第56話 根っこだと思った
第七階層へ続く最短路は、半日進むと森になった。
木は一本もない。
壁と天井から、灰色の根が垂れている。細いものは髪の毛ほど。太いものは俺の体より大きい。湿った岩へ絡み、ところどころで白い雫を抱えていた。
「地下なのに森。根っこなのに木がない」
流れ読みを使う。湿度は高いが、まとまった水場はない。携帯水はゼロ。胃袋の食料は守護者の核片、半食分。星材二つは補修用で、食べ物ではない。
赤い魔核、星図板、ミミック本体の隔離も変化なし。
「食べられる根なら助かるんだけど」
鑑定は、灰色の根へ触れる寸前で止まった。
【鑑定結果】
対象:灰色の糸状構造
種族:測定不能
状態:微振動、複数地点へ接続
根とは出なかった。
でも、素材かもしれない。
俺は一番外側に垂れた一束へ近づいた。水中感知には、生き物らしい核が映らない。毒の匂いもない。引っ張っても周囲は崩れない。
「一本だけ。あとで使えなかったら戻す」
無限胃袋の口を開く。
灰色の束が、するりと入った。
次の瞬間、森全体が鳴いた。
音ではない。細い震えが壁、床、天井を走り、何百本もの糸が同時に張りつめた。さっきまで垂れていた束が持ち上がり、俺の前後を塞ぐ。
「根っこが怒った!?」
胃袋へ入れた束も、隔離区画の中で震えている。
それに合わせ、遠くから硬いものが三度打ち合わされた。
警報だ。
俺が一本抜いたせいで、網の一部が途切れた。途切れた場所を知らせる振動が森中へ走っている。
「ごめん! 今返す!」
胃袋から束を出し、元の場所へ置く。切れてはいない。けれど接続していた端が分からない。魔材クラフトで壁へ留めようとした瞬間、銀色の影が頭上を横切った。
針のような脚が、俺のいた床を貫く。
跳ねて避けたつもりが、右側の糸へ触れた。粘つく糸が外皮へ巻きつき、動くほど締まる。
「侵入者」
女の声だった。
天井近くの網に、半身が人、下半身が蜘蛛の姿が立っている。黒紫の髪。細身の蜘蛛脚は濡れた岩のような艶を帯び、腕には骨の短弓。背後には丸い白影がいくつも並んでいた。
「卵喰い」
「食べてない! まだ何も食べてない!」
胃袋の核片が空腹へ抗議してくる。でも今は正直さの場面だ。
「糸を奪った」
「根っこだと思った! もう返した!」
「警報は戻らない」
短弓から黒い矢が放たれた。
防水膜で受ける。矢は膜を貫かなかったが、先端から広がった振動が体内の水を揺らす。核までしびれ、HPが削れた。
「待って! 卵には近づかない!」
「言葉を網へ残せ」
意味が分からない。
二本目の矢が来る。
俺は絡んだ糸を水刃で切った。
切断そのものには成功した。自由になった体を横へ滑らせる。
けれど、水刃の水膜が灰色の糸へ触れた途端、網の奥まで青い震えが走った。
女の顔が、ぴたりと俺へ向く。
逃げた先へ、先回りの矢が落ちた。
「なんで分かるの!?」
答えの代わりに、左右から糸が来る。
水刃が通った道を、振動が逆向きに戻っている。糸は切れても、濡れた部分が俺の位置を知らせていた。
俺は水流滑走で低い隙間へ潜る。ところが床下の細糸まで震え、頭上から蜘蛛脚が突き下ろされた。
避けきれない。
脚先が外皮を抉り、HPが三十二減った。流れ出た体液を防水膜で押し戻す。
「痛い! あと、悪いのは認める!」
「認めて、また切る」
「今のは逃げるため!」
「卵喰いは皆そう言う」
女は糸の上を音もなく移動する。気配遮断を使っている俺より静かだ。
名前を聞いている余裕はない。けれど敵と決めて倒せば、背後の白い影まで巻き込む。
卵。
星図で見た鼓動が、ここにある。
俺は水刃を消した。
攻撃をやめても矢は止まらない。囮水流を左へ走らせる。糸が震え、女の視線がそちらへ動いた。
成功したと思った瞬間、別の糸が俺の真下で鳴る。
本体の重さは隠せない。
「気配じゃなく、振動を見てる」
糸のない場所を探す。
見える範囲には一本もない。床の割れ目にも、天井の水滴にも、細糸がつながっている。
背後の道へ戻ろうとすると、切った糸が伸びていた。切り口から粘液が出て、周囲の網へ絡みつく。切る前より太い。
「切るほど粘るの!?」
「網は傷を塞ぐ」
初めて、女が攻撃以外の返事をした。
知性がある。卵を守るために警報網を張り、壊れれば補修する。
俺は胃袋から、さっき収納した糸束を出した。元の一本だけだ。別の素材へ加工していない。
「返す。どこにつながってたか分からない。だから、置く場所を教えて」
「近づくな」
「じゃあ、ここに置く」
床へそっと下ろす。
女は受け取りに来ない。一本の糸を伸ばし、束へ触れた。振動を確かめているようだ。
「食べていない」
「最初から言ってる!」
「収納した。警報を切った」
「それは本当にごめん」
俺は体を低くした。逃げる構えではなく、小さく見せるためだ。
「第六階層の星図から来た。下へ行く道を探してる。卵域を通る近道は使わない。外から入口を見たかっただけ」
女の短弓は下がらない。
「星図を持つ者は、巣の位置を売る」
「売らない。そもそも、誰に売るのか知らない」
「知らない者ほど売る」
言葉が強い。過去に何度も、地図を持つ侵入者が来たのかもしれない。
俺は星図板を出さなかった。見せれば信用されるとは限らない。卵域の位置が記録された板を、守り手の前で広げる方が危険だ。
「今は退く。追わないで、とは言わない。でも卵から離れる方向へ行く」
ゆっくり後退する。
灰色の糸が足元で震え、女へ位置を伝え続ける。水刃を使えばもっとはっきり伝わる。
だから切らない。
体を細くし、糸の間を押し広げずに通る。二度、粘着へ捕まった。防水膜を薄く剥がし、外皮の一部ごと置いていく。
魔力が減る。
女は矢を番えたまま追ってきた。近づきすぎず、離れすぎない。俺が卵へ回り込まないか見ている。
「名前、聞いていい?」
「必要ない」
「俺はグルト」
「侵入者」
「呼び方が悪化した!」
返事はない。
森林外縁へ出る直前、俺は壁の結露を半リットルだけ動かした。飲むためではない。背後から閉じる糸を濡らさず押し戻すためだ。使用後の水は床へ散り、携帯水にはできなかった。
MPは九十四減っている。
外縁の割れ岩まで下がると、女は追撃を止めた。
「次に糸を切れば、戻れない」
「切らずに通れる場所を探す」
「ない」
「じゃあ、作らずに見つける」
女の眉がわずかに動いた。
「深森アラクネ、ネフィラ。お前が卵へ触れれば殺す」
名前だけが残り、姿は糸の森へ消えた。
和解ではない。
警戒は最大。俺が切った警報も直っていない。
しかも、切断口から増えた粘糸が、退路側へ伸び続けている。
水刃は武器ではなく、俺の場所を教える道しるべになってしまった。
次に一度でも切れば、今度こそ卵喰いとして扱われる。
俺は切断口から視線を外さず、来た道を頭の中で組み直した。
右の倒木は粘糸で塞がれた。左の石列には、さっき水刃が触れた振動が残っている。真後ろへ下がれば、収納した糸束が支えていた枝が落ちる。
進める方向は、斜め前だけ。
けれど、そこには細い糸が三段に張られている。
根に見えた時は一本の太い束だと思った。今なら分かる。外側は侵入を知らせる警報糸。中央は獲物の足を止める粘着糸。内側は、卵域へ振動を伝えないための緩衝糸だ。
三つをまとめて抜いたから、俺は警報を壊しただけではない。
森が敵の位置を見分ける仕組みまで崩していた。
「返した。だから終わり、とはいかないよな」
頭上で枝がきしんだ。
ネフィラの姿は見えない。
代わりに、俺の右側へ粘糸が落ちた。逃げ道を狭める一手だ。
左へ跳ぼうとした瞬間、そちらの糸が先に震えた。
読まれている。
俺が水刃を使うたび、空気中の湿り気が動く。その変化が警報網へ伝わり、発射位置だけでなく次に動く方向まで教えてしまう。
速度二百九でも、先回りされた網の中では意味がない。
俺は水刃を消した。
魔力を惜しんだのではない。武器を持つほど不利になると認めた。
地面へ体を低く広げ、落ち葉の隙間に残る湿り気を読む。
糸がある場所では、露の粒が一直線に並ぶ。粘りの強い糸の下では、葉が不自然に持ち上がっている。警報糸の近くでは、小さな虫さえ振動を避けて歩いていた。
見えていないのではない。
見方を間違えていた。
俺は右端の水分を一滴だけ外へ押し出した。
攻撃ではないほど小さな粒。
地面へ置くと、すぐに細く震えた。
その二歩先へ、もう一滴。
今度は動かない。
三滴目は大きく跳ねた。そこには粘着糸がある。
一滴ずつなら、ネフィラに位置を返しても、俺の全身がどちらへ動くかまでは読ませない。
問題は数だ。
今の俺が同時に区別できるのは、せいぜい十数滴。森全体を調べるには足りない。だから広い道を探すのではなく、今の体が通れる幅だけを調べる。
ネフィラの糸が一度、頭上で止まった。
俺が警報網を切らずに避けようとしていることを見たのかもしれない。
次の瞬間には、別の粘糸が足元へ刺さった。
警戒は少しも解けていない。
当然だ。
俺が返したのは盗った糸束だけで、失わせた警報の時間までは返せない。
俺はHPと魔力を確かめ、糸が震えない線を探すため、外縁へ水滴を並べ始めた。




