第3話 水中感知の獲得
蒼晶甲虫の水場へ戻る前に、俺は支流の奥で三つだけ練習した。
右の壁へ意識を伸ばす。ざらついた岩と、伝い落ちる水滴が返る。いったん切る。次に左の流れ。砂を押す細い水筋だけを拾って、また切る。最後に背後。自分の身体が水を押す振動まで混じり、慌てて止めた。
「三つ目は俺でした、と。敵より先に自分を発見する感知能力、便利なのか不安になってきたな」
前回は全部を一度に知ろうとして、何も分からなくなった。今日は一つずつ見る。格好よく全方位を把握するのは、もっと強くなった俺に任せる。
試しに水場全体へ感知を広げると、また雫と砂と自分の震えが一斉に押し寄せた。慌てて切り、今度は右壁の水滴だけを選ぶ。冷たい一点だけが、闇の中で輪郭を持った。
「うん、広げたら駄目。狭く、短く、一個ずつ。派手じゃないけど、今日はこれで勝つ」
保存した肉を少しだけ食べた。腹の奥――正確には核の周り――に熱が戻る。残りは二回分。水晶片は三枚。水刃を撃てるのは、多くても三発。
「朝ご飯、道具、残り魔力。よし。戦う前から貧乏だ。でも、昨日よりは準備した」
水場へ戻ると、蒼晶甲虫は中央にいた。六本の脚で砂を掻き、流れを自分の周りへ集めている。青晶の背は暗闇の中でもぼんやり光り、城壁みたいに水路を塞いでいた。
ぎぃん。
あちらも俺に気づいた。二本の角が下がる。
「おはよう。昨日はどうも。今日は水場を半分返してもらいに来た。できれば平和的に――」
甲虫が突進した。
「最後まで聞け!」
俺は右へ滑る。前回なら流れに押されて左へずれたが、今日は岩の出っ張りを先に覚えている。身体の端をそこへ引っかけ、角を半身ぶんだけ外した。
蒼晶甲虫は止まらず、右脚で水を蹴った。水圧が横からぶつかり、岩へ押しつけられる。逃げ道を覚えたくらいで、敵の手数が減るわけではない。
「ぐえっ。……そうだよな、昨日と同じことだけしてくれるほど親切じゃないよな!」
俺は正面に水刃を作った。撃たない。青い刃先を見せるだけだ。
甲虫は背中を傾け、結晶面をこちらへ向けた。昨日の刃を返した姿勢だ。脚が止まり、腹の左側が少し浮く。
「そこ。お前、水刃を返すときだけ左が軽い」
刃を消し、右壁へ一枚目の水晶片を置く。流れに押され、片がころりと倒れた。
「倒れるな! 今だけは格好よく立ってくれ!」
身体の端で支えた瞬間、蒼晶甲虫が背を戻した。待たせた水刃が来ないと判断したらしい。角が横から突っ込んでくる。
俺は片を手放して縮んだ。角は水晶片を砕き、欠片を壁へ散らす。
ぎぎぎっ。
「一枚目、開始十秒で退場! 俺の準備、寿命が短い!」
笑っている場合ではない。残り二枚。三回反射はもう無理だ。最初の作戦を捨てる。
水中感知を左前脚だけへ絞る。傷はまだ残り、踏み込むたび水の押し返しが弱い。右脚は強い。中央の二本は身体を支えるため、突進直前に一度だけ浮く。
全部を相手にしなくていい。弱い左脚を、さらに使いにくくする。
俺は二枚目を左脚の外側へ滑らせた。甲虫は角で弾こうとする。その前に水刃を右壁へ撃つ。刃は壁を走り、水晶片で一度だけ曲がった。
青い線が背後から左脚の付け根へ入る。
ぎぃぃっ!
蒼晶甲虫が腹を落とした。効いた。嬉しさで、すぐ二発目を作りかける。
核の周りが軽くなった。
「待て、残り魔力! 当たったからって全部使うな。俺、勝った気になるのが早い!」
甲虫は傷ついた左脚を畳み、残る五本で立ち直った。さらに背中を激しく振る。青い結晶から飛んだ水滴が散弾みたいに飛び、俺の表面へ突き刺さった。
「熱っ――青いくせに、ずいぶん刺さるな!」
俺は岩陰へ退く。だが甲虫は追わず、水場の中央を五本脚で塞いだ。傷を増やすより、俺を乾かすつもりだ。
一発は当てた。それでも水へ戻れなければ、先に弱るのは俺だ。
「当てたのに負ける流れ、昨日も見た。じゃあ、刃を当てるのを目的にするな。水へ戻る道を作れ」
残った水晶片は一枚。刃は一発。肉は二回分。俺は肉を使うか迷い、胃袋の中へ戻した。餌で釣っても、あいつが肉を食べるとは限らない。限られたものを、願いには使わない。
代わりに、甲虫の腹の下へ意識を沈めた。水中感知で拾うのは砂の動きだけ。左脚の下は傷のせいで深く沈み、そこへ細い流れが入り込んでいる。流れる水は、少しずつ砂を運んでいた。
甲虫が角を下げる。
ぎゃりりりっ!
正面から来る。俺は横へ逃げず、低く潰れて腹の下へ滑り込んだ。
頭上を青晶の鎧が通過する。重みで水が押しつぶされ、核が床へ擦れた。
「近い近い近い! 怖い! でも、背中より腹の下のほうがまだ柔らかい!」
身体の端を左脚の沈んだ穴へ伸ばし、水を流し込む。砂が崩れ、脚がさらに沈む。
蒼晶甲虫は力任せに脚を引いた。抜けない。右脚で踏ん張る。背中の結晶面が傾く。今まで水刃を返していた角度が、初めて崩れた。
甲虫は腹を俺へ落として押し潰そうとした。
読まれた。
俺は慌てて前へ抜ける。外膜の後ろ半分が甲殻に挟まれ、ぶちりと裂けた。痛みで感知が白く飛ぶ。
「っ、あああっ! 離せ! 俺の身体だけど、そこは置いていけない!」
無理に引けば、核まで引き寄せられる。俺は裂けた部分を切り離すように縮め、量を失う代わりに核を逃がした。HPが削れ、身体が一回り小さくなる。
蒼晶甲虫がもがく。左脚は沈んだまま。右脚は踏ん張っている。腹を落としたせいで、中央の脚二本が水から浮いている。
ここで逃げれば生きられる。けれど水場は取り戻せない。保存肉も減り、次に戻れば相手は腹の下へ入らせないだろう。
怖い。身体は逃げる形へ勝手に縮んでいる。
「逃げたい。ものすごく逃げたい。……でも、今だけだ。あいつが自分で姿勢を崩した、今だけ!」
残る水晶片を右壁へ立てた。今度は身体で支えない。石の割れ目へ差し込み、倒れない角度だけ確かめる。
最後の水刃を壁へ走らせる。刃は水晶片で一度折れ、蒼晶甲虫の腹の下へ潜った。
「水刃――曲がれ!」
青い線が浮いた中央脚の付け根を切る。
ぎぃぃぃぃっ!
甲虫が身体を持ち上げる。沈んだ左脚が軸になり、巨体が横へ傾いた。右脚で戻そうとするほど、崩れた砂へ重さが集まる。
俺は攻撃せず、傾く側へ身体を押しつけた。攻撃一の体当たりでは倒せない。けれど、倒れ始めた重さへ、ほんの少しだけ足すことはできる。
青晶の背が岩へ激突した。
硬い結晶が割れ、水路へ青い欠片が散る。蒼晶甲虫は脚を掻いた。二度。三度。やがて擦過音が途切れた。
俺はすぐ近づかなかった。
頭部の振動だけを感知する。ない。前脚だけ。動かない。腹の下。水だけが流れている。
「勝った……?」
返事はない。
「勝った。勝ったぞ、俺! うわ、どうしよう、誰も見てない! 今のすごかったんだぞ!」
喜びで身体が跳ね、傷へ水が染みて、すぐに潰れた。
「いっ……跳ねた分だけ傷に染みた。今の歓声、返したい」
蒼晶甲虫の肉を少量だけ捕食し、失った身体を補う。甲殻は一枚ずつ向きを揃えて無限胃袋へ。割れずに残った水晶片は一枚。魔石は冷たい青光を宿していた。
魔石を全部吸収するのは怖かった。まず表面の欠片だけを包む。冷たい力が核へ流れ込み、身体の内側が一気に熱くなる。
浮かんだ数値が変わった。
レベル二。HP十八。魔力十六。攻撃三、防御二、速度五。
「上がり方、急だな!? 俺、さっきまで攻撃一だったぞ。……でも数字に浮かれるな。できることを確かめる」
最初の水場で核を動かした途端、身体も水刃も崩れた。あの失敗を思い出す。核を右へ一粒ぶんだけずらし、左に水を集める。
怖くて身体が震える。それでも、今度は崩れない。
細い水刃が左へ伸びたまま、核は右の厚い場所に残っている。
「残ってる……刃も、俺も。昨日は両方まとめて床にこぼれたのに!」
喜びすぎて刃を長くし、先端が崩れた。
「長くは無理か。まあ、今のは見なかったことにしよう」
水刃を短く保ったまま、無限胃袋から石を一つ出す。以前は収納を開くと身体が緩んだが、今は核を守る厚みが残る。逃走中でも一つずつなら出し入れできそうだ。
魔石の中心部は残して収納した。全部を食べればさらに力が増すかもしれない。だが今は、増えた身体に慣れるほうが先だ。
下流から、こつん、と規則正しい硬音が届いた。
甲虫の脚音ではない。二足。重いものが一つ。さらに、石を引きずる長い音。
俺は浮かれていた身体を低くした。
「勝利祝い、終了。次のお客さん、足音からして武装してない?」
水晶片と甲殻を胃袋の奥へ押し込み、保存肉を核のそばへ寄せた。水刃はまだ細く残っている。俺はその青い線を消し、武装した足音に場所を教えないよう岩へ貼りついた。
俺は取り戻した水場を離れ、横の裂け目へ身を隠した。
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