第45話 胃袋の中の鬼ごっこ
自分の胃袋なのに、追いかける側が迷子になる。
そんな理不尽があるかと思うが、今まさに起きていた。
第六階層相当、地下天文庫層の前室。半分崩れた鍵室で、俺は閉じた石扉へ体を押し当てている。ミミックは胃袋の空区画から細い突起を伸ばし、扉の裏側へ逃げようとしていた。
「外へ吐き出す。形を変える前に、セレネが射る」
「私は中身を見られない。位置を外せば、あなたの素材を射つ」
「じゃあ、俺が吐く場所を固定する。星図板から一番遠い、正面!」
空区画の入口を正面へ向ける。収納時刻と温度の二条件で、最後に動いた冷たい物だけを押し出した。
青い板の破片が飛び出す。
「星図!?」
反射的に受け止めた。板は俺の触手に触れた瞬間、真鍮の牙を開く。
「ギャアアッ!」
「痛っ、違う! 偽物だ!」
セレネの矢が飛ぶ。銀糸が牙を縫ったが、ミミックは薄い紙になって糸の間を抜け、床の星紋へ滑り込んだ。
俺は水刃を構え、撃てずに止めた。床の紋様は扉へ続いている。切れば道そのものを壊すかもしれない。
「追わないの?」
「追いたい。でも、今撃ったら入口まで切る。あいつ、俺が守りたい物の形に逃げるんだ」
星図片は床を一周し、また俺の足元へ戻ってきた。今度は赤い魔核へ変わる。本物と同じ鼓動をわざと大きく響かせた。
「どくん、どくんって挑発するな! 本物はもっと慎ましいぞ!」
「核に慎ましさはない」
「俺の核にはある!」
赤魔核を呼べば、また偽物が先に来る。外で追えば、大事な物へ化けて攻撃を止める。方法が逆だ。
外へ出すのではなく、もう一度、腹の中へ追い込む。
俺は無限胃袋を大きく開いた。ミミックが食料の匂いをまき散らす。焼けた肉、甘い果実、前世で食べた湯気の立つ白米。存在しないはずの記憶まで嗅がされ、飢餓感知が耳鳴りのように騒いだ。
「くううっ。卑怯だぞ。白米は、この世界でまだ一度も見つけてないんだぞ!」
飛びつきたい。けれど、食料は残り一食。ここで偽物を食べようとして本物を失えば、天文庫へ入る前に飢える。
俺は肉の幻へ背を向けた。
「食べない」
声にすると、腹の震えが少し収まった。
「食べ物のふりをする奴は、食べ物じゃない。俺は食いしん坊だけど、拾い食いで死ぬほど馬鹿じゃない!」
セレネが静かに言う。
「昨日は拾った箱を丸ごと入れた」
「成長したんだよ! 一日で!」
ミミックが「ギチィッ」と苛立った。食べられないと分かると、床から跳ねて俺の開いた入口へ自分から噛みつく。俺は直前で流路を反転させ、噛みつく勢いを吸い込みへ変えた。
箱が胃袋へ落ちる。
すぐに検索条件を収納時刻と材質へ固定した。ミミックは星図板、死骨、赤魔核へ次々化ける。形が変わるたびに一覧の位置が揺れ、俺の意識を引きずり回す。
胃袋の内壁が、勝手に裏返る。上へ逃げた箱を追ったはずが、次の瞬間には自分が落下している感覚になった。肉の匂いが左から来たと思えば、赤魔核の熱が真下から吹き上がる。目も耳もない場所で、方向だけを何度も塗り替えられる。前世の遊園地で乗った回転遊具よりひどい。あれには少なくとも床があった。
「うっ、気持ち悪い! 俺、スライムなのに酔ってる!」
箱は「ケケケッ」と甲高く鳴き、星図板の薄い角で内壁を擦った。痛みの場所まで移動する。右が裂けたと思って縮めば、左の食料棚が押し潰されそうになる。
「追いかけるな。中心を探すんだ。姿じゃない。音でも匂いでもない」
自分へ言い聞かせても、次の悲鳴は抑えられなかった。
「右へ動いた。次は?」
セレネは俺の体表を走る魔力だけを読む。
「古い列へ一つ。停止。最も新しい反応が二つに分かれた」
「分身までありかよ!」
俺は新しい反応を追ってしまった。直後、古い列に紛れた偽物が死骨へ化け、本物の死骨二本を弾き飛ばす。胃袋の壁へ硬い衝撃が走った。
「うぐっ!」
痛みで外膜が波打つ。検索条件が一瞬外れ、全ての収納物が暗闇へ沈んだ。
その一瞬が、永遠みたいに長かった。食料を失えば飢える。死骨を失えば封じられない。星図板を失えば、ここまで来た意味が消える。失敗の行き先が一度に押し寄せ、俺は入口を全部閉じて丸まりたくなった。
「もう無理だ」と言えば、セレネはたぶん退路を作る。責めずに、観測結果として撤退を選ぶだろう。その確かさが、逆に悔しかった。
「……逃げたい。でも、逃げたらこいつを腹に入れたままだ」
「恐怖は撤退の命令ではない」とセレネが言った。「見落とした条件を知らせる反応。私はそう教わった」
「君の一族、怖がり方まで難しいな」
「あなたが単純すぎる」
「今は、その難しい方を借りる!」
「グルト?」
「大丈夫。いや、痛い。でも止めない。今やめたら、また星図の隣へ行く」
強がりではない。怖い。腹の中のどこに牙があるか分からず、攻撃もできない。けれど、さっき本体位置は見つけた。変身する外側と違い、中心の箱核はほとんど動かない。
追う対象を、姿から順番へ戻す。
「セレネ。動いた物じゃなくて、動かなかった場所を読んで」
「私が見ているのは、あなたの外側だけ」
「それでいい。全部が動いたのに、一か所だけ魔力が引っ張られなかった場所があるはずだ」
彼女は目を閉じた。月角の先から細い銀光が広がり、俺の体表へ星座のような点を打つ。
「下。あなたから見て、左下。そこだけ遅れている」
「ありがとう。そこを最後尾にする!」
俺は収納の順番を逆転させた。
赤魔核を最古列へ。星図板をその次。食料を中央。死骨を入口側。何も入っていない、温度の低い空区画を最後尾から先頭へ回す。
物そのものを動かせば、ミミックは真似する。棚の順番だけを動かせば、あいつには空の区画が新しい逃げ道に見える。
一度目、ミミックは動かなかった。
「見破られた?」
「違う。餌がない」
俺は食料を使いたくなかった。残り一食。それでも、空区画へ肉の匂いだけを水流で送る。実物は中央に残し、脂の粒をほんの少しだけ運んだ。
箱核が揺れた。
二度目。ミミックが空区画へ滑る。
「今!」
区画入口へ環境水を引く。崩れた鍵室の壁に、天文庫から染み出した細い水路があった。携帯水は0Lのまま。俺はその場の水を0.50Lだけ水圧制御で束ね、薄い水壁にする。
ミミックが牙で噛む。
水壁が破れた。
「一枚じゃ足りない!」
残る死骨七本から二本を取り出す。一本を縦、一本を横。魔材クラフトで格子へ組み、魔力を通す。箱が格子の隙間へ星図の薄さで潜ろうとした。
「骨縫い!」
二本の接合部が青く燃え、区画の入口へ縫い付けられる。魔力を帯びた骨格子が水壁を支え、変身途中の箱を押し戻した。
ミミックが内側から激突する。
がんっ。
骨一本に亀裂が入る。
がんっ、がんっ。
俺の体まで跳ね、天井から砂が落ちた。魔力が急速に減る。四百、三百五十、三百。封鎖に必要なのは二百八十二まで。計算は合う。骨も二本で足りるはずだ。
「あと何回もつ?」
「分からない! でも、分からないまま数える! 一回、二回、三回!」
四回目の衝撃で、縦骨が半分まで割れた。俺は魔力構造を広げず、亀裂の一点だけへ集中する。以前なら全体を固めようとして魔力を使い切った。今は必要な場所だけを残せる。
五回目。
箱が肉鍵へ化け、格子を食べようとした。
「俺のご飯を真似した罰だ! そこは食べられないぞ!」
骨縫いの魔力が牙を弾く。真鍮の歯が一本、水壁へ落ちた。
六回目は来なかった。
空区画の中で、箱が小さく縮む。かち、かち、と留め金を鳴らし、今度は落下する石と同じ間隔で震え始めた。
ごごん。
箱が、かちり。
ごごん。
箱が、かちり。
天文庫の奥で何か巨大な物が歩く音と、ぴたり同期している。
俺は封鎖を保ったまま、その場へへたり込んだ。体は丸いままなのに、気分だけは手足を投げ出している。
「捕まえた……! 俺、自分の胃袋で鬼ごっこに勝った!」
声が裏返った。怖かった。痛かった。食料を失うかと思った。それでも、逃げる姿ではなく動いた順を追い、初めて自分の収納を自分で取り戻した。
試しに食料を一度だけ検索する。収納時刻と材質を重ねると、本物の一食だけが即座に返事をした。昨日なら偽物が先回りした呼びかけだ。今は空区画の封鎖が、そいつをきちんと別の場所へ閉じ込めている。
「ご飯が、ご飯として返事をした……!」
嬉しさで涙が出そうになった。目も涙腺もないので、体表から水が一滴こぼれただけだった。
喜びが遅れて全身へ弾けた。さっきまで方向を失っていた胃袋の棚が、今は一つずつ俺の呼びかけへ返事をする。死骨は硬い沈黙、赤魔核は危なっかしい鼓動、星図板は冷たい光。全部があるべき場所にいる。それだけのことが、最深部へ一階層進むより嬉しかった。
「やった、やったぞ! 俺の腹、ちゃんと俺の言うことを聞く! 当たり前なのに最高だ!」
勢いよく二度跳ね、三度目で封鎖中だと思い出して空中で固まった。着地だけはそっと行う。
「今のは喜び。失敗じゃない」
「聞いていない」
そう返したセレネの角は、さっきよりわずかに下がっていた。警戒を解いたわけではない。それでも、俺が無事だったことに安堵したのを、今度は俺が観測できた。
「それは泣いているの?」
「違う。勝利のしずくだ」
言い張ってから、俺はもう一度だけ検索を閉じた。捕まえた直後に調子へ乗って逃がしたら、さすがに笑えない。
セレネは俺のそばへ二歩近づいた。矢をつがえず、星図板のある位置を見つめる。
「順序情報の対価を決める」
「食料以外で頼む。今、一食しかないから」
「星図板。天文庫を出るまでに返却すること」
「俺が預かって、君に返す?」
「所有を認めたのではない。期限を定めただけ」
「細かいなあ。でも、分かった。出口まで守る」
取引相手ですらないと思われていた昨日よりは、一歩進んだ。俺が笑うと、セレネは厳しい顔のまま、ほんの少しだけ角を下げた。
「先に喜ばないで。封印は暫定」
「今だけは喜ばせてくれよ! 俺の腹が俺のものに戻ったんだから!」
嬉しさに一度だけ跳ねた。直後、封じた区画から、天文庫の落下音と同じ重い振動が返る。
扉の向こうにいる何かが、ミミックを呼んでいる。
鬼ごっこは終わった。でも、箱を追い詰めた先で、もっと大きな足音が俺たちを待っていた。




