第46話 箱を食べずに開ける
目を覚ましたとき、俺の体は水盤の縁から半分こぼれていた。
地下天文庫層の朝は、空が明るくなる代わりに、天井へ埋め込まれた星石が一つずつ青白く灯る。まるで閉店後のプラネタリウムで、係員が非常灯だけ点けたみたいだ。きれいではある。きれいではあるけれど、俺は自分の寝相のほうが気になった。
「危なっ。あと指一本ぶん寝返りしてたら、水盤から落ちて干物になるところだった」
「指はないでしょう」
少し離れた石卓で星図の写しを調べていたセレネが、顔も上げずに返した。銀髪の間から伸びた月色の角が、星石の明かりを薄く返している。原板は、返却期限つきで俺の胃袋へ隔離してある。
「言葉の綾だよ。心の指。あと、心配してくれてもいいんだぞ」
「四時間、三度も水盤からずり落ちかけたものを、そのたび戻しました。これ以上は有料です」
「めちゃくちゃ心配されてた!」
跳ね起きた拍子に、水盤の水がぴしゃりとセレネの靴へ飛んだ。彼女の視線がゆっくり足元へ落ちる。俺は反射的に体を小さくした。
「……四度目も有料にしますか」
「今のは寝相じゃなくて喜びの事故なので、別会計でお願いします」
冷たい視線を受けつつ、体内の魔力を確かめる。休む前は二百八十二しか残っていなかった。それが今は四百四十二まで戻っている。満タンではないが、頭の奥に刺さっていた鈍い疲労は抜けた。体表の張りもいい。
ただし、腹は別だった。
胃袋の奥に残る食料は一食。死骨は五本。携帯できる水はゼロ。赤い魔核と星図板、それから、温度の低い空区画で骨縫いに封じられた宝箱型の魔物が一体。
そいつが、こつん、と内側から俺を叩いた。
「起きてるな、箱」
こつ、こつこつ。
返事のつもりか、骨の封鎖を試しているだけか。どちらにしても可愛げはない。昨日はこいつに胃袋の中を走り回られ、本物の赤い魔核まで食べかけた。思い出しただけで核が縮む。
鍵室へ続く扉は、昨夜よりさらに傾いていた。黒い石扉の表面を、金色の星座線が七本走っている。その中央に、何も入っていない鍵穴が口を開けていた。扉の向こうからは、低く長い振動が一定間隔で届く。
ずうん。
星屑が天井からさらさら落ちた。
「崩壊まで、どのくらい?」
セレネが床の落星痕へ指を触れた。彼女の目は光そのものではなく、光が動いた順番を読む。
「正確には分かりません。ですが、扉の上の第三線が消える前です。昨日から間隔が縮んでいる。長くても半日」
「半日で、腹の中の箱を鍵にして扉を開ける。失敗したら、天文庫ごとぺちゃんこ」
「あなたは潰れても隙間から出られるのでは?」
「できるかもしれないけど、試したくない! スライムだからって、押し潰され放題じゃないからな!」
笑いかけたセレネの口元が、すぐ硬く戻る。彼女には星図を守る理由がある。俺には、この先の水路を見つける理由がある。同じ扉を見ていても、欲しいものは同じではない。
俺は鍵穴の前へ進み、体表に小さな窪みを作った。
「箱は、見た相手が欲しがるものへ化ける。なら、空っぽの鍵穴を見せれば、鍵になるはずだ」
「昨夜の偽鍵は扉に拒まれました」
「丸ごと出したからだよ。今度は本体を出さない。鍵になった突起だけ借りる」
言ってみると、かなり賢そうだ。俺は胸を張る代わりに上半身をぷるんと膨らませた。
「食べないのですか」
「……食べません」
「間がありました」
「食料一食しかない生き物の前で、箱に見える食べ物の話をするなよ。理性が薄切りになるだろ」
まず胃袋検索を使う。収納時刻と材質。二条件だけだ。三つ目を足せば検索が止まる。戦闘中に連続使用するのも無理。昨日、何度も失敗して覚えた制約を、頭の中で指差し確認する。
怖いのは、箱を出してしまうことだけではない。収納口は俺の体そのものだ。鍵の突起と一緒にミミックの牙まで抜ければ、内側から食い破られる。前世で、紙袋から猫の爪だけ出てきた映像を見たことがある。あれは可愛かった。こっちは絶対に可愛くない。
「失敗したら、俺の腹から宝箱が生えるかもしれない」
「その場合は記録してから逃げます」
「助ける選択肢を先に検討して!」
軽口を叩きながらも、体表の収納口は針穴ほどに絞った。小さすぎれば突起を出せない。大きすぎれば本体が抜ける。その境目を探るのは、目隠しで猛獣の檻へ手を入れるようなものだった。
いきなり本番には行かない。俺は封鎖に使っている死骨の先を、ほんの爪先ほど収納口へ寄せた。白い欠片が体表から覗く。そこで意識を緩めると、欠片は本体へ引かれて胃袋へ戻った。もう一度、今度は骨の中央を選ぶ。すると収納口が太く開きかけ、慌てて閉じた。
「細すぎれば戻る。太すぎれば丸ごと出る。ちょうどいいところが、ものすごく狭い」
「一度で成功すると考えていたのですか」
「ちょっとだけ。俺、昨日より賢くなったし」
「賢くなった者は、昨日の失敗を忘れません」
ぐうの音も出ない。代わりに腹の箱が、こつん、と鳴った。笑われた気がして腹が立つ。けれど、その悔しさのおかげで焦りが引いた。鍵を出す前に、出し方そのものを覚えなければならない。
冷たい空区画。最後尾。死骨の封鎖。
意識を沈めると、収納物が暗闇の中に輪郭だけ浮かんだ。赤い魔核は触れない。星図板にも触れない。食料にも――少しだけ名残惜しいが――触れない。
俺は封鎖区画の壁へ、鍵穴の形を魔力で投影した。
箱が止まった。
次の瞬間、ばきん、と骨が一本折れた。
「うわっ、食いついた!」
胃袋の内側で、宝箱の輪郭が細長く伸びる。真鍮色の突起が、映した鍵穴へ向かって生えた。だが、欲張った箱は本体ごと移動しようとし、残る骨封鎖をぎしぎし押し広げる。
セレネが扉の横から鋭く告げた。
「三つ目の骨が動きます。次が左、次に下。順番を間違えれば出ます」
「見えてるのか?」
「あなたは時系列を乱す音が多すぎるのです。腹鳴りも含めて」
「今の、腹鳴りじゃなくて命の危機の音!」
箱が二本目の骨を押した。俺は収納順を逆にし、箱ではなく、伸びた突起だけを最後尾へ送る。ところが突起は途中で星図板の角を真似て平たくなった。
「違う違う! お前が欲しいのは鍵穴だろ!」
こつこつ、と内側から嘲るような音がした。
一度に丸ごと取り出す癖が抜けていない。俺は焦って収納口を開きかけ、赤い魔核の熱を感じて凍りついた。ここで取り出す対象を間違えれば、扉より先に俺が終わる。
深く息をする真似をした。肺はない。それでも、前世の癖は頭を落ち着かせる。
「急ぐな。時刻と材質。箱じゃない。鍵形になった、一番新しい硬い部分だけ」
検索条件を絞る。魔力が一気に削られ、体の輪郭が薄くなった。三百八十二。これ以上の連続検索は危険だ。
だが今度は、真鍮色の突起だけが収納口へ吸い寄せられた。本体は低温区画に残り、骨へ噛みついたまま暴れている。
俺の体表から、鍵の先端だけがぬるりと現れた。
「出た! 箱を吐かずに、角だけ吐いた!」
「表現を選んでください」
「今は褒めるところ!」
突起を鍵穴へ差し込む。扉の星座線が一本、二本、順に青く変わった。ミミックが胃袋の中で身をよじるたび、突起の形も崩れそうになる。俺は魔材クラフトで輪郭を支えた。
ずうん。
扉の向こうから、今までより近い足音が返った。
床の星屑が一斉に跳ねる。セレネが弓へ手をかけ、角を低く伏せた。
「開いた先に、何かいます」
「知ってる。音だけで俺の三倍はありそう」
「三倍で済む根拠は?」
「願望!」
最後の星座線が青く染まり、扉が左右へ割れた。冷たい風が吹き出し、俺の体から水分を奪う。奥には円形回廊があり、無数の書架が夜空のような闇へ浮かんでいた。そのさらに向こうで、二つの巨大な脚が星明かりを遮った。
ごおおお、と石臼を引くような音。
俺の体が勝手に一歩ぶん後ろへ滑った。
「食べずに開けた! 誇っていい! でも、開けた先が怖すぎる!」
セレネは弓を下ろさず、それでも俺の横へ半歩だけ並んだ。
「評価を更新します。危険観測対象から、期限付きの取引相手へ」
「もう一段くらい優しくならない?」
「次の足音を生き延びたら考えます」
胃袋の中ではミミックがまだ暴れている。扉は一度開いただけで、鍵の突起はひび割れ始めた。本体を倒していないからこそ使えた方法だが、二度目はない。
それでも、危険物は食べるか捨てるかしかないと思っていた昨日までとは違う。隔離したまま、一部分だけを借りられた。
嬉しさが体の底から湧き、俺は思わず高く跳ねた。
着地点に星屑が積もっていて、つるりと滑った。
「うおっ」
そのままセレネの足元へ転がる。彼女はため息をつき、俺を靴先で静かに起こした。
「優秀なのか、放っておけないのか、判断に困ります」
「両方ってことで。さあ、次はあのでっかい足音から逃げよう」
俺たちは開いたばかりの扉をくぐった。背後で鍵の突起が砕け、石扉が重く閉じる。
逃げ道は、一回きりだった。




