第44話 欲しいものを見せる箱
レベルが上がっても、石の扉は拍手をしてくれなかった。
第六階層相当、地下天文庫層の鍵室。指二本ぶんだけ開いた半月形の扉は、俺たちを締め出したまま、青い鍵穴を冷たく光らせている。
胃袋の空区画では、隔離したミミックが鍵と同じ形になっていた。細長い軸。先端に七つの突起。腹の中にあるせいで見えないが、触覚では寸分違わない。
ただし、触れた感触は鍵ではなかった。冷たい金属の輪郭の下で、柔らかな舌が脈打っている。七つの突起は時々、歯のように一本ずつ噛み合った。俺が意識を向けると動きを止め、離すと「カチ、カチ」と鍵らしい澄ました音を出す。子供が布団の中で悪戯を隠しているみたいで、かわいげより腹立たしさが勝った。
「お前、鍵のふりが上手すぎるんだよ。もっとこう、初心者向けに尻尾を出せ」
返事は「キュルル」という湿った鳴き声だった。直後に真鍮の輪郭が俺の触覚へ噛みつく。
「それが尻尾か! 牙じゃないか!」
「偽物でも、扉が本物だと思えば開くんじゃないか?」
俺が言うと、セレネは鍵穴の縁を矢尻でなぞった。
「扉は順序を判定した。形だけを見るとは限らない」
「でも、試さないと朝ご飯にも進めない」
「あなたの目的は天文庫ではなかった?」
「天文庫へ進むために朝ご飯が必要なんだ。食事は全ての冒険の土台だぞ」
食料は一・五食。携帯水は0L。死骨七本。余裕はないが、飢えて判断を誤るほどでもない。俺は胃袋検索で最後尾の空区画だけを指定し、偽鍵をゆっくり外へ押し出した。
金色の鍵が、ぬるりと体表から現れる。
セレネの矢が即座にその先端を捉えた。
「本体まで出たら射る」
「鍵を持つ俺ごと射たないでくれよ」
「動きを分けて」
「はい、観測士さま」
軽口を叩きながらも、体の中心は冷えていた。昨日、名前を呼んだだけで牙が来た。今回は触手一本を失う覚悟で、偽鍵を穴へ差し込む。
かちり。
鍵穴が青から白へ変わった。
「入った!」
喜んだ瞬間、扉の全面へ星座の線が走る。星図板と同じ並びだ。石の奥から、老人の咳に似た擦れ声が響いた。
『星を納めよ。道を返す』
無限胃袋の中で、星図板が熱を帯びる。扉があれを燃料として求めている。
「星図を入れろってことか」
「却下」
セレネの返事は、矢より速かった。
「でも扉が――」
「これは市場の戦利品ではない。落星路を記録した観測板。燃やせば、次の崩落を読む道が消える」
彼女の声には初めて怒りが混じった。角の根元まで青白い魔力が走り、弓弦が細く鳴る。俺が星図を食べかけた時より、ずっと強い拒絶だった。
「俺だって、なくしたくない。水路の避難口を探す手掛かりかもしれないんだ」
「なら、取り出さないで」
「分かってる。でも、扉の前でずっと腹を鳴らす計画もない」
俺の腹が、本当にぐう、と鳴った。緊張感のある場面で正直すぎる。
偽鍵が鍵穴の中で軟らかくなる。七つの突起が溶け、青い板へ変わろうとしていた。扉が欲しがる星図を、ミミックも真似し始めたのだ。
「こいつ、扉の欲しい物まで読むのか!」
「引いて。星図の形で中へ入り込まれたら、判別できない」
俺は偽鍵を引いた。だが、鍵穴の内側から真鍮の牙が閉じ、触手ごと噛み止める。
「痛ったあ! やっぱり鍵じゃなくて口だ!」
体を後ろへ引く。ミミックは扉へ半分、俺の胃袋へ半分残り、綱引きの縄みたいに伸びた。セレネが牙の隙間へ矢を放つ。銀糸が一本を縫ったが、箱は星図板そっくりの薄板へ変わり、矢から滑り抜けた。
天井で石が割れた。
ごごご、と広間全体が震える。閉まりかけた扉の上から、書架ほど大きな石板が傾いた。ここで時間を使えば、入口ごと埋まる。
「あと何分?」
「分からない。次の三回の振動まで」
「分かりにくいけど、短いのは分かった!」
一回目の振動。粉塵が降る。
俺は偽鍵を胃袋へ引き戻し、空区画を閉じた。形を使うだけでは、扉も箱も騙せない。では、欲しい物そのものを変える。
星図を欲しがるのは、扉だ。ミミックは、目の前で一番強く欲しがられた物へ化ける。なら、もっと近くで、もっと分かりやすく欲しがればいい。
俺は食料を〇・五食だけ取り出した。脂の残る魔獣肉と硬い燻製片。死骨の粉を型にして、魔力で脂をつなぎ、魔材クラフトで鍵の形へ押し固める。
青い魔力が肉の筋へ走り、七つの突起を持つ、不格好な肉鍵ができた。
形を保とうとすると、肉の脂が指の間から逃げる。右の突起を固めれば左が曲がり、左を直せば先端が潰れた。
「待て待て。鍵って、食べ物より面倒だな」
俺は死骨を削って作った型へ肉を押し戻した。魔力構造を全体へ流すと、今度は焼け焦げた匂いが立つ。
「焦げる! 俺の〇・五食が!」
「温度を下げて。形ではなく、外周だけを固定する」
セレネは手を出さない。矢尻で、崩れた鍵穴の輪郭を示しただけだ。彼女にとって星図は守るべき記録で、食料は俺の資源だ。勝手に触れない線引きが、むしろありがたかった。
俺は魔力を糸ほど細く分け、肉鍵の外周へ巡らせる。脂の流れを水圧制御の要領で押さえながら、魔材クラフトの魔力を内側へ押し込む。青い線が七つの突起を結び、ようやく形が安定した。
「できた……! 見ろ、この見事な鍵!」
「三番目の突起が曲がっている」
「味には影響しない」
「鍵としての話をして」
俺は言い返せず、三番目をそっと直した。前なら全体を作り直して魔力も材料も倍使っていた。今は崩れた一点だけを見つけ、そこだけへ魔力を通せる。死骸市場で骨鎧を組み替え続けた経験が、こんなところで手を助けていた。
肉鍵を空区画の前へ置く。ミミックがすぐには動かない。賢い。こちらが罠を仕掛けたと分かっているのかもしれない。
「食べたいなあ。せっかくの肉を鍵にしちゃったなあ。誰かが先に食べたら、俺は泣くなあ」
わざとらしく言うと、セレネが横目を向けた。
「演技が下手」
「半分以上、本音だぞ」
その本音に反応して、空区画の奥で留め金が鳴った。
かち。
俺は笑いそうになる口を――口はないので体の揺れを――必死で止めた。欲望を消す必要はない。こいつを釣るなら、俺の食い意地は弱点ではなく、一番嘘のない餌になる。
「何をしているの?」
「最高級の鍵を作った」
「食料にしか見えない」
「俺には最高級なんだよ。ああ、もったいない。焼いたら絶対うまかったのに……!」
惜しむ気持ちは演技ではない。むしろ止めなければ、本当に自分で食べる。その欲望を、空区画の入口へ向けた。
二回目の振動。
胃袋の中で、星図形だったミミックがびくりと震えた。青い板が赤い肉へ変わる。俺の肉鍵と同じ匂い、同じ脂、同じ魔力の筋。
「釣れた!」
胃袋検索で収納時刻と温度を指定する。最後尾にいたはずのミミックが、食料区画へ向かって動いた。変身の途中だけ、体の中心にある小さな箱型の核が露出する。
「セレネ、今! 俺の左側、少し下!」
彼女は迷わなかった。矢を俺へ向けるのではなく、床へ撃つ。銀糸の輪が俺の外膜越しに魔力の位置を囲んだ。
「中心は動いていない。動いたのは形だけ」
「見つけたぞ、この食い逃げ箱!」
俺は空区画の壁を狭め、核の周囲だけを残す。ミミックが驚いたように「ギャギャッ」と鳴き、肉鍵、星図、赤魔核、死骨へ次々姿を変えた。けれど中心位置は変わらない。
三回目の振動。
床の星紋が赤く反転し、石像の指が一斉に俺たちを指した。天井から落ちる砂が雨のように濃くなる。前世の非常ベルなら、逃げ口を光で示してくれた。ここの警報は逆だ。逃げ遅れた者の場所を、天井へ教えている。
「見つかったぞ!」
「最初から見られている。今、攻撃対象に決まった」
「言い換えが怖い!」
セレネは自分だけなら届く書架の隙間を一度見た。そこから俺へ視線を戻し、矢を天井へ向ける。
「一人なら退く。でも、星図とあなたを置けば、扉の規則が分からないままになる」
「俺は星図のおまけか?」
「今は、同じ優先度」
昨日まで危険観測対象だった俺には、それで十分すぎた。怖さで縮んでいた体へ、もう一度力が戻る。
天井の石板が落ちた。俺は水流滑走でセレネの足元へ入り、彼女ごと横へ弾く。直後、石板が床を砕き、入口の半分を塞いだ。
「乱暴」
「助けた直後の感想がそれ!?」
「でも、正確だった」
セレネは俺から離れながらも、今度は矢を向けなかった。
扉はまだ開かない。食料は残り一食。携帯水は元から0L。魔力は百二減り、四百二十六。だが、ミミックの本体位置は分かった。
俺は肉鍵の残り香を惜しみつつ、星図板を胃袋の最も古い区画へ戻した。
「星図は渡さない。俺は水路の出口を探す。君は落星路を読む。目的は違っても、ここでは同じ物を守れる」
セレネはすぐには答えなかった。崩れた天井と、閉じた扉と、俺の体内にある星図を順に見る。
彼女の指が弓弦を二度なぞった。迷った時の癖らしい。俺なら、とりあえず食べてから考える。セレネは逆だ。守る理由を言葉にできるまで、指一本触れない。
「月角の民にとって、星図は祖先の墓標と同じ」と彼女は言った。「役に立つから守るのではない。読めなくても、失えば二度と問い直せないから守る」
「俺にとって食料は、役に立つし、失ったら次の問いを考える前に死ぬ」
「分かっている。だから肉鍵を使えとは言わなかった」
冷たいだけだと思っていた声に、ほんの少し苦さが混じった。価値は違う。でも、相手の大切な物を勝手に支払いへ回さない。その線だけは同じだった。
「保管を許可したわけではない」
「そこは信用じゃなくて、俺の逃げ足に期待してくれ」
「それも保留」
冷たい返事だった。それでも、彼女は星図を奪おうとはしなかった。
鍵室の奥では、半月形の扉を囲む星紋が脈打っていた。光が走るたび、壁に彫られた人影が一体ずつ空を指す。顔は削れているのに、指先だけが異様に精密だ。何百年も前の誰かが、崩れた後まで方角を伝えようとしている。俺には読めない。それでも、ここが単なる宝物庫ではなく、誰かが未来へ残した道だということだけは分かった。
「セレネ。あの人たちは、何を指してる?」
「まだ分からない」
「観測士でも?」
「観測士だから、分からないと言える」
迷いのない返事だった。俺は星紋をもう一度見た。分からない物を急いで食べ物か敵に分けない。それも、この天文庫を進むための技能なのかもしれない。
胃袋の中で、露出した箱の核が扉の裏側へ向かって伸びる。細い突起が、見えない隙間へ潜り込んだ。
次の瞬間、扉の向こうから同じ鳴き声が返った。
ミミックは、もう扉の裏へ逃げ道を作っている。




