第33話 三つの命令
契約の残りは五日。眠れないまま次の朝を迎えたせいで、HP二百二十、魔力三百四十四のまま回復していない。
第6階層相当、番号未確定の死骸市場層では、三本の杭が入口と水路の境へ扇を作っていた。一本目は黒牙。二本目はミレアの水源。三本目は、まだ何も指していない。
何もしていない杭がいちばん不気味だった。
「あいつ、絶対あとで面倒なことする顔だ」
「昨日も聞いた。杭の顔はどこ?」
ミレアに問われ、俺は三本目の青い頭を体の先で示した。
「光ってないところ。黙ってる奴ほど企んでる」
「おまえも企む時は黙るな」とヴァルカ。
「分かった。これから全部しゃべる。まず腹が減った。次に腹が減った。それから――」
「それは黙っていい」
止められた。
冗談の奥で、空腹は本当にまずいところまで来ている。飢餓感知を開くと、還流骨のわずかな脂、ヴァルカの革袋、契約杭に使われた魔獣油まで、全部が食べ物の輪郭で浮かんだ。
杭をかじりたい。
そう思った自分にぞっとして、飢餓感知を閉じる。契約を食べれば、昨日の違約印が核へ来る。分かっているのに、匂いに判断を引っ張られた。
「先に規則を読む。腹が俺を馬鹿にする前に」
ヴァルドが入口外へ三枚の木札を並べた。どれも所有印のない廃材だ。
「杭の規則書は本部へ照会中です。ですが、命令の違いを現場で確かめることには同意します。条件は、杭を傷つけないこと。生存個体を試料にしないこと。異常時は私が停止鍵を使います」
「停止鍵、昨日は効かなかった」
ミレアの言葉に、ヴァルドの指が固まった。
「効かなかった事実も記録しました。だから、今回は一柱ずつです」
「一柱ずつ止めると、残りが動く」
俺は昨日の順番を石床へ水で描いた。表示、向き、前進。左、右、中央。同じことを繰り返しているようで、役割までは分からない。
ヴァルカが還流皿片を一つ取り出した。薄灰色の皿は、死骸から漏れた魔力を流路へ返すための素材だ。残り三枚。試験へ使えば二枚になる。
「同じ物を三本へ置く。違う物を置いたら、物の差か杭の差か分からない」
「さすが職人。俺よりずっと実験が上手い」
「昨日、身をもって悪い例を見せてもらったからな」
褒めたのに刺された。
俺たちは皿片から削った三つの骨片へ、同じ小さな印を刻んだ。元は一枚だから、匂いも材質も魔力量もほぼ同じ。それぞれを杭から同じ距離へ置く。
最初に一本目が鳴った。
カチ、カチ、と二度。骨片の下に青い輪が浮かび、市場側へ細い矢印が伸びる。
「一本目は、持っていく向きを決める?」
俺が骨片を半歩ずらすと、矢印も追う。黒牙片へ出ている線と同じ動きだ。
次に二本目。こちらは矢印を出さず、骨片の周囲へ四角い枠を作った。枠はじわじわ広がり、水路の縁まで飲み込もうとする。
「水を設備と表示したのは、こっち。物を見てるんじゃない。範囲ごと数えてる」
ミレアが水を引いた。枠が水面へ届く寸前で止まり、また広がる。
「範囲を広げる命令」
彼女の声に怒りが混じる。昨日から水を物扱いされ続けている。静かなぶん、流れの震えが感情を隠してくれない。
「三本目は?」
何も起きない。
俺は待った。空腹の腹が鳴る。ヴァルドの鍵が触れ合う。ヴァルカの尾が石粉を払う。
三本目は、ずっと沈黙したままだ。
「試料が違う?」
「同じだ」とヴァルカ。
「順番かも」
俺は一本目へ魔力刻印の『停止』を送った。
青い矢印が止まる。
その瞬間、二本目の四角い枠が一気に倍へ膨らんだ。水路の縁を越え、俺たちの退路まで青く染める。
「広がった! 止めたぶんを取り返してる!」
三本目が初めて鳴った。
ゴン、と腹へ響く低い音。止まった一本目へ黒い線をつなぎ、その頭へ新しい命令を流し込む。
一本目が強制的に再起動した。
「止める命令を、止めた?」
ヴァルドが息を呑んだ。
俺は二つの刻印を同時に追った。一つは俺が送った停止。もう一つは三本目から来た、停止を消す命令。文章は読めない。けれど、二つが逆向きなのは分かる。
以前なら、一つを見た時点でもう一つが滲んでいた。鑑定Lv2になったいまは、三対象までなら像を分けられる。一本目、三本目、間を走る命令片。
「もう一回。今度は二本目を止める」
「範囲がさらに広がるかもしれません」
「だから水を下げる。ミレア、退避できる?」
「できる。でも、許可水は置く。あなたが焼けた時に使う」
「俺より水を守って」
「どちらも守る。選ばせないで」
短い声が強かった。俺は頷き、二本目へ停止を送る。
二本目の枠が止まった。一本目の矢印が太くなり、三本目が二本目へ黒い線をつなぐ。また停止が消される。
同じだ。ただし、増えるものが違う。
「止めると、残りが働きを増やす。一本目は回収。二本目は範囲を広げる。三本目は止まった杭を動かす」
「三つ全部を止めれば?」とミレア。
「いまの俺は、刻印一つを保つだけで精一杯だ。二つ目を作ると最初が薄くなる。三つなんて――」
言いながら、試したくなった。
「やる前に言え」とヴァルカ。
「今から二つ保つ。無理ならすぐ切る」
「よし。今回は聞いたな」
一本目へ停止。薄く保ったまま、二本目へ同じ形を送る。
頭の中で二枚の板を別々に支えるような感覚だった。昨日までは二枚目へ触れた瞬間、一枚目が崩れた。今日は形が残る。薄い。震える。それでも、二つある。
三本目が低く鳴り、一本目へ線を伸ばす。俺はその動きを先に読んで、停止の一つを二本目から三本目へ移した。
三本目の線が空振りする。
「できた! 二つを順番に持ち替えられる!」
喜びで集中が緩み、一本目の停止が消えた。青い矢印が骨片を跳ね飛ばす。
「最後まで保て」とヴァルカが鉄槌で骨片を受け止めた。
「成功を祝う時間が短すぎる!」
「契約は祝ってくれない」
だが、失敗した瞬間に規則がつながった。
三本は同じ文を繰り返しているのではない。回収する。止める。範囲を広げる。役割が別だから、一つだけ止めるほど残りが不足分を埋めようとする。
発見の熱が核へ沈み、体の内側で弾けた。
レベルが十二から十三へ上がる。
違約印で削られていた外膜が、内側から水を浴びたように満ちた。HPは現在二百二十から二百五十二へ、最大値は二百三十六から二百五十二へ。魔力は三百四十四から四百四十四へ、最大値は四百十六から四百四十四へ。攻撃は七十八から八十三、防御は三十八から四十、速度は百五十三から百六十へ伸びる。進化ポイントも十一から十二になった。
「うわ、戻った! 痛かったところが消えた! それに、魔力が……大きい!」
喜びのまま二つの停止刻印を作る。今度は震えない。片方を保ったまま、もう片方の形を薄くしたり濃くしたりできる。
前にはできなかった。二つ目へ力を送れば、最初の一つが崩れた。いまは二つを順番に保持できる。
調子に乗って三つ目を作ると、全部が一度に歪んだ。
「三つは無理! でも二つはいける! 俺、ちゃんと強くなってる!」
「喜ぶのはいい。杭へ向けたまま跳ねるな!」
ヴァルカに体を押さえられた。俺は笑いながらも、三つ目を切る。できないことまで分かったのが嬉しい。




