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食いしん坊スライムはダンジョン最深部を目指す  作者: バナナ


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第52話 鏡が一枚、足りない

観測鏡工房跡は、鏡より先に砂の匂いがした。


地下天文庫の外周を半周した先。崩れた扉の向こうに、円形の研磨台が三つ並び、壁には大きさの違う枠だけが残っている。鏡面は一枚もない。床に積もる銀灰色の粉と、曲率を測る細い針が、ここで何を作っていたかをかろうじて教えていた。


「鏡の工房なのに鏡がない!」


「守護者が起動した時、反射物は優先して破壊されました」


セレネが扉の外を振り返る。遠くで石が砕ける音がした。アストラ・ゴーレムは俺たちを見失っていない。露出した旋回軸を守るため、反射に使えそうな物を順番に壊しながら近づいている。


俺のHPは二百九十四。魔力は二百八十三。食料はゼロ。


胃袋から半分の破鏡、濁り骨一本、残った星屑砂を出した。これで作れなければ、次の材料はセレネの弓か、天文庫そのものになる。どちらも使いたくない。


「濁り骨を磨けば光る?」


「骨は光を吸います」


「磨く前から夢を壊さないでよ」


「観測結果です」


俺は濁り骨を研磨台へ置き、水膜を薄く広げた。魔材クラフトで表面の凹凸を削り、水圧制御で粉を流す。


一度目は力を入れすぎた。


骨の表面が剥がれ、白黒い粉が顔もない俺の正面へ飛んできた。


「ぺっ、ぺっ! 口はないけど、まずいものが入った感じがする!」


粉を胃袋へ落とす前に吐き出す。素材としてまとめようとしたが、粒が細かすぎて水へ散り、床の溝へ半分流れた。


「濁り骨の強度が落ちました」


「見れば分かる!」


残った骨は薄くなったが、片面だけ少し滑らかになった。そこへ水膜を張る。鏡の代わりになるか、低出力の水刃を壁へ撃って試した。


水刃は水膜へ触れた瞬間、膜ごと骨から剥がした。


青い塊が天井へ飛び、俺の真上から落ちてくる。


「うわっ!」


体を横へ潰す。水刃は研磨台へ当たり、針を一本折った。


セレネが無言で折れた針を拾う。


「ごめん」


「これは第六観測鏡の曲率針です」


「名前を聞くと罪が重くなるな……」


「壊れた事実は名前を知らなくても変わりません」


「本当に厳しい!」


でも彼女は俺を追い出さなかった。折れた針を枠へ戻し、残る二本で測れる範囲を確認している。失ったものを数えるだけではなく、残ったもので次を作る人だ。


工房の外で足音が近づく。


一歩ごとに、壁の星砂が落ちる。


「固体の鏡は無理。じゃあ水だけで曲面を作る」


俺は破鏡半分を台座の中央へ置き、その前へ水を盛った。水圧制御で中央を厚く、端を薄くする。透明な椀を横倒しにしたような形だ。


低出力の刃を撃つ。


水膜は刃を受けた。今度は剥がれない。


刃が大きく曲がった。


成功だと思った次の瞬間、青い線が工房を一周して俺の後ろから戻ってきた。


「なんでこっち!?」


水流滑走で逃げる。刃も曲面に沿って進路を変え、研磨台の周囲を追ってきた。右へ曲がれば右へ、低くなれば低くなる。自分で撃った水刃に追われるのは、敵より恥ずかしい。


「曲面が連続しています! 膜を切って!」


「切ったら刃がどこへ行くか分からない!」


「今も分かりません!」


正論だった。


俺は膜の一部だけを流路切断で断った。曲面を失った水刃が直進し、工房の入口へ飛ぶ。


ちょうどそこへ、ゴーレムの拳が現れた。


水刃は拳へ当たり、薄い傷だけ残して消える。


守護者が足を止めた。


俺も止まった。


「今の、狙ったことにできない?」


「できません」


「一息くらい夢を見させてよ!」


ゴーレムが入口を広げようと両手をかける。工房の天井が軋む。ここで戦えば残った研磨台も潰れる。


俺は水膜を回収し、骨を抱えて奥の作業溝へ滑り込んだ。セレネも別の溝へ飛び、弓で壁の操作石を射る。石扉の残骸が落ち、入口を半分塞いだ。


完全には止まらない。拳が石を一枚ずつ剥がしている。


「水だけだと曲がりすぎる。骨だけだと水が剥がれる。なら、骨に水をくっつけるものがいる」


星屑砂を指先ほど出した。


一粒ずつが弱い魔力を反射している。第四射へ混ぜた時は軌道を分散させた。今度は散らさず、骨の表面へ薄く埋め込む。


「残りを全部使えば、星図の補修材がなくなります」


「全部は使わない。骨の片面だけ。それも真ん中じゃなく、縁に三列」


「理由は」


「真ん中を固めたら一つの答えになる。縁だけなら、水が少し迷える」


セレネが曲率針を骨へ当てた。


「迷いを設計値にするのですね」


「格好よく言うとそうなる」


星屑砂を水へ混ぜ、濁り骨の縁へ押し込む。魔材クラフトで固定するが、一度に締めない。左、右、下。それぞれ魔力の向きをずらした。


一列目は砂が剥がれた。


二列目は骨がひび割れた。


三列目で、薄い水膜が骨へ残った。


やっと一呼吸。次の呼吸で端が崩れる。


「短い!」


「一射には足ります」


セレネが曲率針で水膜の膨らみを測る。上端が深く、下端が浅い。左右も揃っていない。普通なら不良品だ。


未来を一つに絞る敵へ使うなら、不揃いのほうがいい。


「試す」


工房奥の金属板へ狙いを定め、細い水刃を撃った。


刃は曲面へ入り、左へ大きく曲がる。


予想より大きい。


金属板を外れ、壁へ当たり、浅く反射してこちらへ戻る。


「また俺!?」


避けようとしたが、作業溝が狭い。水刃の端が体表を切り、HPが二百九十四から二百八十五へ落ちた。


痛みより先に、成功の形が見えた。


一度目の曲がりは骨と星屑砂で作れる。二度目は壁や床に残した水で変えられる。曲がりすぎたのは、二つの反射を一度に考えなかったからだ。


「一回だけなら、形を保てる」


「その一回が自分へ戻りました」


「次は戻らない角度にする!」


「どうやって」


「床へ水を残して、戻る前にもう一度曲げる」


言うだけなら簡単だ。俺は工房の床へ三つの水滴を置き、曲率針の代わりにした。


一つ目は発射点。二つ目は曲面鏡。三つ目は、戻ってくる刃を受ける床の水膜。


水滴を一直線に並べると、刃は二つ目で曲がったあと三つ目を通り過ぎる。三つ目を近づけると、自分へ戻る。遠ざけると壁へ当たる。


「ちょうどいい場所がない」


セレネが折れていない曲率針を二本、床へ交差させた。


「発射点を固定したまま探すからです」


「俺が動く?」


「鏡を動かせば守護者が読みます。水膜を動かしても流れが見える。なら、発射する身体だけを最後にずらす」


俺は水滴の一つ目を右へ動かした。三つの点が浅い三角になる。


二つ目で左へ曲がり、三つ目で右へ戻す。最終線は、最初の発射方向と平行になる。


「後ろへ回って、同じ向きに戻る」


「背面核の内側へ入る可能性があります」


可能性。確定ではない。それで十分だ。


低出力の水刃をもう一度作る。今度は撃つ前に体を半歩右へ滑らせた。刃は曲面へ入り、床の水膜を掠め、俺から二歩離れた場所を通って壁へ刺さる。


戻ってこなかった。


「成功!」


喜んで水滴を跳ねさせたせいで、三つ目の膜が崩れた。


「本番では喜ばないでください」


「無理かもしれない」


「なら、喜ぶのは発射後に」


約束できるかは分からない。それでも、角度を一つ覚えた。


自分の水刃に追われた失敗は、発射位置を変える必要を教えてくれた。鏡の精度だけを上げても、俺が同じ場所にいれば同じ失敗へ戻る。


言ってから気づく。二枚目の鏡が要るわけではない。固い鏡は一枚でいい。次の反射面は、外した刃そのものが残す水で作れる。


ただし、今の曲面鏡は一回しか保たない。濁り骨はひび割れ、星屑砂もほとんど縁へ固定した。作り直す材料はない。


入口の石が崩れた。


ゴーレムの天球儀が隙間から覗く。


「時間切れです」


セレネは自分の腰袋から、指二本分の細い鏡片を出した。


透明度が違う。割れていても、俺が拾った破鏡よりずっと澄んでいる。縁には小さな星番号が刻まれていた。


「それ、何?」


「私の観測鏡です」


「駄目だろ。大事なやつだ」


「大事だから、使う条件を決めます」


彼女は鏡片を俺へ投げず、手の上に載せたまま言った。


「一射だけ。星図棚を守るために使う。戦後、欠片でも返す。胃袋の所有物にしない」


条件の一つ一つが、これまでの俺なら面倒に感じたかもしれない。


今は違う。借りた物は、食べても拾っても俺の物にならない。第六階層で何度も痛い目を見て、ようやく腹の外でも分かるようになった。


「分かった。一射。棚を守る。欠片でも返す。勝手に食べない」


「最後の一つは当然です」


「俺には大事なんだよ!」


鏡片を受け取り、濁り骨の中央へ載せる。星屑砂は接着ではなく、縁の高さを調整するだけに使う。水膜を張ると、さっきより小さいが、崩れにくい曲面ができた。


魔力は試作と流路切断で二百八十三から百五十七まで減った。


HP二百八十五。食料ゼロ。曲面鏡は一回分。


守護者が最後の石をどけ、工房へ腕を差し込む。


俺は曲面鏡を胃袋の入口へ固定し、セレネと観測室へ戻る反対側の溝を選んだ。


背後で研磨台が砕ける。


自分の水刃に追われた軌道を、忘れない。


戻ってきた刃は失敗ではない。二度目に曲げられる位置を教えてくれた。


次は、敵にも同じ失敗を読ませる。


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