第55話 落ちる星図
アストラ・ゴーレムを倒した次の日、俺は水盤の中で目を覚ました。
地下天文庫の修復用に残っていた浅い水盤だ。セレネの許可を得て八時間、身体を湿らせて休んだ。HPは三百四十八のまま。魔力は四十二から六百十二まで戻っている。
空腹は戻らない。
むしろ、休んだぶんだけはっきりした。
水盤の縁には、守護者の核片が一食分として置かれている。星材三つ。その横に、返却済みの観測鏡片を点検するセレネがいた。
「起きましたか」
「起きた。あと、お腹も起きた」
「核片は毒性なし、命令残滓は外層だけです。全部を一度に食べないでください」
「全部食べる顔に見えた?」
「顔はありませんが、体が核片へ傾いています」
見ると、確かに水盤から半分ほど乗り出していた。
「これは重力!」
「床は反対側へ傾いています」
言い訳を諦め、核片を二つに分ける。一つは今食べる。もう一つは食料区画へ。赤い魔核とは別の棚へ置き、ミミック本体とも離す。
小片を体へ溶かすと、冷たい星光が核の周りへ広がった。
おいしい、とは少し違う。鉄の匂いと、夜の水みたいな冷たさ。空腹は静かになり、頭の奥で昨日の反射軌道が一つずつほどけた。
「未来の味がする」
「命令残滓を食べすぎましたか」
「比喩! たぶん!」
核片を食べても、守護者の未来予測は得られなかった。当然だ。俺が手に入れたのは曲射の手順であって、天球儀の機能ではない。
その代わり、星図板と観測室の水路を重ねた時、以前より位置関係が長く保てた。
「まず水路を直す」
戦闘で床は何か所も割れ、修復水が下層へ漏れている。中核星図が残っても、水盤が干上がれば鏡も記録板も傷む。
俺は星材を一つ持ち、最も大きい亀裂へ移動した。
以前なら、骨と石を同時に橋へしようとして接合順が混ざった。今回は星材を三つに割らない。一つのまま、亀裂へ斜めに置く。
床石へ直接つなぐと、硬さの差で星材が割れた。
「失敗」
「早い自己申告ですね」
「隠したら水が教えるから」
星材を外し、亀裂の両側へ薄い水膜を張る。水で接着するのではない。どちらへ荷重が流れるかを見るためだ。片側の膜だけが深く凹む。
「右が重い。なら、先に左を留める」
魔材クラフトで左端を固定し、次に中央、最後に右端。以前の二素材橋では全部を同時に締めて割れた。順番を変えると、星材は軋んだが折れずに水を受けた。
水路が一本つながる。
流れ読みで速度を測り、水圧制御で溢れを戻す。長く保っても接合が崩れない。
「できた!」
「まだ一時間です」
「前は三呼吸だった!」
俺は嬉しくなり、もう一つの亀裂も塞ごうとした。
セレネが弓の先で止める。
「星材は残り二つ。地図を読む前に全部使うつもりですか」
「使わない。今ので一つ消費、残り二つ。数えた」
「なら、言葉にしてください」
「星材二つ。核片は半食分が一つ。赤い魔核は一個、食べてない。星図板一枚、ミミック一体、携帯水ゼロ」
「核片の計算が曖昧です」
「お腹に入った分を量る道具がない!」
食料は半食分として記録した。
水路の補修を終え、中核星図の前へ移る。
星図は一枚の地図ではなかった。透明な石板が何層も重なり、それぞれに別の光点と線が刻まれている。昨日の戦闘で外輪一本を失い、いくつかの線は途中で切れていた。
セレネが上から三枚目を持ち上げる。
「これは水路」
下から二枚目を指す。
「これは落星軌道」
「重ねれば道になる?」
「重ねる順を誤ると、百年前の水路と現在の崩落を同時に読みます」
まず水路板だけを読む。
第六階層の線が途中で切れ、下へ三本伸びている。どれが今も通れるか分からない。
星図板だけを読む。
俺が持つ板は、死骸市場から天文庫へ至る線と、南下層へ落ちる封鎖方向を示す。だが縮尺が違い、中核星図へ置くと線が倍以上ずれた。
「一枚ずつじゃ駄目だ」
試しに二枚を重ねる。光点が増えすぎ、どれが道でどれが星か分からなくなる。
鑑定を使っても、名称の分かる線が増えるだけだ。正しい順番までは教えてくれない。
「未来を読む守護者を倒したのに、地図が読めない!」
「守護者の機能と地図の読解は別です」
「正しいけど悔しい!」
セレネは答えを出さず、昨日ゴーレムが歩いた軌道を床へ描いた。
守護者は星図棚を守る時、どの線を踏まず、どの線の上へ立ったか。
俺も七本の外れ弾を思い出す。
敵の姿勢を固定したのは、当たった刃ではなく、外れた位置の順番だった。
「地図も、線じゃなく順番を見る」
水路板を一番下へ。次に現在の落星軌道。最後に俺の星図板。
三枚を重ねる。
まだずれる。
俺は星材の細片を一つ、板の端へ仮留めした。補修に使うのではなく、高さを揃えるための支えだ。左端が一段上がり、光線が一点で重なった。
第六階層。
死骸市場と地下天文庫が、別の階層ではなく同じ巨大な環の内側にある。
「ここ、同じ場所だったのか」
「星図照合上は、第六階層です」
今まで「第六階層相当」としか分からなかった場所が、ようやく番号を持った。
さらに下を見る。
第七、第八、第九、第十階層へ続く線がある。最短の一本は細く、途中で無数の枝に包まれていた。
枝ではない。
規則正しく脈打っている。
水中感知を星図板へ重ねると、線の点滅が心拍のように返ってきた。
「これ、道じゃなくて血管みたいだ」
「比喩ですか」
「今度は観測。水路が一方向じゃない。押して、戻してる」
迷宮そのものが巨大な生き物の体内なのかもしれない。
だが、まだ仮説だ。星図が生物を描いているのか、管理核が生物に似た循環を作っているのか分からない。
「巨大生物の中だって決めるのは早いな」
「その判断は正しいです」
セレネが珍しくすぐ肯定した。
「記録には、同じ水路が季節では説明できない位置へ移った例があります。迷宮の意思か、生体変動か、管理者の操作かは未確定です」
「分からないことが増えたのに、ちょっと嬉しい」
世界が大きくなった。
俺の胃袋では入らないくらい大きい。
興奮して星図へ近づいた時、体の奥で熱が弾けた。
レベル十九から二十。
HP三百四十八から三百六十四。魔力六百十二から六百四十。攻撃百十三から百十八、防御五十二から五十四、速度二百二から二百九。進化ポイントは十八から十九。
満ちた力を、さっき直した水路へ試す。
星材と床石の接合を二か所、別々に保ったまま、水圧を上げる。以前なら片方が外れた。今は流れが太くなっても、役割の違う二素材を安定して維持できる。
「一時間じゃなく、これなら一日もつ」
「一日後に再検査します」
「そこは一緒に喜ぼうよ!」
セレネの口元が少しだけ動いた。
地図へ戻る。
最短路を包む無数の枝は、糸だった。水路の湿りを拾い、細く震えている。その中心に、規則的な丸い影がいくつも並ぶ。
卵だ。
最短路は、誰かの卵域を貫いている。
「無人の近道じゃない」
「所有者は未確認です。ただし、振動は現在も維持されています」
生きている巣だ。
俺が近道だからと水刃で切れば、守護者が星図を踏むのと同じことをする。
「迂回路は?」
「二日長い。水源は不明」
食料は半食、携帯水ゼロ。安全だけで選べる余裕はない。
それでも、巣を壊して通る答えは選ばない。
「まず、触らずに入口まで行く。誰かいるなら条件を聞く」
俺は星図の糸へ水滴を一つ近づけた。触れさせない距離でも、糸は水分へ向かってわずかに震える。生き物の反応か、警報の仕組みかはまだ分からない。
水滴を引けば震えは止まった。追ってはこない。
「入口の外から観測できる。切らなくても、近づいたことは向こうへ伝わるかもしれない」
「なら、最初の接触は攻撃ではなく合図になります」
「合図だって分かってもらえればね」
分からなければ逃げる。その退路も先に探す。最短路という言葉に釣られ、真っ直ぐ入ることだけはしない。
セレネは星図板から手を離した。
「私は同行しません」
予想していたのに、少し寂しかった。
「天文庫を直す?」
「ここは私の観測地点です。中核星図も、壊れた外輪も残っています」
「分かった。無理に来てとは言わない」
「次に戻る時、星図を壊していれば敵対します」
「お別れの言葉が重い!」
「観測鏡の傷の代価も未精算です」
「帰ってきたら直す。弓も、鏡も。完全には無理でも、支えは作る」
「では、その時に請求します」
仲間になる約束ではない。
ここへ戻れば会えるという約束でもない。
でも、次に交換するものが残った。
俺は星図板を胃袋へ戻し、赤い魔核の隔離を確認する。食料半分、星材二つ、携帯水ゼロ。ミミック本体は別区画で静かにしている。
出発前、修復した水路をもう一度見る。
水は星材の上を越え、二つの亀裂へ均等に流れていた。
守るために倒した敵から得た素材で、壊れた場所を直した。
食べて強くなるだけではない。残すために使う力も、前より確かに増えている。
星図の最短路で、無数の糸が同時に震えた。
俺はその振動が歓迎ではないと理解しながら、第七階層へ続く道へ向かった。




