第51話 八本目は後ろから
七本の水刃を外したあと、観測室には奇妙な静けさが残った。
正面にはアストラ・ゴーレム。右足を引き、左腕を胸の前へ置き、天球儀を斜め下へ向けたまま動かない。俺がまだ作ってもいない八本目を、もうそこへ撃つと信じて待っている。
俺は床へ薄く広がり、体の中を確かめた。レベル十八。HP三百三十二、魔力五百八十四。さっき満ちたばかりの力が、核の周囲で熱を持っている。
食料はゼロ。携帯水もゼロ。死骨も使い切った。残っているのは星屑砂が半量、破鏡一枚、濁り骨一本。それから、絶対に食べない赤い魔核と、星図板と、胃袋の別区画で今も擬態を続けるミミック本体。
強くなったのに、腹の中身は寂しくなる一方だ。
「八本目を撃つ前に確認。あいつが待ってるのは、あの鏡から返る刃だよな」
上段外周に立つセレネは、傷の入った弓で破鏡を指した。
「守護者の天球儀は、七本の軌道から次の一点を選びました。確実とは言いません」
「そこは『当たります』って言ってくれない?」
「観測者は、願望を観測結果へ混ぜません」
「厳しい!」
でも、答えを決められるよりいい。撃つのは俺だ。外した七本も俺が選んだ。なら、八本目の責任も俺が持つ。
俺は床に残した七つの水滴印を見た。一から三、四から六、最後の七。全部を同時に覚えようとすると混線する。三つずつ順に思い出せば、敵がどちらへ重心を移したかが見える。
一、正面。二、左床。三、右壁。
ゴーレムの右足が少しずつ引かれた。
四、重い星屑入り。五、天井。六、揺れる鏡。
天球儀が斜め下を向いた。
七、最も遅い床すれすれ。
左腕が胸前へ固定された。
「同じ形だ。今なら後ろが空いてる」
「空いているように見せている可能性もあります」
「それも込みで、やる」
破鏡を床から剥がし、魔材クラフトで星石の欠け目へ立てた。固定するのは下端だけ。角度を決めすぎると、守護者は正確な反射先まで読む。少し揺らせば、俺にもどこへ飛ぶか分からない。
自分にも分からない攻撃を撃つのは、あまり賢い感じがしない。
だが、全部読まれるよりはましだ。
水刃を一つ作る。大きくしない。正面から外殻を割る威力ではなく、鏡へ届いて形を保てる細さに絞る。水圧制御で刃の芯だけを締め、外側には薄い水膜を残した。
「八本目!」
撃った瞬間、ゴーレムが動いた。
予測どおり右足を軸に旋回し、左腕を正面へ差し出す。俺の水刃はその腕へ向かわず、床の破鏡へ落ちた。
甲高い音。
鏡が揺れ、刃が後方へ跳ねる。
青い線がゴーレムの右脇を抜け、背中へ回った。
「当たれ!」
水刃が背面へ突き刺さった。
銀色の外殻が割れ、星のような破片が散る。初めて正面以外から届いた。歓喜で体が跳ね、空腹のことまで一瞬忘れた。
「やった! 後ろから――」
割れたのは外殻だけだった。
その下で、赤白い命令光が回っている。核ではない。背面装甲を支え、天球儀と腰をつなぐ旋回軸だ。刃は軸の表面へ細い傷を残したが、止められていない。
「浅い!」
セレネの声と同時に、ゴーレムの首が反対向きに回った。
正面の俺ではなく、反射に使った破鏡を見ている。
「あ、学んだ」
天球儀の星が鏡へ集まる。
巨拳が振り上がった。
俺は鏡を胃袋へ戻そうとした。だが、鏡の下端は魔材クラフトで星石へ噛ませてある。焦って引くほど継ぎ目が締まり、外れない。
「こういう時だけ仕事が丁寧!」
一度クラフトを解除しようと魔力を流す。拳が先に落ちた。
床が爆ぜる。
俺は水流滑走で鏡の横へ飛び、体を広げて破片を包んだ。直撃は避けたが、砕けた床石が外膜へ突き刺さる。HPが三百三十二から三百十四へ落ち、さらに拳圧が体を壁へ押しつけた。
二度目の衝撃で二百九十四。
「ぐっ、鏡は……!」
包んだ内側で、破鏡が二つに割れていた。片方は粉々。もう片方は掌ほどの曲面を残している。
守れたのは半分だけだ。
ゴーレムが次の拳を構える。鏡を壊せば背後から撃たれないと理解したらしい。未来を読むだけではない。失敗した未来を捨て、次の防ぎ方を学んでいる。
俺は残った鏡半分を胃袋へ滑り込ませた。今度は固定していない。すぐ入った。
「セレネ、下がって! あいつ、鏡の次は星図を狙う!」
「星図棚は盾にしません」
彼女は上段から降りず、棚の前にも立たなかった。弓を引き、ゴーレムの天球儀へ一本撃つ。
矢は届く前に拳で砕かれた。
「盾にしないのと、捨てるのは違います。守るために観測室を壊すなら、ここを残す意味がない」
俺は返事を飲み込んだ。
俺なら、守りたいものを胃袋へ入れて逃げる。だが星図は持ち出せない。セレネはここへ残り、壊さない方法を選ぶしかない。
ゴーレムが床を蹴る。
八本目の反射で背面外殻は割れた。旋回軸も露出した。なのに、核へ届く角度はさらに悪くなっている。軸は背中の窪みにあり、直線の水刃なら外殻へ当たる。さっきのように一度曲げても、浅い角度で表面を削るだけだ。
「一枚じゃ足りない」
俺は呟き、足元へ水膜を広げた。
守護者は水膜の縁を見て、反射先へ先回りする。俺が撃つ前から鏡を壊すなら、鏡を守る作戦では勝てない。
なら、壊させる場所を選ぶ。
「セレネ。あいつが回る時、動かないところはどこ?」
「背面軸の中心です。ですが、刃は届きません」
「届かないなら、届く形を作る。鏡を一枚守るんじゃなくて、曲がる場所を増やす」
「破鏡は半分です」
「濁り骨が一本ある。星屑砂も少し。鏡じゃないものを鏡にできるか試す」
「食料は」
「聞かないで」
「ありませんね」
「分かってるなら聞かないで!」
ゴーレムの拳が落ちる。俺は水膜を一気に引き、空振りさせた。魔力は八本目と防御で三百一を使い、五百八十四から二百八十三まで減っている。次に同じ八連射をしたら、途中で空になる。
だから同じことはしない。
セレネが外周路を指した。観測鏡を磨いていた工房跡があるという。そこなら曲面を測る台座と、割れた研磨具が残っているかもしれない。
俺は後退しながら、露出した旋回軸をもう一度見た。
背後から当てた。外殻を割った。届かなかった。
失敗ではない。どこまで届くかを、初めて傷として残した。
ゴーレムの拳が破鏡のあった床を粉砕する。鏡はもうそこにない。それでも敵は二度、三度と同じ場所を叩いた。
「読んだ未来を、すぐには捨てられないんだ」
守護者の予測にも癖がある。
俺はすぐに逃げず、崩れた柱の陰からもう一度だけ観測した。
一度目の拳は、八本目が反射した位置。二度目は、鏡を回収しようと俺が踏み込んだ位置。三度目は、セレネが矢を放った上段の真下。敵は起きたことを順番に消している。
「あいつ、未来だけじゃなく過去まで殴ってる」
「再現可能な発射点を破壊しています」
「同じ意味でも、そっちの言い方は賢そうで悔しい」
セレネは返事の代わりに、床へ三本の短い線を描いた。拳の落下点だ。三つは一直線ではなく、わずかに弧を作っている。
「守護者は鏡そのものを追っていません。反射後にあなたが選ぶ位置を追っています」
「じゃあ鏡を増やしても、俺が同じ場所へ立てば潰される」
「はい」
工房で作るべきなのは強い鏡だけではない。撃ったあと、俺がどこへ動くかまで含めた形だ。
試しに、破鏡を取り出さず水膜だけを左床へ置いた。ゴーレムの天球儀が一度そちらを向き、すぐ俺へ戻る。反射面だけでは攻撃と判断しない。
次に濁り骨を水膜の下へ滑らせる。星が二つ灯った。骨と水が重なった時だけ、鏡候補として数えた。
「材料の組み合わせまで見てる」
俺は濁り骨を引いた。守護者は追わない。そこで星屑砂を一粒、水膜へ落とした。
天球儀が激しく回り、巨人の左肩が鏡を守る姿勢へ変わる。
星屑は軌道を増やす。骨は形を支える。水は刃を返す。敵の反応が、材料それぞれの役割を教えてくれた。
「殴らせずに試せる」
「一粒ずつなら、です」
俺は残りの星屑砂を数えようとして、細かすぎて諦めた。半量という記録以上には分けられない。
「数えられないものを、全部使わないようにするの難しいな」
「先に使用上限を器へ分けます」
セレネが床の浅い窪みを二つ指した。片方へ試作分、片方へ保全分。俺は砂を水で運び、目分量ではなく同じ高さまで分けた。
片方は工房へ持っていく。もう片方は、星図の補修が必要になった時のために残す。
空腹だと、食べ物だけでなく素材まで「今使え」と迫ってくるように感じる。けれど全部を一度に使えば、次の失敗を直せない。
八本目が外殻を割った喜びを、ここで九本目へ変えてはいけない。
俺は水膜を回収し、濁り骨と試作分の星屑砂だけを近い棚へ移した。保全分は赤い魔核から離れた区画に固定する。
「準備できた。今度こそ下がる」
「先ほどもそう言いました」
「観測が増えたから、さっきよりちゃんと下がる!」
俺はセレネと別々の外周を走り、工房跡へ向かった。
胃袋の中で、半分になった鏡がかすかに鳴る。
次は一度だけ曲げる鏡では足りない。
二度曲げる方法を、材料がなくなる前に作らなければならない。




