第31話 杭が一歩、近づいた
契約の朝は、腹の音から始まった。
ごごご、と大げさに鳴ったのは地面ではない。俺の体の真ん中だ。昨日まで最後の一食が置かれていた石床には、脂の染みしか残っていない。
「昨日の俺は立派だった。七日を買った。うん。今日の俺は、その立派な俺をちょっと殴りたい」
黒牙片へ映した契約の写しに体を載せ、俺は平べったく伸びた。食料はゼロ。携帯できる水もゼロ。使っていいのは、ミレアが水路に残した許可水二リットルだけだ。しかも飲み水ではなく、技能や冷却に使うための水。飲んだところで、スライムの腹が肉を食べた気分にはならない。
「自分で決めたのに、自分へ八つ当たりするの?」
青銀の髪を水面へ広げたミレアが、流れの濁りを指ですくった。声は静かだが、目元は少しだけ柔らかい。
「しない。俺は理性的なスライムだからな。五分くらい恨んだら許す」
「長い」
横穴ではヴァルカが鉄槌の柄を差し込み、昨日補強した崩落材の浮きを測っていた。黒い巻き角の先が、入口に並ぶ三本の契約杭へ向く。
「腹を抱えてる暇があるなら、あれを見な。一本、近い」
「近い?」
第6階層相当の死骸市場層――そう呼ぶことにしたものの、本当に何階層目なのかはまだ分からない。その入口には昨夜、ヴァルドが三本の黒杭を横一列に打った。約束では、杭を入口より内側へ入れない。
ところが左端の一本だけが、岩の継ぎ目を越えていた。
ほんの指一本分。けれど、黒い金属の脚が夜のうちに地面を這ったみたいで、見ているだけで核がむずむずする。
「契約書、足が生えるの!? 俺より脚らしい脚を持ってないくせに!」
「声を落とせ。起きるぞ」
ヴァルカが言い終えるより先に、杭の頭で青い線が灯った。
カチ、カチ、カチ。
三本が別々の間隔で鳴る。左、右、中央。床の還流骨へ青い文字が浮かび、その一片が市場側の在庫表示へ変わった。昨夜、回収対象から外したはずの骨だ。
「ヴァルド!」
入口外で板を整理していた補給官が振り返る。灰色の外套は昨夜と同じだが、目の下に薄い影があった。あの男も寝ていないらしい。
「こちらから起動命令は出していません」
「まだ何も聞いてないのに先に言ったな!」
「疑われる順番は理解しました」
平らな声が少し悔しそうだった。けれど、同情している場合ではない。左杭から伸びた青線が還流骨をなぞり、入口側へ引っ張り始める。
俺は水流滑走で飛び出した。昨日レベルが上がった体は、以前なら二呼吸かかった距離を一息で詰める。勢い余って杭へ正面衝突しそうになり、外膜を広げて岩へ吸いついた。
「速いのは最高! 止まれないのは聞いてない!」
左杭の根元へ体を巻きつける。押し返す。黒い金属が、ぎぎ、と岩を噛んだ。
重い。だが、動く。
以前の俺なら荷車の車輪一本にも弾かれていた。いまは攻撃力七十八、速度百五十三。液体の体を幅広くして摩擦を稼ぐと、杭は指一本分だけ境界外へ戻った。
「よしっ! 見たか、契約にも物理は効く!」
喜んだ瞬間、右端の杭が一歩進んだ。
カン、と石を割る音。戻したぶんと同じだけ、別の杭が内側へ入る。
「見た。物理だけじゃ駄目だ」
ヴァルカの言葉が鉄槌より痛い。
「いまのは準備運動! 本番はここから!」
強がって右杭へ向きを変えると、中央杭まで低く唸った。三本が杭ではなく、一匹の三つ首の魔物に見えてくる。片方を押せば、別の首が噛みつく仕組みだ。
ミレアが水面を叩いた。
「骨を見て。杭じゃない」
還流骨に浮かぶ在庫表示が、左杭を戻した瞬間に右へ移っている。杭の位置が境界そのものなのではない。三本の間を走る青線が、回収する範囲を塗り替えている。
「こいつら、歩いてるんじゃない。手を伸ばしてる?」
「たぶん。けれど、何をきっかけに伸ばしたかは分からない」
「分からないなら、止めて見る」
俺は右杭へ魔力刻印を触れさせた。昨夜、解体兵の命令核から写したのと同じ『停止』だけを送る。文字を読むのではない。知っている形を、知っている形へ重ねる。
青線が消えた。
「止まった!」
一呼吸目。還流骨の表示も止まる。
二呼吸目。右杭の頭で、黒い筋が蜘蛛の巣のように広がった。
三呼吸目。停止が弾け、中央杭が二倍の速さで鳴り始める。
「うわっ、怒った!」
青い光が俺の外膜を焦がした。痛みそのものより、核のすぐ外側を命令が掠めた感覚にぞっとする。俺は慌てて刻印を切ったが、熱が抜けない。
「水、借りる!」
「〇・二五リットルまで。右から取って」
ミレアが細い水束を寄こす。俺は防水膜へ回し、焦げた表皮を包んだ。許可水二リットルのうち〇・二五リットル。残り一・七五リットル。冷たさが染みると、核の震えがようやく収まった。
停止を一瞬通しただけで、魔力は二十八も減っている。残り三百八十八。腹が減って判断が鈍れば、次は切るのが遅れるかもしれない。
「もう一度やれば、停止が何呼吸保つか測れます」
ヴァルドが契約板を見ながら言った。
「測るのは好き。でも、同じ失敗を二回やるのは嫌いだ」
「先ほどまでは、杭が動けば壊すと」
「それは朝の俺。いまの俺は三呼吸ぶん賢い」
ヴァルカが鼻を鳴らし、杭の周囲へ白い石粉を撒いた。境界を越えれば跡が残る。叩くためではなく、動いた順番を見るための粉だ。
「左を押したら右が出た。右を止めたら中央が速くなった。三本を一つずつ見るな。順番を見ろ」
「そう。左、右、中央……いや、最初に鳴ったのは左で、その前に骨の表示が変わった」
俺は三本の間へ囮水流を細く走らせた。攻撃には使わない。青線が水へどう反応するかだけを見る。左杭の在庫表示が灯り、次に右杭の頭が回収路を指し、最後に中央杭の足元で石粉がわずかに盛り上がった。
「表示、向き、前進。いつもこの順だ」
確かめるため、俺たちは骨片の位置を三度変えた。一度目は入口の中央。二度目は水路寄り。三度目は市場側。ヴァルカが石粉へ細い目盛りを引き、ミレアが青線に触れない距離から水面の揺れを数える。
中央へ置くと、左杭の表示から三拍後に右杭が向く。水路へ寄せると二拍。市場側では五拍。距離で時間は変わるが、順番だけは変わらない。
「近いほど早い。だったら、黒牙を胃袋の奥へやったのは意味があった?」
俺が聞くと、ヴァルドは板へ三つの数字を刻んだ。
「回収そのものは防げませんが、命令が確定するまでの猶予は伸びています。収納内部を正確な距離として測れていないのでしょう」
「見えてるけど、奥行きまでは分からない。覗き方が中途半端だな」
胃袋を見られた気持ち悪さは消えない。それでも、隠すことが完全な無駄ではなかった。俺は黒牙を赤い魔核からさらに離し、素材棚のいちばん奥へ固定した。
次の試験では、俺がわざと左杭の前を横切った。飢餓感知を閉じ、魔力刻印も使わず、ただのクラフトスライムとして滑る。青線は一瞬俺へ寄ったが、在庫表示は出ない。
「生きてる俺より、所有印のある骨を優先した」
「喜ぶ話ではない」とミレアが水を細くした。「次は、所有印がなくても数えるかもしれない」
「うん。だから今日の事実だけにする。俺は今すぐ在庫じゃない。明日もそうとは限らない」
言葉にすると、七日契約の薄さがよく分かった。杭を一歩戻しても、規則は地面の下を歩く。力で勝ったつもりになれば、その間に別の一本が前へ出る。
ヴァルカが白い目盛りのうち、右杭の前だけ二重線にした。
「次に動くのはここだ。分かったなら、押すんじゃなく先に退路を空ける」
「了解。見つけた規則で、まず怪我を減らす」
俺は右側に置いていた皿片を退かし、ミレアも細い支流を半歩下げた。その直後、予測どおり右杭の根が石を割る。置いたままなら皿片一枚か、水の先端が巻き込まれていた。
倒してはいない。技能も増えていない。それでも、昨日なら失っていた物を守れた。
胸の奥がむずむずして、俺は少しだけ高く丸くなった。
見つけた瞬間、空腹を忘れて体が丸く弾んだ。止めることはできない。けれど、次に動く一本なら、動く前に分かる。
「契約にも癖がある! こいつ、真面目そうな顔で同じ順番を繰り返してる!」
「杭の顔はどこ?」とミレア。
「たぶん一番感じ悪い面」
「全部だな」とヴァルカ。
三人で杭を見る。少しだけ笑ったあと、ヴァルドだけは笑わず板へ順番を刻んだ。
「自律処理です。少なくとも、私の追加命令ではない。七日の停止契約が、残置された回収規則と衝突している可能性があります」
「可能性、ね」
俺は赤い魔核を胃袋のいちばん奥へ沈め直した。三本の青線へ、魔核は弱く脈打っている。触れば何か分かるかもしれない。だが、あれは白眼の王のものだ。契約杭まで同時に反応させれば、どちらが何をしたか分からなくなる。
「赤いのは触らない。今日は杭だけ。ヴァルド、異議ありだ。約束を守れない杭なら、あんたが止め方を探してくれ」
「異議を記録します。ただし本部の停止権限が届くまで――」
カチン。
左杭が、今度は俺の体内をまっすぐ指した。
青い在庫表示が黒牙片の契約写しへ重なる。胃袋の奥へ隠してあるのに、杭は位置を知っていた。
腹の音が止まった。
「……俺の胃袋、覗いた?」
黒牙をもっと深く沈める。杭の頭も、逃がさないようにゆっくり向きを変えた。
夜まで待つつもりだった規則が、向こうから牙を剥いた。




