第41話 宝箱を先に触ったのは
死骸市場を出てから、まる一日。
第六階層相当の南端で、通路の匂いが変わった。湿った骨と古い血の臭気が薄れ、かわりに焼けた鉄と、雨上がりの石みたいな冷たい匂いが漂ってくる。
俺は星図板を体の中で抱え直した。ヴァルカとは市場で別れた。ここから先は、また一匹だ。
「寂しくない。全然寂しくないぞ。食料も二食あるし、死骨も八本ある。……返事をする相手がいないだけだ」
声が丸い天井へ吸い込まれた。自分で言っておいて、ちょっとだけへこんだ。
地下天文庫の入口は、巨大な黒い扉ではなかった。崩れた書架が幾重にも埋まる円形広間と、その中央に落ちた星形の穴。それだけだ。穴の縁は飴細工を炙ったように滑らかで、青白い石粉が夜空の星座みたいに散っている。
天井を見上げて、俺は息をのんだ。黒い石板を埋め尽くす銀の点が、ゆっくり位置を変えている。前世で見たプラネタリウムは、暗闇に星を映す機械だった。ここは逆だ。石の奥に閉じ込められた星が、こちらを覗き返している。星形の穴へ近づくたび、足元の石粉まで青く瞬き、俺の丸い影を何重にも作った。
「きれいだけど、絶対に無料の観光地じゃないな。入場料が命のやつだ」
崩れた書架には、紙ではなく薄い鉱石板が並んでいた。触れもしないのに表面の線がほどけ、知らない星座を描いては消える。静かなのに、誰かが千冊の本を一斉にめくっているような圧があった。俺は好奇心で一歩進み、石粉が足元へ集まったのを見て、同じ速さで一歩戻った。
「うん。見るだけ。今日は見るだけにしよう」
「前世なら博物館。こっちだと、触ったら呪われる博物館だな。……つまり、いつもどおり危ない」
水中感知を薄く広げる。床下に水脈はない。かわりに、書架の奥から規則正しい息遣いが返ってきた。
すう。はあ。すう。はあ。
人だ。
俺は気配遮断をまとい、倒れた書架の影を滑った。青銀の髪が先に見えた。細い背中、灰色の外套、月を半分に割ったような白い角。長い耳の先が、俺の動きに合わせてわずかに揺れる。
女は星形の穴を見下ろし、銀糸の弓へ矢をつがえていた。凍った湖のような横顔はきれいだったが、矢尻はまっすぐ俺の隠れ場所を向いている。
「そこ。隠れるなら、粘液の跡も消して」
「見つかってる!?」
驚いて跳ねた俺の頭上を、矢が通過した。背後で何かが「ギチッ」と歯を鳴らす。
振り返ると、古びた宝箱が書架の隙間から這い出していた。真鍮の留め金が牙へ変わり、赤い舌が床を舐める。箱の脚は細い虫脚が六本。俺が隠れていた場所へ、音もなく食いつこうとしていたらしい。
「た、助かった。ありがとう」
「あなたを助けたのではない。観測対象を横取りされたくなかっただけ」
「言い方が冷たい!」
女は弓を下げない。俺も水刃を出さず、体の前に小さな水膜だけを張った。
「俺はグルト。食べ物と最深部を探してる。そっちは?」
「答える義務はない」
そう言いながら、彼女の視線は俺ではなく星図板を隠した位置へ落ちた。見えてはいない。だが何かを感じている。
広間の奥で、別の箱がきらりと光った。黒檀の板、金の縁取り、天蓋には星の紋章。虫脚の箱より、ずっと宝箱らしい。
「あれ、鍵箱じゃないか?」
「待って。落星痕の中心に置かれた箱を、見た目だけで鍵と決めるの?」
「見た目が百点満点で宝箱だ。開けない方が失礼だろ」
「その理屈で生き残ったことが驚き」
俺たちは左右から同時に近づいた。女は弓の先で、俺は細い触手で、箱へ触れる。
かちり。
「先に触ったのは俺!」
「私。あなたは蓋ではなく埃に触れた」
「埃も箱の一部だ!」
言い争った瞬間、箱の表面が波打った。
俺側の半分は、香ばしく焼けた肉へ変わる。脂が泡立ち、塩の匂いまで立った。女側の半分は、青い星図板へ変わった。
腹が、ぐうううっと鳴った。
「これは罠だな」
「今さら?」
「分かってる。でも、分かってる腹と空腹の腹は別組織なんだ!」
肉へ伸びかけた触手を、自分の別の触手で叩き落とした。箱が「キキキ」と笑う。肉の香りが濃くなる。
女は星図へ手を出さず、足元へ一本の矢を撃った。青い光が円を描き、箱の影だけを縫い止める。
「私はセレネ。月角エルフの観測士。あれは欲しい物を映して、触れた順に食べる」
「名前、教えてくれるんだ」
「危険を共有するため。親しくなったわけではない」
箱が影を引きちぎった。牙の並ぶ口が開き、星図の半分が俺へ、肉の半分がセレネへ飛ぶ。獲物が逆だ。判断を乱すつもりらしい。
箱の喉から「ボォン」と低い音が漏れた。宝箱の大きさには似合わない、地下の鐘みたいな鳴き声だ。周囲の鉱石板が共鳴し、星の線が一斉に俺たちへ向く。肉の表面は怯える獣のように震え、星図の側は助けを求めるように青く明滅した。偽物だと分かっているのに、どちらも傷つけてはいけない気がして、攻撃の狙いが半瞬遅れる。
「見た目だけじゃなく、反応まで作るのか!」
「迷った方から食べる。中心の留め金を狙って」
「俺、目は元からない!」
叫びながらも、匂いと光を意識から外した。残ったのは、箱の中心で噛み合う金具の音だけだった。
「水刃!」
細い一閃が肉の表皮を裂いた。中から木屑ではなく、黒い舌が二本飛び出す。一本を防水膜で弾いたが、もう一本が死骨を入れた体の側面へ吸いついた。
「うわっ、俺の非常食じゃなくて材料を狙った!」
「欲望を読むだけではない。所有物も嗅ぎ分けている!」
セレネの矢が舌を床へ縫う。俺は箱の背後へ回り、魔力構造で死骨二本を輪に組んだ。輪を被せ、魔力刻印で停止を命じる。
箱は一瞬だけ縮んだ。だが、次の瞬間には輪と同じ白骨へ姿を変え、隙間からするりと抜ける。
「固定できない!? じゃあ、収納なら!」
「待って、体内へ入れたら――」
忠告より先に、無限胃袋が開いた。箱が黒い渦へ吸い込まれる。俺は入口を閉じ、得意げに胸を張った。胸はないけど、気分として。
「どうだ。俺の胃袋は広いぞ。迷子になるくらい広い」
「それを誇る前に、中を見て」
検索をかける。食料二食、死骨八、星図板、赤魔核――。
赤魔核が、二つある。
「……え?」
隔離していた赤い核の隣で、同じ温度、同じ重さ、同じ魔力の塊が脈打っている。しかも、どちらも俺の呼びかけに反応した。
「え、え、え。ちょっと待て。俺の腹の中で勝手に増えるな! 食べ放題の逆だぞ!」
慌てて取り出そうとした瞬間、セレネが矢を俺の目前へ突き立てた。
「出さないで。どちらかが本物でも、どちらかは口」
「でも腹の中に口がある! もっと嫌だ!」
「なら、胃袋を閉じる。検索も取り出しも止めて」
俺は無限胃袋の流路を封鎖した。魔力が四十四削られ、体の中心がぎゅっと絞られる。安全地帯だと思っていた場所が、急に暗い洞窟へ変わったような恐怖だった。
囮にした食料〇・二五食は、収納の奥で消えた。咀嚼音だけが、体の内側から響く。
がり。ごり。くちゃり。
「俺のご飯……!」
怒りで外膜が熱くなる。けれど開ければ、赤魔核まで食われるかもしれない。
腹の奥で、何かがまた形を変えた。硬い核の鼓動が、ふいに柔らかな肉の匂いへほどける。炭火で焼いた鶏皮みたいな香ばしさが、外ではなく自分の体内から立ち上った。
「やめろ。俺の記憶から勝手に献立を作るな」
返事の代わりに、箱は胃袋の壁を爪で引っかいた。ぞり、ぞり、と内側から体を削られる音がする。痛みは薄い。だからこそ気味が悪い。前世で夜中に天井裏を走る鼠を聞いたことがあるが、これは天井裏が自分の腹になったようなものだ。
引っかかれるたび、外膜ではなく思考の奥がざらついた。無限胃袋は腹というより、意識の裏へ続く倉庫だ。そこへ異物が入ると、見えない指で記憶の棚をなぞられている気分になる。焼き肉の匂いの次には、前世の冷蔵庫を開けた時の白い光まで浮かんだ。箱が俺の欲しい物だけでなく、欲しがり方まで探っている。
「そこは俺の思い出だぞ。勝手に開けるな!」
ぞり、と一段深い場所を爪が走った。俺はびくりと縮み、床の石粉が輪になって飛ぶ。怖さを誤魔化す冗談さえ、一瞬出てこなかった。
俺は反射的に水刃を撃ち込みかけ、寸前で止めた。収納の中には食料も星図板も赤魔核もある。外の敵なら外しても壁を削るだけだ。腹の中で外せば、明日の飯か、ここまで持ち帰った手掛かりを自分で切る。
「攻撃できないの?」
セレネは声を落とした。冷静な問いだったが、矢を握る指は強く白んでいる。彼女にも見えていないのだ。
「できる。でも、狙う場所が分からない。分からないのに撃つのは、勇気じゃなくて台所で剣を振り回す馬鹿だ」
「自覚はあるのね」
「今、そこを褒める場面だぞ」
冗談を言うと、震えが少しだけ止まった。怖くないわけではない。俺の一番便利な場所を、たった一匹に乗っ取られたのだ。水も素材も食料も、全部そこへ預けてきた。無限に広いから安全だと思っていた。広い場所には、見失う危険も無限にある。
俺は入口を閉じたまま、外膜へ浮く魔力の波を一つずつ数えた。赤魔核の鼓動は二つ。星図板は一つ。死骨は八本。食料は一・七五食。食われた量まで確認し、減った事実を声にした。
「食料は残り一・七五。死骨八。星図板と本物の赤魔核は、たぶん無事。たぶん、がものすごく嫌だけど」
「不確かなまま数えられるなら、まだ判断できる」
「君、慰めるの下手だな」
「慰めていない。観測結果」
それでも、何も分からないと言われるより救われた。俺は水刃を解き、攻撃ではなく封鎖へ魔力を回した。今は倒す場面ではない。腹の中の敵と、自分の大事な物を分ける手順を作る場面だ。
セレネは矢を下ろしたものの、俺から三歩離れた。
「あなたは救助対象ではない」
「そこまで危険じゃないぞ。ちょっと宝箱を腹へ入れただけだ」
「それを危険と言う。あなたは、危険観測対象」
「言い直した方が悪くなった!」
笑えない。胃袋の検索結果には、今も赤い核が二つある。
地下天文庫の扉を探す前に、俺は自分の腹の中から迷子を追い出さなければならなくなった。




