第32話 壊すと核に来る
夜通し見張った黒杭は、夜明けになっても俺の腹を指していた。
第6階層相当、死骸市場層の入口内縁。階層番号はまだ分からない。七日の契約は残り六日になり、俺の食料は相変わらずゼロ。眠れなかったせいで腹の空き方まで尖っている。
「見つめ合っても仲良くなれないぞ。俺、おまえみたいに無口で押しが強い奴は苦手なんだ」
杭は答えない。青い頭を、俺が動くぶんだけ正確に回した。
無限胃袋の中で黒牙片を右へ送る。杭の先が右を向く。左へ送る。左を向く。胃袋の最深部、赤い魔核から離した素材棚へ沈めても、迷わず追ってくる。
収納すれば外から見えなくなる。そう思っていた俺の常識は、あっさり穴を開けられた。
「隠しても駄目か。胃袋は壁じゃなくて、俺の一部として数えられてる?」
「出して」
ミレアが水際から手を差し出す。
「駄目だ。出したら鉤が来るかもしれない」
「違う。黒牙じゃなくて、あなたの考えを。黙って試すと、昨日みたいに四つ目で転ぶ」
俺は返事に詰まった。心配されているのに、注意の形で出てくるあたりがミレアらしい。
「杭の継ぎ目だけ外す。壊さない。上の頭と、地面へ刺さってる脚を少し離せば、青い線が届かなくなるかもしれない」
「『少し外す』を壊すって言うんじゃないのか」
横からヴァルカが口を挟んだ。彼女は杭を半周し、角度を変えて根元を見ている。巻き角の根元に疲れが滲んでいたが、鉄槌を持つ手はぶれない。
「全部を粉にするのが破壊。継ぎ目を緩めるのは調整」
「職人に向かって、よくそんな雑な分類を言えたな」
「今の顔、すごく怒ってる?」
「安心しろ。まだ呆れてるだけだ」
鉄槌の柄が俺の進路を塞いだ。
「先に測る。外殻は黒鋼、芯は契約石。継ぎ目に翼膜を挟めば魔力は散るかもしれない。でも、おまえの体を直接つなぐな。契約物は反撃先を探す」
「俺、昨日より賢いから大丈夫」
「その台詞を言う奴ほど大丈夫じゃない」
入口外ではヴァルドが契約板と杭の製造印を照合していた。黒牙を回収対象から外すよう停止鍵を回しても、杭は一度青く暗くなるだけで、すぐ俺を指し直す。
「本部へ照会を送りました。ですが、死骸市場の回収線が乱れているため返答には時間がかかります」
「その時間で俺の牙が持っていかれる」
「あなたの牙ではなく、黒牙獣の牙です」
「俺が命懸けで運んだら俺の牙だ。口には生えてないけど!」
ヴァルドは言い返しかけ、板へ視線を落とした。昨日までなら「台帳上は」と続けただろう。今日は、一度飲み込んだ。
「……少なくとも、あなたの保管物として記録済みです」
その変化は小さい。けれど、聞き逃さなかった。
俺は黒牙片を胃袋の入口近くへ移し、契約写しの刻印面だけを体表へ寄せた。杭が低く鳴る。狙いが絞られた。
ヴァルカが翼膜の端を一枚、細長く裂く。残っていた二枚のうち一枚だ。
「これを継ぎ目へ巻く。焦げたら終わり。替えはないと思え」
「一枚残る」
「一枚は替えじゃない。最後だ」
材料を数える声が重い。俺は冗談を引っ込めた。
魔材クラフトで翼膜へ魔力を通す。水を吸う薄皮が青白く硬まり、濡れた革のような絶縁帯になる。俺は許可水〇・五リットルを膜へ含ませ、杭の根元へ滑り込ませた。
冷たい。硬い。それより、青い命令が皮膚のすぐ外を這う感覚が気持ち悪い。
魔力構造を杭の継ぎ目へ重ねる。作るのは武器ではない。頭を支える三つの接合点を、一本ずつ緩めるための小さな楔だ。
「右、左、奥。順に押す。ヴァルカ、動いたら言って」
「右はまだ。左、髪一本。奥――止めろ」
俺は魔力を切った。杭の頭がわずかに傾き、俺の胃袋を指していた青線がぶれた。
「できた。ほら、壊してない」
嬉しくなって、もう一押しした。
パキン。
小さな音だった。
翼膜が焦げ、継ぎ目から赤い光が飛び出す。外へ逃げると思った光は、空中で鋭く折れた。
俺へ来る。
「グルト、切れ!」
ヴァルカの叫びと同時に、赤い印が体表へ触れた。
熱ではなかった。焼けた鉄の文字を核へ直接押し込まれるような痛みだった。外膜を固めても、水へ潜っても意味がない。印は俺の体を通り抜け、中心へ向かって走る。
「いやだ、核は駄目だ! そこだけは、来るな!」
体が勝手に縮んだ。逃げようにも、核はどこへ動かしても俺の中だ。前世で心臓へ針を向けられた記憶なんてない。それでも、死ぬ場所を指でなぞられる恐怖だけは分かった。
ミレアが許可水を引き寄せ、俺の周囲へ薄い輪を作った。
「水で囲う。止まらなければ切り離す」
「印は水を越えてる! 外じゃない、中を走ってる!」
俺は継ぎ目へ作った楔を解除した。緩んだ頭を元へ戻す。ヴァルカが鉄槌の平らな面で押し込み、三つの接合点を同時に噛ませた。
赤い印が一瞬だけ遅くなる。だが消えない。
壊したぶんだけ、契約が破壊者へ移った。杭を止める代わりに、俺自身が杭にされる。
「戻したのに、まだ来る! しつこい、性格悪すぎるだろ!」
胃袋の中で黒牙片が震えた。そこには昨夜写した契約の一部がある。杭が狙っているのも、その写しだ。
俺は黒牙を外へ出すのではなく、刻印面だけを体表へ押しつけた。赤い印の進路へ、同じ契約の形を割り込ませる。
「俺じゃない。おまえが探してる『契約』は、こっちだ!」
魔力刻印で形を揃える。文章は読めない。新しい命令も作らない。ただ、核へ向いている矢印を、黒牙の写しへ一度だけ曲げる。
赤い光が核の手前で止まった。
次の瞬間、黒牙片が体表から弾け飛び、床を三度跳ねた。ヴァルカが鉄槌の柄で押さえる。印は牙の刻印面を焼いたが、黒い素材そのものは割れなかった。
俺は床へ潰れた。HPは十六削られ、二百二十。魔力は継ぎ目の試験で四十四減り、三百四十四。許可水も残り一・二五リットル。翼膜は一枚、黒く縮んで使えなくなった。
ヴァルカはすぐに焦げた翼膜を素手で拾わなかった。鉄槌の柄で水際まで寄せ、残った魔力が消えるのを待つ。黒い表面には、細い赤文字が一つだけ焼きついていた。
「これが反撃の跡だ。継ぎ目を外した瞬間、いちばん近い魔力へ飛んでる」
「近い魔力じゃない」
ミレアが俺の体と黒牙を見比べた。
「水はもっと近かった。印は、触ったグルトを選んだ」
「破壊者を選んだ、か」
俺は核を何度も位置替えし、赤い熱が残っていないか確かめた。右へ動かす。痛みなし。左へ動かす。外膜は裂けているが、核そのものに傷はない。防御が上がったから外側で十六ぶん耐えられたのかもしれない。以前の薄い体なら、印が核まで届いていた可能性がある。
「強くなってて助かった。でも、強くなったから次も受けていい、にはならないな」
黒牙片を体表へ出し、今度は魔力を流さず杭へ近づけた。杭は牙を追う。俺が牙から離れると、青線も俺ではなく牙へ残る。
「写しは囮になる。ただし、一回焼かれた。何度も使えば割れるかもしれない」
ヴァルカが黒牙の刻印面を指でなぞる。傷は浅いが、昨日より白い筋が増えていた。
「黒牙は一つ。翼膜も一つ。次は試験じゃなく、本番に近い形で使え」
「分かった。材料を失うたびに賢くなるの、財布が泣く成長法だな」
「財布を持ってから言え」
「胃袋が財布。いま空っぽ」
冗談を返せるまで核の震えが収まった。ミレアはそこでようやく水の輪を解く。俺を囲っていた許可水は冷却に使ったぶんだけ減り、残りを水路へ戻した。
失った翼膜は戻らない。だが、破壊者へ印が跳ぶこと、黒牙の契約写しへ一度だけ逸らせること、収納の中でも対象指定が続くことは分かった。
次は「外す」のではなく、「向ける」。手順が一つ、はっきり変わった。
「……生きてる?」
ミレアの声が、珍しく震えていた。
「たぶん。腹は減ってるし、ヴァルカが怖いから、生きてる」
「怖がる相手が違う!」
鉄槌が床へ落ち、火花が散った。ヴァルカは怒っていた。俺へではなく、杭へでもなく、測る前に押した俺の手順へ。
「壊す前に測れって言っただろ! 核を焼かれたら、おまえは素材にも戻れないんだぞ!」
「分かってる。今は、本当に分かった」
笑って誤魔化す気になれなかった。俺は焦げた翼膜を見た。一枚失った。HPも水も魔力も減った。それでも、違約印の向きを一度だけ黒牙へ逸らせた。
失敗はした。でも、何も残らない失敗ではない。
「杭は壊さない。継ぎ目も外さない。契約が核へ来るなら、命令の行き先を外で迷わせる」
ヴァルカはまだ険しい顔のまま、鉄槌を引いた。
「次は、やる前に言え」
「言う。止められても、ちゃんと聞く」
「止めるために聞くんじゃない。生きて試すために聞く」
胸に刺さった。俺は小さく縮んで頷いた。
ヴァルドは焦げた翼膜、黒牙の印、元へ戻した継ぎ目を一つずつ板へ記録した。
「破壊時、契約は破壊者の核へ移る。こちらの規則書にもありません」
「じゃあ書いといて。でっかく。『触るな、死ぬほど痛い』って」
「公文書向けに整えます」
その時、二本目の杭が回転した。青線は俺ではなく、ミレアの水路へ向く。
石床に新しい表示が浮かぶ。
供給設備。
ミレアの水が、ぞっとしたように岸から離れた。
「私は、設備じゃない」
低い声に、水面が逆立った。
残り六日。黒牙の次は、水源が数えられた。




