第50話 外れる七本
八時間眠って、最初に考えたのは朝飯だった。
次に考えたのは、朝飯がないという事実だった。
「お腹が空いた……。いや、俺の場合は全身が胃袋みたいなものだから、全身が空いた……?」
避難水路の浅い溜まりへ浸かりながら、俺は自分の輪郭を確かめた。湿潤休息のおかげで、HPは二百四十一から三百十六へ、魔力は四十から五百五十六へ戻っている。水は飲み込まず、体表を潤すために借りただけだ。携帯水は相変わらずゼロ。
水路の外周試験路には、崩落で新しいものが流れ着いていた。銀青色に光る星屑砂。割れた観測鏡。黒く濁った獣骨が一本。食べられるものはない。
「砂、鏡、まずそうな骨。品揃えが完全に工作用品なんだよなあ」
胃袋の中の赤い魔核が、どくん、と脈打った。
「お前は食べない。何度でも言うけど食べない。赤く光っても果物じゃない」
空腹がひどいと、判断まで食欲へ引っ張られる。飢餓感知は危険を教えてくれるが、腹を満たしてはくれない。俺はまず、濁り骨と破鏡を別区画へ収納した。ミミック本体は低温区画に隔離したまま。胃袋検索は二条件、一回ずつ。混ぜない。
外周試験路は、観測室を囲む細長い弧だった。片側は星盤の壁、反対側は底の見えない空洞。床には七つの射撃点が白く刻まれ、その先でゴーレムの巡回路が交差している。
ごおおお……。
遠くから石の唸りが届く。観測室を出たアストラ・ゴーレムが、外周を探している。
頭上の割れ目から、小石が一つ落ちた。
矢が飛び、空中でその小石を壁へ縫い止めた。
「見つけました」
上段の通路から、セレネが姿を見せた。銀髪は埃まみれで、右足には星図布を裂いた包帯が巻かれている。それでも中核星図板を背に固定し、弓を手放していない。
「セレネ!」
喜びのまま跳ねた俺は、水盤の縁へ引っかかって前転した。
「無事でよかった! 今の転び方は見なかったことにして!」
「一度に二つ頼まないでください」
彼女は疲れた顔で、それでもはっきり笑った。
俺たちは互いの成果を確かめた。水脈避難口は残った。中核星図も残った。中央床と観測鏡の大半は失った。完全な勝利ではない。でも、二人とも生きている。
「次は、あのゴーレムの予測姿勢を固定する」
床の七つの射撃点を示す。俺は水滴を一つずつ置き、順番を刻んだ。
「外す水刃を七本撃つ。当てるためじゃない。あいつがどう読むか、こっちから規則を作る」
セレネの眉が上がる。
「同じように外せば、同じように読まれるとは限りません」
「まず三本、同じ条件で試す。それで駄目なら変える」
「三本でこちらの位置も学習されます」
「……そういう怖いこと、もう少し優しく言えない?」
「死ぬ可能性がありますが、応援しています」
「優しくなったのに怖さが増した!」
俺たちは退く条件も決めた。ゴーレムが射撃点を二つ続けて壊したら中断。セレネの右足が動かなくなったら中断。俺の魔力が水刃三本ぶんを下回っても中断。成功したい気持ちは強いが、前回みたいに逃げ道まで失えば、次の試行そのものがなくなる。
「外す練習で命を落としたら、たぶんすごく格好悪い」
「格好ではなく、生存を理由に退いてください」
「分かってる。今のは、怖いって意味」
セレネは短くうなずいた。からかわずに受け取ってくれたことが、何よりありがたかった。
ゴーレムの足音が近づく。床の砂が跳ね、割れた鏡に巨大な影が映った。
俺は第一射撃点へ進む。水刃は同時に三本までしか保持できない。七本を一度に操ることはできない。三本、三本、最後に一本。床の水滴印で順番を覚える。
ゴーレムが角を曲がった。
天球儀の顔。黒曜石の鎧。胸の小さな星。こちらを認めた瞬間、咆哮が通路を押し潰す。
「グオオオオオオ!」
怖い。昨日、何をしても先回りされた記憶が体を固める。もう一度殴られれば、今度も逃げられる保証はない。
「グルト」
セレネが俺を見ず、ゴーレムの足元を見ている。
「恐怖で射点を変えるなら、今です」
「変えない。怖いけど、怖いから決めた順でやる」
第一射。ゴーレムの左肩より一尺上へ。
「水刃!」
刃が外れる前から、ゴーレムは右足を引いた。
第二射。右膝より低く。敵は腰を落とした。
第三射。頭上。敵は半歩前へ出た。
「全部外れた!」
「狙いどおりでしょう!」
「分かってても悔しいんだよ!」
三本とも同じ速さ、同じ透明度で撃った。だが敵の姿勢は毎回違う。こちらの狙いだけでなく、刃が通った先の地形まで読んでいるらしい。
ゴーレムが拳を構えた。俺が第四射撃点へ移る場所に、赤い軌道線が灯る。
「同じ外し方じゃ駄目だ!」
俺は第四射の水へ、星屑砂を半分混ぜた。透明な刃が銀青色へ濁る。質量が増え、速度は落ちる。水圧制御で無理に速めず、あえて重くする。
「それは貴重な観測材です!」
「半分だけ! 残りは返す!」
第四射を床すれすれへ放つ。
ゴーレムの天球儀が激しく回った。刃の未来が一つに定まらない。星屑が途中でばらけ、複数の細い軌道を作ったからだ。
巨人は初めて、攻撃後に姿勢を直した。
「グル……?」
低い困惑の音。敵にも迷いがある。
「効いた! 当たってないけど効いた!」
喜んだ直後、巨拳が床へ落ちた。第四射撃点が砕け、衝撃で俺は壁へ飛ばされる。潤んだ外膜で受け流したためHPまでは削られなかったが、核の周りが鐘みたいに震えた。
「ぐえっ!」
痛みはある。だが直撃ではない。敵の先回りが一拍遅れた。
セレネが上段から叫ぶ。
「四本目のあと、天球儀が同じ星を二度選びました! 予測候補が重なっています!」
「じゃあ、五本目は高さを変える!」
第五射は天井へ。第六射は壁へ一度当てる。破鏡を角度だけ合わせ、魔材クラフトで床へ仮固定する。
精密に作りすぎれば読まれる。だから固定は一か所だけ。鏡が少し揺れる余地を残す。
第五射。
ゴーレムは膝を曲げる。
第六射。
鏡へ当たった水刃が予想より下へ跳ねた。俺のすぐ横を通り、危うく自分の体を切りそうになる。
「危なあっ! 外れ弾が俺に帰ってきた!」
慌てて体を薄くする。刃は背後へ抜け、ゴーレムの右側面を通過した。
敵はまた同じ姿勢を取った。右足を引き、左腕を胸前へ、天球儀を斜め下へ向ける。
「固定傾向です!」
セレネの声が弾んだ。彼女も興奮を隠せていない。
残る第七射。水は三本同時保持を越えないよう、先の刃が消えたのを確かめてから作る。床の水滴印は六つ消え、最後の一つだけ残っている。
空腹で集中が揺らぐ。赤い魔核の熱が食欲を刺激する。俺は自分の体を一度、床へ強く打ちつけた。
「食べ物のことはあと! 今は七本目!」
「誰へ言っているのです」
「俺の腹!」
第七射は、最も遅く、最も低く、濁りを入れずに撃つ。狙いは敵の足元ではなく、その一歩手前。
水刃が走る。
ゴーレムは右足を引き、左腕を胸前へ置き、天球儀を斜め下へ向けた。
六本目と同じだ。
「そろった!」
歓喜が爆発し、体が勝手に跳ねる。外した。七本全部外した。それなのに、初めてこちらが敵の姿勢を決めた。
ゴーレムは怒りの雄叫びを上げた。
「グオオオオオオオ!」
両拳が床へ振り下ろされる。俺とセレネが立つ位置ではない。第八射が来ると予測した、反射位置だ。
俺は息を呑んだ。
「第八射なんて、まだ作ってないぞ」
上段で、セレネが残る破鏡の角度を指した。
「守護者には、もう見えています。あの鏡から、背後へ返る軌道です」
「撃つかどうかは?」
「あなたが決めてください」
彼女は答えを奪わなかった。星図を守る自分の知識を渡し、発射の責任は俺へ返した。
その瞬間、体内にレベルアップの熱が走る。七つの失敗軌道を生きて観測し、守護者の予測を一つへ絞った経験が、ようやく形になった。
Lv17からLv18。最大HPは三百十六から三百三十二、最大魔力は五百五十六から五百八十四。攻撃は百三から百八、防御は四十八から五十、速度は百八十八から百九十五。進化ポイントも十六から十七になり、消耗した体も魔力も満ちた。技能の習熟度はどれも変わらない。外れ方を覚えたのは、数値ではなく七本を撃ち分けた俺自身だ。
俺は床へ三つの水滴を並べ、順番に動かした。以前、七本分を一度に覚えようとして魔力が混線した。今は三本ずつなら、発射順を別々に保てる。速くなった思考ではない。失敗の順番を体へ刻んだからできる。
「できる。七本を一度に持たなくていい。三本ずつ、外れ方を積めばいい」
ただし、決定打はまだない。第八射を撃てば、ゴーレムも次の未来を読む。
俺は新しい水刃を作らず、いったん後退した。
「今日はここまで。次は、後ろから当てる」
「退くのですか」
「逃げるんじゃない。ちゃんと当てるために、腹ごしらえと鏡の角度を考え直す」
言い終えた腹が、ぐう、と存在しないはずの音を鳴らした。
セレネが目を丸くし、それから声を立てて笑った。
「未来を読む守護者より、あなたの空腹のほうが予測しやすい」
「次はそこも外してみせる!」
ゴーレムは固定された姿勢のまま、俺たちを追わなかった。第八射の未来を守るため、あの位置を離れられないのだ。
七本の失敗が、初めて敵を縛った。




