鳴らしすぎれば、ネフィラたちは卵を残してそちらへ集まる。
それでは別の敵に空いた道を渡すだけだ。
俺は振動を弱く、短く切った。
幼体が気づく強さ。
成体が縄張り全体の異変だと思わない強さ。
正面の四体が倒木へ走る。
左の三体も向きを変えた。
右奥の二体だけは、卵の匂いを追い続ける。
俺は水刃を作った。
切るためではない。
一枚目を右の幹へ当て、曲げる。二枚目を地面すれすれで回し、幼体の後脚へ絡ませる。
刃の縁を鈍らせ、水の帯として巻きつけた。
一本の脚を引く。
幼体が転ぶ。
もう一体が乗り上げる。
俺は帯をほどかず、そのまま毒霧側へ流した。
倒れた二体が、囮の振動を追う群れの横へ押し出される。
「親がいる方へ向ける!」
ネフィラは一瞬だけ迷い、卵域とは反対の糸を弾いた。
太く、低い振動が森の外へ走る。
幼体たちはその揺れを追った。
水刃を曲げ、先頭の脚へ絡める。
最初の一体は、水の帯へ毒牙を突き立てた。
紫色の液が水へ混じる。
そのまま体内へ戻せば、俺自身が毒を取り込む。
俺は汚れた部分だけを帯の先へ押し出し、毒霧側の地面へ落とした。
使える水が減る。
携帯水はゼロのままだから、外から補充もできない。
それでも体の輪郭を削る必要はなかった。曲げた刃の中心部を残し、表面だけを入れ替えれば、同じ水量で次の脚を巻ける。
二体目は帯を飛び越えた。
俺は正面から受けず、後ろの水滴を跳ね上げる。
腹へ当たった一滴に驚き、幼体の着地点が半歩ずれた。
そこへネフィラの糸が落ちる。
捕らえきらない。片脚だけを引き、毒霧側へ体を向ける。
「殺さないのか」
「ここで潰せば毒が広がる!」
幼体の腹には、牙より大きな毒袋が透けていた。
一体を倒せても、破れた袋から流れた毒が根を伝えば、卵域の内側を汚す。
倒す場所を選ばなければならない。
だから撃退する。
親が退いた側、毒に耐える生き物が暮らす側へ戻す。
三方向の警報は別々の間隔で鳴っていた。
正面は短く二回。
左は長く一回。
右奥は細かな連続音。
俺は一つの戦場として混ぜず、群れごとに違う囮の振動を返した。
同じ合図なら九体が一点へ集まり、押し合って別方向へ溢れる。
三つの出口へ分け、最後に毒霧の奥で一つへ合流させる。
水滴を維持しながら曲射を二枚。
魔力の減りが速い。
けれど、半径を半分に絞った警報だから、遠い森まで支える必要はない。
完全に直せなかった制限が、今は制御できる範囲を明確にしていた。
切らない。
転ばせる。
立ち上がる向きを、毒霧の奥へそろえる。
ネフィラの糸が背後へ落ち、退路だけを狭めた。
俺の水と、彼女の糸。
敵を挟み込むのではなく、一つの出口へ流す。
最初の群れが灰色の奥へ消えた。
警報の振動は、卵域を空にせず、九体すべてを親のいる側へ追い返した。
静かになった森で、小さな殻の音がした。
卵は無事だ。
応急の警報もまだ鳴っている。
俺の魔力は五百五十六。消費は百十二。
HPは減っていない。
食料〇・五。携帯水ゼロ。星材一。
新しい技能は得なかった。
骨縫いで失敗し、水滴と曲射を今できる範囲で組み合わせただけだ。
ネフィラが切れた糸端を見た。
「半分しか聞こえない」
「完全には直せなかった」
「だが、卵は残った」
それは許しではない。
停戦が友情に変わったわけでもない。
ただ、壊した警報が一度だけ、守るために鳴った。
その時、毒霧のさらに奥で、別の振動が起きた。
幼体の軽い足音ではない。
一歩ごとに根が沈む。
灰色の霧が、内側から赤く照らされた。
熱だ。
毒の匂いも、さっきより濃い。
半径を絞った警報では、その経路を拾えなかった。
応急修復が役に立った直後だからこそ、足りない範囲もごまかせない。
俺は鳴っている水滴を維持したまま、死角へ別の粒を送った。
成体の振動は、粒が着く前に地面そのものを揺らした。
太い牙が二本、霧の上へ現れる。
幼体たちが逃げ帰った先から、親ではない何かが進んでくる。
毒と熱を持つ成体。
しかも、応急警報が拾える正面ではない。
別の道から、卵域へ向かっていた。
【主人公ステータス】
対象:グルト
種族:クラフトスライム・第一進化種
個体ランク:A
レベル:Lv.21
HP:380/380(ランク:B)
魔力:556/668(ランク:A)
攻撃:123(ランク:C)
防御:56(ランク:D)
速度:216(ランク:C)
技能:感知・隠密(ランクG・Lv.1)/Lv.2)(ランクG・Lv.1)/生存収蔵(ランクG・Lv.1)/Lv.1)(ランクG・Lv.1)/水流支配(ランクG・Lv.1)/Lv.3)(ランクG・Lv.1)/魔材加工(ランクG・Lv.1)
状態:進化ポイント20。食料0.5、携帯水0、星材1。赤い魔核1、星図板1、ミミック本体を隔離。死骨代用品2点を現地取得・消費。警報網を一方向・半径半分で応急復旧し、毒牙幼体の第一波を撃退。毒と熱を持つ成体が別経路から接近




