第49話 星図か、水路か
崩れる音は、二方向から来た。
右手の高所では、天文庫の中核星図を収めた書架が傾いている。銀の輪が何重にも回り、その内側で青い星粒が地図を描いていた。左手の低所では、下層へ続く水脈避難口へ亀裂が走り、透明な水が細い滝になって闇へこぼれている。
中央床には、俺とセレネ。
背後には未来を読むゴーレム。
HP二百四十一。魔力二百十九。食料半食。死骨二本。
「両方は無理だ」
口にした瞬間、胸のない体が痛んだ。言いたくなかった。工夫すれば全部助けられると、どこかで思っていた。
セレネは中核星図を見たまま、唇を噛んだ。
「星図が落ちれば、天文庫の観測記録は復元できません」
「水路が潰れたら、下にいる奴らの逃げ道が消える」
「分かっています」
声が鋭い。俺に怒っているのではない。選ばなければならない状況に怒っている。
天井から巨大な石板が落ち、中央床へ突き刺さった。二人の間に壁ができる。
「セレネ、星図へ行け!」
「あなたは水路へ?」
「俺は最深部へ行く。その道を潰させない」
「その傷で一人は無謀です。戻ってください。星図を固定したら私が――」
「間に合わない!」
怒鳴った声が、自分でも驚くほど大きかった。セレネの目が見開かれる。
「ごめん。でも、ここで相談して両方落とすのが一番いやだ。俺は水路を選ぶ。君は君の大事なものを選べ」
「私へ任せるのではなく?」
「任せる。だけど、俺の代わりに君のものを捨てろとは言わない」
亀裂が中央床を割った。
セレネは一度だけ目を閉じ、弓を握り直した。
「分かりました。中核星図は私が残す。水路は、あなたが残してください」
「了解!」
俺たちは別方向へ走った。
水脈避難口は、観測室より二段下の外周路にある。階段は途中で崩れ、幅一尺ほどの軌道梁だけが残っていた。下から湿った風が吹く。水中感知を広げると、奥に細い流れがある。完全に潰れてはいない。
ただし入口の上には、崩れた星石柱が一本、今にも落ちそうに傾いていた。
「あれを支えれば、水路は残る」
死骨二本を出す。これが最後の材料だ。一本を柱の下へ、もう一本を亀裂の縁へ。骨縫いでつなぎ、三角の支えにする。
魔力が流れた瞬間、背後から拳圧が来た。
ゴーレムは俺を追って観測室を出ていない。それでも、銀扉越しの一撃で床の軌道を揺らし、俺が作る支えの完成地点を崩してくる。
「しつこい! 未来が見えるなら、空気を読んで見逃せ!」
骨一本がずれた。俺は体を柱の下へ滑り込ませ、自分の背で重さを受ける。
ずしり。
重い。進化前なら、一瞬で核まで潰れていた。今も楽ではない。傷ついた体から水分が押し出され、視界が白く滲む。
「前より強い。前より強いけど、これは無理なやつ!」
叫んで恐怖を外へ出す。柱を押し返すのではなく、荷重の流れを読む。水圧制御で体内の水を左右へ分け、中央の核へ力が集中しないよう逃がす。
死骨を一本、柱の窪みへ差し直す。もう一本を床の亀裂へ斜めに噛ませる。
「魔材クラフト――支えろ!」
骨に魔力が灯り、星石の重さを受けた。柱は止まった。完全ではない。骨はみしみし鳴り、長くはもたない。それでも、水路の入口一つが通れる幅で残った。
維持のための力が足りない。俺は残していた半食を胃袋から出し、迷わず体へ溶かした。傷は治らない。HPも戻らない。ただ、崩れかけた輪郭を保ち、骨へ魔力を送り続ける燃料にはなる。これで食料はゼロだ。
甘いとも苦いとも言えない栄養が、空腹の底へ落ちて消える。本当なら、次にいつ食べ物が手に入るか分からない場所で最後の半食を使うなんて正気じゃない。胃袋の奥では赤い魔核が熱を放ち、代わりに自分を食べろと誘うように脈打っている。
「違う。お前は非常食じゃない。たぶん食べたら、俺のほうが非常事態になる」
冗談にして口へ出さなければ、手を伸ばしていたかもしれない。怖くなって、赤い魔核の区画をもう一度閉じる。星図板とミミックも別の区画だ。空腹だからこそ、食べてはいけないものの順番を確かめる。
半食を失った代わりに、支えへ送る魔力が安定した。死骨の軋みが一段低くなり、水路へ落ちる砂が止まる。腹は空っぽでも、選んだ結果だけは目の前に残った。
水中感知を入口の奥へ伸ばす。細い流れは三つに分かれ、そのうち二つは崩落土で詰まりかけていた。残る一本だけが下層へ続いている。俺は流路切断を使いたくなったが、魔力四十まで落ちる未来が頭をよぎった。ここで水を切れば、支えを維持できない。
「切るな。通す。今は道を増やすんじゃなく、一つを残す」
自分へ言い聞かせ、体を薄い堰に変えた。溢れた水を生きている一本へ向ける。傷口へ冷水が染み、核の周囲までひりついた。
奥から、何か小さな魔物が水を蹴って逃げる音がした。避難路として使われている。顔も名前も知らない。それでも、今ここを塞がせない理由としては十分だった。
向こう側から、セレネの叫びが聞こえた。
「グルト、戻って! 中央床が落ちます!」
「そっちこそ戻れ! 星図だけ持って逃げろ!」
「持ち出せるものではありません!」
「じゃあ小さくして!」
「できるなら最初からしています!」
互いの姿は見えない。石板の壁と崩落の粉塵が、中央を完全に分けている。なのに口論だけはよく届く。
俺は水路を最低限固定し、中央へ戻ろうとした。
その足元が消えた。
「え」
軌道梁が折れ、体が闇へ落ちる。反射的に水刃を壁へ撃ち、その反動で横へ飛ぶ。直射ではない。移動用に刃を使うのは危険だが、今は他にない。
割れた観測鏡が、壁の突起へ引っかかっていた。俺はその縁へ体を広げ、べしゃりと貼りつく。
直後、鏡へ当たった水刃が後方へ反射した。
青い刃が、俺の背後の落石を真横から切る。
落石は二つに割れ、水路を避けて闇へ落ちた。
「今の……後ろから当たった?」
狙っていない。偶然だ。だが、鏡の角度と水刃の軌道は目に焼きついた。
観測室側で、星図の光が一度消えた。
「セレネ!」
返事がない。
胸が冷たくなる。
核の奥まで、冷水を流し込まれたようだった。俺は鏡から這い上がり、崩れた中央へ戻ろうとした。だが床はもうない。向こう岸まで十歩以上。滑走でも届かない。
「セレネ! 返事しろ!」
粉塵の向こうから、細い声が返った。
「……叫ばなくても、聞こえています」
安堵で体がへたりそうになった。
「無事か!?」
「無事ではありません。中核星図の外輪を一本失いました。ですが、中心記録は固定しました」
悔しさを押し殺した声だ。彼女も全部は守れなかった。
粉塵が一瞬薄れ、向こう側の光景が見えた。セレネは自分の弓を星図棚と床の間へ差し込み、梃子代わりにしていた。大切に手入れしていた弓の表面には深い傷が入り、弦も一本切れている。星図だけ無傷で救ったわけではない。彼女も自分の道具を支払い、最低限を選んだのだ。
「弓、壊したのか」
「壊してはいません。まだ射てます」
強い返事の直後、ひび割れた弓身が小さく鳴った。セレネは悔しそうに眉を寄せる。
「……修理は必要です」
「俺のクラフトで直せるか、あとで見よう。完全な弓は無理でも、割れ目を支えるくらいならできる」
「代価を請求します」
「そこは無料で格好つけさせてよ!」
短い笑いが、崩落音の間を抜けた。助け合う約束ではない。互いに自分の選択をした結果、次に交換できるものが増えただけだ。その距離が、今は心地よかった。
「水路は?」
「残した。死骨は全部使った。長くはもたないけど、一人ずつなら通れる」
「なら、十分です」
「十分じゃない。でも、ゼロよりはずっといい」
中央の床が完全に崩れ、俺たちは別々の外周路へ分断された。セレネの姿は粉塵越しに影だけ見える。
ゴーレムの咆哮が響く。
「グオオオオオ!」
星図を守った側へ向きを変えたらしい。セレネの頭上で赤い軌道線が灯る。
「そっちに行くぞ!」
「分かっています。あなたは水路側の試験路へ。私は星図の外周を通ります」
「一人で大丈夫か?」
一拍の沈黙。
「怖いです」
彼女が初めて、はっきりそう言った。
「でも、あなたが水路を守ったように、私は星図を守る。次に会うまで、勝手に食べられないでください」
「食べられる側の心配なんだ……。分かった。君も石像に踏まれるなよ!」
「もっと上品な言い方はありませんか」
「生きて再会したら考える!」
俺は外周試験路へ進んだ。魔力は四十しか残っていない。食料もゼロ。傷は痛み、空腹で胃袋が赤い魔核まで食べ物に見せようとする。
それでも、さっきの反射だけは希望だった。
未来を読む敵の正面へ当てられないなら、外した刃を後ろから返せばいい。
まずは、生きて試すための水を探さなければならない。
背後でまた崩落が起き、セレネの影が見えなくなった。
信頼したから別れた。だからこそ、戻らなければならない。




