第58話 卵に触れない道
湿った落ち葉から吸い上げた水分が、傷ついた体をゆっくり埋めていく。
二時間、俺は一歩も動かなかった。
HPは三百四十八。魔力は四百七十五。
完全には戻っていない。それでも、糸に触れるたび居場所が筒抜けになる状態で、これ以上同じ場所に留まる方が危険だった。
夜の毒糸林は、昼より静かだ。
静かすぎて、どこかで粘着糸が縮む、かすかな音まで聞こえる。
俺は体内の水を小さな粒に分けた。
一滴。二滴。十滴。
木の根元、倒木の割れ目、苔の上。低い位置だけを選び、震わせないように置いていく。
水滴そのものを目印にするんじゃない。
どの水滴が、周囲の振動を拾ったかを見る。
右奥の三滴が同時に細く揺れた。そこには見えない警報糸がある。
左手前の一滴は大きく跳ねた。粘着糸だ。触れれば足を取られる。
正面の二滴は、俺が息を潜めても一定の間隔で震え続けていた。
卵の中で、何かが動いている。
俺はその一帯を避け、振動のない隙間だけをつないだ。
水滴で描いた地図は、細い一本の線になった。
俺一人なら通れる。
けれど、それだけだ。
大きな荷物を持つ者も、傷ついた者も、同じ道は使えない。セレネが同行していない今は問題にならなくても、戻る時まで安全とは限らない。
頭上で糸が鳴った。
俺は反射的に横へ跳ぶ。
さっきまでいた場所へ、白い粘着糸が突き刺さった。
枝の上にネフィラがいる。
人に近い上半身と、森の闇に溶ける蜘蛛の下半身。八本の脚は一本も葉を揺らしていない。
「まだ、卵を探すか」
「探してない。避けてる」
「同じことだ。場所を知れば、奪える」
返事の代わりに、水滴を一つ動かした。
卵の振動を拾った粒を、危険を示すように遠ざける。近づくための印ではなく、近づかないための印だ。
ネフィラの脚がわずかに下がった。
攻撃をやめたわけじゃない。ただ、次の糸が飛んでくるまでの間が長くなった。
俺は仮の道へ入った。
体を細く伸ばし、振動を返しそうな根を避ける。水滴が一つでも揺れれば止まり、揺れの向きを読み直す。
曲射を使えば早い。
枝の向こうへ水刃を回し、邪魔な糸を切れば、道幅はすぐ広がる。
でも切らない。
一本でも切れば、また警報網を壊す。ここで守られているのは道ではなく、ネフィラの卵だ。
半分ほど進んだ時、正面の暗がりで、湿った殻が割れる音がした。
ぴしり。
小さい音なのに、周囲の糸すべてが応えるように震えた。
丸い影が斜面を転がってくる。
卵だと思った。
違う。
殻を背中に残した、手のひらほどの幼体だった。
まだ脚をうまく使えない。四本が地面をかき、残りは体に絡まっている。幼体は止まれず、俺が選んだ一本の道へ転がり込んだ。
「動くな!」
ネフィラの声が落ちた。
動かなければ、幼体は俺の体にぶつかる。
避ければ、その先は粘着糸だ。未熟な脚では抜け出せない。
拾って胃袋へ入れるのが一番早い。
無限胃袋なら衝撃を止められる。中で傷つけることもない。
けれど、俺は口を閉じた。
卵を食ったと疑われている俺が、幼体を収納する。
害がないと説明する前に、ネフィラの糸が俺を貫く。
それに、ここでは正しさより先に、触れないという約束を形にしなければならない。
俺は斜面の下側へ回り込み、体を薄く広げた。
一人分しかない道を塞ぐように、根から根へ体を渡す。
橋だ。
幼体が俺の背へ落ちた。
小さな脚が膜を引っかく。
痛い。
けれど動けば落とす。
俺は体内の水を半リットル、背中側へ集めた。柔らかい水の層を作り、幼体が滑り落ちないように形を変える。
HPが十八減った。
水は外へ出したんじゃない。俺の体を橋として保つために使った。それでも、乾いた部分がひび割れ、輪郭が薄くなる。
幼体は俺の背をよじ登り、反対側の根へ移った。
その先には、割れた殻と同じ匂いを持つ卵が並んでいる。
俺は触れない。
水の膜だけを傾け、幼体が自分の脚で戻れる角度を作る。
一歩。
二歩。
幼体は根を越え、卵の間へ消えた。
その瞬間、上から垂れていた粘着糸が緩んだ。
俺を狙っていたネフィラの前脚も、地面へ下りる。
「収納しなかった」
「したら、もっと速かった」
「なぜ、しない」
「君が嫌がるから。それに、あれは俺の物じゃない」
森の奥で、殻のこすれる音が続いた。
ネフィラは答えない。
俺は橋にしていた体を戻した。消費した魔力は二十八。残りは四百四十七。
携帯水はゼロのままだ。
乾いた輪郭を整えようとした時、体の中心が熱くなった。
これまで積み重ねた経験が、幼体を戻した一度の判断を境に、形を持って流れ込んでくる。
レベルが上がった。
二十から、二十一へ。
裂けかけていた膜が一気に満ちる。HPは三百八十。魔力は六百六十八。傷も乾きも消え、使った体内水まで新しい体の一部として戻った。
攻撃は百二十三。防御は五十六。速度は二百十六。
進化ポイントは二十。
増えたのは数値だけじゃない。
試しに水滴を二十、三十と分けてみる。
以前なら、立ち止まらなければ形が崩れた数だ。今は移動しながらでも、それぞれの粒が拾う振動を区別できる。
新しい技能を得たわけではない。
同じ水の扱いを、今までより多く並行できる。
一本だった仮の道の左右へ、水滴の地図が広がった。
卵の場所は赤く塗るように避け、警報糸の線は切らず、粘着糸の近くには踏み込まない。
俺は道の終端で止まった。
ネフィラが枝から降りる。
殺気は、消えてはいない。
ただ、糸を投げるために上げていた脚が、半分まで下がっている。
「卵域内収納禁止」
短い言葉だった。
「卵も幼体も?」
「殻も。糸も。生きたものも、死んだものも」
「分かった」
許されたわけではない。
最初の糸束を収納した事実も、警報網を切った責任も残っている。
それでも、何をすれば敵になるかが、初めて言葉になった。
俺は作った水滴の地図を消す前に、ネフィラへ見えるよう低い位置へ並べ直した。
「この印は、卵がある場所じゃない」
震えなかった空間の周りへ、水滴で輪を作る。
「俺が入らない場所だ」
「違いはない。輪の中に何かあると分かる」
「分かったことは、俺には分からない場所だってことだけ。中身は記録しない」
「言葉は変えられる」
「水滴も乾けば消える」
俺は輪を一つずつ体へ戻した。
胃袋には入れない。体内水へ戻し、位置の形を残さない。
森を出た後で正確な卵の地図を再現できないよう、並び順も崩して吸収する。
ネフィラは最後の一滴が消えるまで見ていた。
「なぜ地図を捨てる」
「道は必要だけど、卵の場所は必要ないから」
「下へ行くなら、また通る」
「その時は、また君の糸を避けて調べる。保存した地図で近道はしない」
効率は悪い。
一度通った道を毎回測り直すのは、迷宮探索では無駄に近い。
けれど、ここで効率を優先すれば、卵域を攻略対象として扱うことになる。
ネフィラは守護者で、卵は宝箱ではない。
俺はようやく、その違いを行動にできた。
幼体が戻った根元から、小さな殻片が転がってきた。
白く、薄く、魔力を帯びている。
素材として見れば使い道は多い。軽い容器にも、魔力を通す板にもできそうだ。
胃袋検索が、空いている収納域を意識へ上げる。
俺は動かなかった。
「殻も禁止だったな」
「そうだ」
ネフィラが糸で殻片を拾い、卵の間へ戻す。
その動きから殺気は感じなかった。
警戒はある。疑いもある。
でも、俺が次に何を盗るかだけを待つ視線ではなくなっていた。
体を橋にした時に減ったHPは、レベル上昇で戻った。
だからといって、行動の代価が消えたわけではない。
あの場で幼体を収納していれば、傷は負わず、もっと早く進めた。
それでも収納しなかったという事実だけが、今の一歩ぶんの距離になっている。
俺は新しい体で水滴を三十粒出し、移動しながら円の外側へ運んだ。
右へ進みつつ、左の粒が拾う振動を読む。
前へ出ながら、後ろの粒を回収する。
粒の数が増えても、卵の可能性がある空白には入れない。
できることが増えたからこそ、しないことも増やす。
それが、この森を通る条件だ。
ネフィラは俺の横を通り、切れた警報糸へ触れた。
指先から三本の細い糸を伸ばすが、切断口へ結びはしない。乾き方と張力を確かめ、すぐ引き戻した。
「直せないのか」
「今のまま結べば、違う音になる」
警報は鳴ればいいわけではないらしい。
何が、どちらから、どれほど近づいたか。糸の音には区別がある。
俺が束を抜いたせいで、その一帯だけ森の耳が欠けている。
卵へ触れない道を見つけても、外から来る敵を見落とせば守ったことにはならない。
俺は切断口の位置だけを覚えた。
卵の場所ではなく、自分が壊した場所として。
遠くで、鈴に似た音がした。
一度。
二度。
ネフィラの全身が固まる。
俺の水滴も、森の低い場所を流れてくる重い揺れを拾った。
風ではない。
毒霧だ。
警報糸の切れた場所から、灰色の霧が静かに入り込んでいた。
俺が壊した穴を通って。




