第43話 収納順の迷路
地下天文庫の前室へ、夜は来ない。
天井の青白い石粉がずっと瞬き、落星痕の縁から冷気が流れ続ける。ただ、俺の腹時計は正確だった。食料一・五食を意識するたび、空腹が「忘れるな」と体の底を引っかく。
「夜ってことにしよう。暗いし、疲れたし、腹が減った」
「ずっと同じ明るさ」
「気分の夜だよ。セレネは風情がないな」
「風情より、あなたの胃袋の九本目を片づけて」
もっともだった。
セレネは星形の穴から五歩離れた書架の上に立つ。俺との距離は昨日より一歩近い。弓は下げているが、矢は指に挟んだままだ。
前室の青白い光は、時間とともに色を変えていた。高い書架の背から紫の筋が伸び、床の星紋を一本ずつ結んでいく。前世の駅で見た路線図に似ているが、線の終点は壁ではなく天井へ続いていた。上も下も分からない迷路を眺めていると、自分だけが宇宙の底へ落ちたようで、体が勝手に薄くなる。
「この場所、黙ってると吸い込まれそうだな」
「星路は、見続けた者の距離感を奪う。だから私は書架の角を基準にしている」
「先に教えてくれ! 俺、ちょっと平たくなったぞ!」
セレネは書架の角へ矢尻を当て、揺るがない一本の線を示した。彼女にとって美しさは近づく理由ではなく、測るべき危険の一つらしい。俺はきれいなら触りたい。彼女はきれいだからこそ距離を取る。その差が、昨日の宝箱を思い出させた。
俺は床へ死骨の並びを描いた。最初に入れた赤魔核、その後の星図板、食料、死骨、最後に入ったミミック。無限胃袋の中は無限でも、収納した順番までは消えない。
「まず、本物の死骨を一本だけ出す。条件は二つ。市場で入れた時刻と、骨の材質」
「二つを同時に?」
「昨日は名前だけで失敗した。今日は欲張らず、二つ」
「あなたが『欲張らない』と言うと、不安になる」
「信用が薄い!」
胃袋の検索を開く。収納時刻は昨日の戦いの後。材質は骨冠騎士の死骨。二つの条件を重ねると、八本のうち一本だけが淡く光った。
慎重に取り出す。
白い骨が床へ落ちた。牙も脚も生えない。
「成功!」
俺が跳ねると、セレネは矢尻で骨を転がした。裏側を見て、角の先をわずかに上げる。
「工房の切断痕。少なくとも、これは本物」
「ほら。俺の胃袋、ちゃんと整理できるんだ」
「一つ出しただけ」
「一つ目が大事なんだ。最初の一口がおいしいと、鍋は最後まで期待できる」
「その例えが、ミミックを食べようとしているように聞こえる」
「食べない。今は!」
次はもっと確実にしよう。俺は条件を一つ増やした。収納時刻、骨材質、温度。三つ重ねれば、偽物がどれほど真似しても抜けられないはずだ。
検索を実行する。
何も光らなかった。
それどころか、胃袋の感覚そのものが消えた。
暗い、ではない。何もない。食料の匂いも、死骨の硬さも、赤魔核の熱も、一瞬で俺から切り離された。腕を失った人が、なくなった指の痛みを感じることがあると前世で聞いた。今の俺は、無限に広い腕を丸ごともぎ取られ、その先で大事な荷物だけが落ちていく感覚に襲われた。
「待て。返事しろ。食料、死骨、星図板……どれでもいい!」
呼びかけは空振りし、代わりに遠い場所で「キィ」と留め金が鳴った。嬉しそうな音だった。俺が見失ったことを、ミミックだけが知っている。
「グルト、体表の魔力が乱れている」
「分かってる。でも、分かってるって言わないと、もっと怖い!」
セレネの矢が俺ではなく床へ向いた。逃げ道を潰す角度だ。彼女は慰めない。その代わり、俺が失敗して何かを吐き出した時に、必ず止められる位置へ立っていた。
「あれ?」
星図板も食料も感じない。赤魔核の鼓動まで消えている。真っ暗な部屋で、自分の手足を急に失ったような空白が広がった。
「あれ、あれ!? 全部なくなった!」
「落ち着いて。消えたのか、見えなくなったのかを分けて」
「分けられないから焦ってるんだ!」
取り出し口だけを開こうとする。反応がない。焦りで魔力を流し込みすぎ、体表に青い火花が散った。
前室の奥で、ごごん、と石が鳴る。
地下天文庫へ続く半月形の扉が、ゆっくり閉まり始めた。俺たちが長居したせいか、それとも胃袋の中のミミックが何かを動かしたのか。
扉の表面では、銀の星が上から順に消えていく。夜空を巨大な蓋で塞がれているようだった。隙間の向こうには、青い光を放つ書架と、空中を泳ぐ文字の群れが一瞬だけ見えた。あそこまで来たのに、俺の腹の整理ができないせいで道が閉じる。
「嫌だ。あの先、絶対に面白いやつがある!」
「理由が好奇心だけなら退いて」
「水路の手掛かりもある! 好奇心は、その次くらいだ!」
セレネの耳がわずかに伏せた。彼女には、閉じる扉が珍しい景色ではなく、失われる記録そのものに見えているらしい。
「私は記録を失いたくない。あなたは道を失いたくない。なら今だけ、焦る方向は同じ」
「その言い方、ちょっと心強い!」
「扉が閉じる!」
セレネが書架から飛び降り、銀糸の矢を蝶番へ放つ。矢は青く燃えたが、石扉の重さを止められない。
「残り、指三本分。ここで閉じたら、星図が示す道へ入れない」
「分かってる。骨を出して挟む!」
俺は条件を全部解除し、無理やり一番近い物を吐いた。
死骨が一本、扉の隙間へ飛び込む。
直後、床の星紋が赤く光った。
壁から細い石槍が十本、骨をめがけて突き出す。死骨は粉々に砕け、破片が俺とセレネへ降り注いだ。
「伏せて!」
俺は防水膜を広げ、セレネの前へ滑り込んだ。石片が膜を叩き、雨戸へ小石を投げつけたような激音が響く。一発が膜を抜け、外膜へ浅く刺さった。
「痛っ! 骨を出しただけで殺しに来る扉って何だよ!」
「星図庫は、順序を守らない物を侵入者と判定する。たぶん、収納から直接出したせい」
「たぶん!?」
「確定と言ってほしいなら、もう一本試す?」
「嫌です!」
扉は骨を砕いたあと、指二本分を残して止まった。完全に閉じてはいない。しかし、次に間違えれば終わる。
俺は刺さった石片を抜き、呼吸の代わりに体を大きく膨らませた。三条件では止まる。条件なしでは罠が動く。なら、二条件を順番に切り替えるしかない。
「収納時刻と材質で、本物の列だけを作る。次に時刻を外して、温度へ切り替える。二つずつなら胃袋は止まらない」
「切り替える瞬間に、偽物が列を移る」
「そこを君に読んでほしい」
セレネは即答しなかった。閉じかけた扉と、俺の傷と、自分の矢筒を順に見る。
「対価は?」
「星図板は食べない。昨日の条件を守る。それと、扉が開いたら先に中を観測していい」
「あなたは?」
「先にご飯を探す」
「……役割が重ならないなら、成立」
彼女は矢を床へ二本立てた。右が古い列、左が新しい列。俺の体表を走る魔力が動くたび、指で順番を示す。
俺は二条件検索を開始した。時刻と材質。八本――いや、壊れた一本を除く七本の死骨が並ぶ。その最後尾へ、九本目が紛れ込もうとする。
「右、三番。止まった。最後尾が先頭へ動く」
「見えた。条件を温度へ変更!」
列が揺れる。検索は一瞬詰まり、胃袋の入口が痙攣した。前ならここで完全に止まっていた。俺は魔力を一本の太い流れにせず、左右へ細く分ける。
左の条件を消してから、右を足す。水圧制御で覚えた、流れをぶつけない切り替え方だ。
「動いた! 最後尾が冷たい区画へ逃げる!」
「追わない。空区画を後ろへ回す!」
俺は収納順そのものを逆にした。物を動かすのではない。空の棚を、列の最後へ送る。ミミックは逃げ道だと思い、自分からそこへ滑り込んだ。
途端、腹の中で箱の悲鳴が上がる。
「ギギギギィッ!」
「入った!」
歓声を上げた瞬間、経験の熱が全身を駆けた。
レベル十五から十六。最大HPは二百八十四から三百へ。最大魔力は五百から五百二十八へ。攻撃九十八、防御四十六、速度百八十一。削れていた魔力も傷も、新しい上限まで一気に満ちる。
「うおおおっ、軽い! 体が、昨日より一段跳ねる!」
俺は喜びに任せて天井へ跳び、危うく閉じかけた扉へ頭から突っ込んだ。空中で体をひねる。以前なら水流を一つ切り替えるだけで姿勢が崩れた。今は右の水流を弱めながら左を強め、書架の角をすれすれで避けられる。
「見たか、セレネ! 今の切り返し、前はできなかった!」
「見た。着地は失敗」
床へ顔から広がった俺は、ぺちょん、と情けない音を立てた。
「成功の直後くらい、格好よく終わらせてくれよ……」
「事実は曲げない」
悔しい。でも、体は確かに違った。胃袋の二条件を切り替えた直後でも、外の水流を操れる。魔力の道が一本増えたのではない。狭い道をぶつけずに通す余裕ができている。
俺は本物と確定した死骨を一本持ち上げ、魔材クラフトで短い支柱に組み直した。以前は形を保つ間、胃袋検索が止まった。今回は検索条件を二つ残したまま、支柱へ魔力を薄く通せた。
「二つのことが、ちょっとだけ同時にできる。すごい。俺、急に大人の台所みたいだ。鍋を見ながら包丁が使える」
「比較対象が小さい」
「昨日まで鍋を焦がしてた側には大事件なんだ!」
セレネは呆れた顔をしたが、弓は背に戻ったままだった。信じてもらえたのは俺自身ではなく、失敗を数えてやり直した手順。それで十分だ。
経験の熱が引くと、新しい感覚だけが胃袋の底へ残った。収納時刻と材質。時刻と温度。二つまでなら、条件を変えても道を見失わない。
試しに二条件を切り替える。さっきは詰まりかけた流れが、今度は引っかからない。以前は不可能だった連続切り替えが、呼吸一つぶんで成立した。
新しい感覚へ名前が落ちてくる。
胃袋検索Lv.1。
収納時刻と材質など、二条件までなら物を絞り込める。三つを重ねれば停止する。戦いながら細かく使うのも難しい。
「やった! 俺の腹が、ただ広いだけじゃなくなった!」
「喜び方が独特」
セレネはそう言いながら、ほんの少し笑った。
俺は残った本物の死骨七本を安全列へ戻し、偽物だけを最後尾の空区画へ隔離した。腹の奥で、箱が石扉の鍵と同じ形に変わる。
今度は、どれが偽物か分かる。
セレネが初めて弓を背へ戻した。
「手順は信用する。あなた自身は、まだ保留」
「半分進歩だな。残り半分は、ご飯を分けたら上がる?」
「下がる可能性もある」
閉じかけた扉の向こうで、鍵穴が青く灯った。
偽物が作った鍵。それをどう使うかが、次の問題だった。




