第57話 水刃が道しるべになる敵
糸迷宮の外縁には、安全な地面がなかった。
切った警報糸から増えた粘糸が、俺の退路へじわじわ伸びている。前へ進めばネフィラの卵域。後ろへ戻れば、濡れた糸が俺の位置を伝える。
HP三百三十二。最大は三百六十四。魔力五百四十六。食料半分、携帯水ゼロ。
「追跡を切る。でも糸は切らない」
言葉にすると難しさが増した。
水刃曲射なら、直接触れずに遠くの糸を切れる。水膜か反射面を置き、俺と違う方向から刃を入れれば、ネフィラも発射位置を間違えるかもしれない。
「曲がれば逆探知も曲がる。たぶん!」
星材は使わない。二つとも残す。
壁の結露を薄い水膜にし、岩角へ張る。水刃を一度反射させ、右奥の粘糸へ送った。
刃は狙いどおり曲がった。
糸が切れた。
その瞬間、刃が通った水膜全部が青く光った。
警報の震えは切断点から反射面へ戻り、さらに俺が水膜を支えている魔力線まで逆流してくる。
「曲げた道を全部教えた!?」
頭上から矢が三本落ちた。
俺は水流滑走で横へ逃げる。矢は外れたが、着地点から糸が広がり、次の進路を狭めた。
ネフィラは見えない。気配遮断で隠れているのではなく、網の向こうから振動だけで狙っている。
「曲射も駄目。じゃあ、俺を消す」
気配遮断を深くする。核の脈動を遅らせ、外皮の流れを止め、岩と同じ温度へ近づける。
音を立てずに一歩。
糸は動かない。
二歩。
頭上の矢も来ない。
「いける」
三歩目で、床の細糸が沈んだ。
俺の重さがそのまま網へ伝わる。
矢が飛んだ。
防水膜を斜めに張り、矢を滑らせる。膜が糸へ触れ、また振動が走った。
隠した気配より、触れた事実の方が強い。
「俺、全部水だから、動くとどこかが濡れるんだけど!」
「なら止まれ」
ネフィラの声が左上からした。
「止まったら粘糸に包まれる!」
「侵入者には正しい」
会話はできる。攻撃は止まらない。
ネフィラは俺を卵域から追い出すだけでなく、どの技能を使うか観察している。水刃、曲射、気配遮断、防水膜。試すたび、次の糸が正確になる。
「技能を使うほど、学ばれてる」
一億回負ける前に、別の方法へ変える。
俺は体を小さく震わせ、外皮から水滴を一つ分けた。
攻撃用ではない。指先もない俺の、小さな欠片だ。
床へ落とす。
水滴が糸に触れ、震えた。
ネフィラの矢が、その水滴へ向かう。
「本体じゃないよ!」
次は五粒。前、右、左、上の糸、床の割れ目へ飛ばす。
四粒が震え、一粒だけ静かなまま落ちた。
静かな粒の下には、糸がない。
「道を隠すんじゃなくて、震える方を見る」
さらに水滴を分ける。
十粒。
体が少し軽くなる。分けすぎればHPを失う。回収できる距離だけにする。
右の三粒が激しく震える。天井の二粒は遅れて震える。左下へ落とした一粒は、岩に当たっただけで警報へつながらない。
俺は左下へ体を滑らせた。
矢が右へ飛ぶ。
ネフィラは震えた水滴を俺だと思ったのではない。そこへ俺が進むと予測した。でも俺は、震えなかった粒を追う。
細い隙間へ入る。
糸が外皮をかすめたが、警報は大きく鳴らない。
「攻撃しない水なら、位置を決めつけられない」
ネフィラの蜘蛛脚が網を打った。
今度は振動が四方から来る。俺の水滴が一斉に揺れ、どれが自然な震えか分からなくなった。
「そっちも試すよね!」
すぐに成功とはいかない。
俺は水滴を全部回収した。残った振動を流れ読みで比べる。ネフィラが作った震えは強く、同じ間隔。卵域の警報は弱く、不揃い。孵化の鼓動が混じるからだ。
強い震えを避けるのではない。
規則正しい震えを捨て、弱く乱れた糸にも触れない空間を探す。
もう一度、水滴を七粒に分けた。
一粒目は規則正しく揺れる。
二粒目も同じ。
三粒目は、二度震えて止まる。
四粒目は、まったく震えない。
そこへ進むと、丸い白影が見えた。
卵塊。
糸がないのではない。卵を圧迫しないよう、網が空間を残している。
「危ない!」
急停止する。
あと一歩進めば、静かな場所だと思って卵へ触れていた。
ネフィラの矢が俺の前へ刺さる。
「避けたな」
「震えない場所が安全とは限らない。今、覚えた」
「卵を盾にするつもりでは」
「しない。戻る」
来た水滴の順を逆にたどる。
攻撃しなければ、濡れた刃の線は残らない。気配を消しても重さは消えない。水滴は追跡を切る力ではなく、触れてはいけない線を見つける目になる。
背後で糸が収縮した。
通った隙間が閉じる。
俺は反射的に水刃を作りかけ、止めた。切ればまた位置を返し、警報を壊す。
体を薄く広げ、閉じる糸と岩の間へ滑り込む。外皮が擦れ、痛い。でもHPは減っていない。
魔力は減る。
水滴の分離、回収、膜の維持。五百四十六から三百九十五まで落ちた。
「あと百五十一も使った……」
「数えるのか」
ネフィラが網の向こうに姿を見せた。
「数えないと、逃げる途中で空になる」
「卵喰いは残りを数えない」
「俺は卵喰いじゃない!」
ネフィラは弓を引いたまま、すぐには撃たなかった。
観察へ変わっている。
俺は卵から離れる線だけを選び、外縁の湿った窪地まで戻った。水溜まりではない。体を濡らせる程度の苔と結露だけだ。
「ここで休む。卵域には入らない」
「見ている」
「うん。知ってる」
網の全てが目みたいなものだ。
俺は食料を食べなかった。半食しかない。二時間、湿った岩へ体を広げ、傷と魔力の自然回復を待つ。
休みながら、水滴を一粒ずつ置く。
震える線、規則正しい偽振動、孵化の不揃いな鼓動、何も振れない卵の周囲。
地図に線は書かない。水滴が揺れた場所だけを覚える。
ネフィラは攻撃を止めていない。近づけば矢が来る。
それでも、すぐ殺す相手から、何をするか見る相手へは変わった。
俺は湿った落ち葉の上で動きを止め、二時間休む場所を決めた。
その前に、見つけた仮退路が本当に使えるか、最後の確認をした。
水滴を置いた時には震えなかった場所でも、俺が体重をかければ地中の根を通じて糸へ振動が届くかもしれない。
俺は体の一部だけを細く伸ばした。
先端を落ち葉へ触れさせる。
水滴は動かない。
少し重さを移す。
右奥の粒が一つだけ震えた。
見えている空間には何もない。地面の下で根と警報糸が接している。
そこへ足を置けば、上の糸を避けても居場所が伝わる。
俺は仮退路の線を半歩ずらした。
次の場所では二滴が逆向きに揺れた。俺の振動ではない。枝の上を移動したネフィラの脚が、別系統の糸を引いたのだ。
同じ揺れでも、発生源が違う。
俺が作る波は、水滴へ向かって狭まりながら来る。ネフィラの糸から来る波は、複数の粒へほぼ同時に届く。
それを区別できなければ、敵の動きを自分の失敗だと思い、かえって危険な方へ逃げる。
俺は一度わざと体を沈め、自分の振動を記憶した。
次に、落ち葉だけを水流で押す。
最後に、水刃を作らず魔力だけを膜へ流す。
三つの揺れ方は似ていても、波の始まる位置と速さが違った。
技能が増えたわけではない。
水中感知と流れ読みを、地上の小さな水滴へ使っているだけだ。
ネフィラが枝の影から問う。
「なぜ、刃を捨てた」
「持つと君に見つかるから」
「弱いと示せば、殺されないと思ったか」
「違う。切らずに逃げられると示したい」
粘着糸が一筋飛んだ。
俺は水滴の揺れを見る前に、空気の湿りが引かれる方へ体を伏せた。
糸は背中をかすめ、前方の木へ貼りつく。
完全には避け切れない。
それでもHPは減らなかった。防水膜の表面だけが薄く削られ、すぐに戻る。
「逃げる道を覚えれば、戻ってくる」
「戻る時も、卵には触れない」
「信じない」
「今はそれでいい」
信じてもらうために急げば、また最短の手段を選ぶ。
最短の手段が、糸を切ることだった。
だから俺は、一滴ずつ確かめる遅さを受け入れた。
十七滴を置き直し、地中から振動が返る二か所を避ける。仮退路は最初より長くなったが、警報糸にも粘着糸にも触れない線になった。
ただし、幅は俺一人ぶんしかない。
荷物を広げる余地も、誰かとすれ違う余地もない。
俺は水滴を残したまま休息の姿勢へ入った。
眠るためではない。
粒の一つが揺れれば、すぐ動けるようにするためだ。
水滴の震えない空間の奥で、一つの卵が動いた。
殻の内側から、小さな脚が押している。
俺が見つけた細道は、その卵が転がる先を通っていた。
一人分の道では、足りない。
その道へ俺が先に入れば、転がってきた卵を避ける余地がない。
戻ろうとしても、後ろには地中から振動を拾う根がある。曲射で枝を落として壁を作れば卵には触れずに済むかもしれないが、落下の衝撃が別の糸へ伝わる。
安全な線を一本見つけただけでは、道を作ったことにならない。
何かが予定外に動いた時、それを傷つけず戻せる幅まで必要だ。
俺は休息を続けながら、残した水滴の配置を頭の中で広げた。
次に動く時は、自分の体が通る線ではなく、卵が転がっても受け止められる線を探す。
森を抜けるための最短距離より、触れないための余白を優先する。




