第2話 蒼晶甲虫と水場
水脈に流されて、どれだけ下ったのか。
落下の勢いがようやく止まったとき、俺は岩陰の浅瀬へ半分めり込んでいた。身体の左側は冷たい水の中。右側はざらざらの砂の上。核は真ん中で、酔ったみたいに揺れている。
「到着。荷物は無事。乗客は……俺しかいないのに、ものすごく酔った」
上流から絶えず水が流れ込んでいる。裂けた外膜へ染みるたび、輪郭がゆっくり戻った。ここなら傷を癒やせる。問題は、流れが細く、俺が全部を塞げるほど狭いことだった。
つまり、俺が寝床にすれば、水を飲みに来る何かと必ず揉める。
「不動産としては水道完備。防犯はゼロ。家賃が命って高すぎない?」
まず上流、中央、下流に小石を置いた。上流は回復用、下流は水刃用、中央は逃げる目印。我ながら賢い、と少しだけ得意になった瞬間、中央の石が流れに押され、ころころと下流へ消えた。
「計画が流された。文字どおりに」
誰も笑わない。少し寂しくなったので、俺も笑うのをやめた。
石が流される強さなら、薄くなった俺も持っていかれる。目印を置くより、岩の出っ張りを覚えたほうがいい。右に一つ、左奥に二つ。前世で夜中にトイレへ行くとき、家具の角を足で覚えたのと同じだ。違うのは、ぶつける足がないことくらいだった。
上流の水面が青く光った。
最初は鉱石が流れてきたのだと思った。光は一つ、二つ、三つと増え、やがて六本の硬い脚が砂を掻いた。透明な青晶を鎧のように背負った甲虫が、浅瀬を押し分けて現れる。胴は俺の三倍ほど。二本の角は短剣みたいに尖り、背中の結晶は雫を受けるたび、洞窟の壁へ冷たい虹を散らした。
ぎぃん。
結晶同士が擦れ、鐘を水中へ沈めたような音が響く。
「うわ、綺麗だ。持って帰りたい。……持って帰る前に、あっちが俺を持って帰りそうだな」
蒼晶甲虫は俺を食べようとはしなかった。前脚を流れの中央へ差し込み、砂を掻き回す。澄んでいた水が濁り、回復用に分けた上流まで泥色になった。
水場を奪うつもりなのか、ただ巣を作っているのかは分からない。ただ、ここを荒らされれば俺は回復できない。
「悪いけど、そこは今日から俺の風呂兼寝床兼命綱だ。せめて半分、空けてくれない?」
甲虫は角を低くした。
交渉決裂らしい。
俺は下流の水を集め、水刃を背中へ放った。青い刃が結晶へ当たり、甲高い音を立てる。次の瞬間、刃は斜めに滑り、俺へ戻ってきた。
「戻るな戻るな戻るな――痛っ!」
避けきれず、身体の左端が浅く切れた。自分で撃って自分で負傷。誰かに見られていたら、しばらく立ち直れない。幸い、観客は甲虫だけだ。
蒼晶甲虫は、ぎぎ、と短く鳴いた。笑われた気がする。
「今のは練習! 本番は次! ……たぶん!」
強がりながら、反射した理由を考える。甲虫が水刃を操ったわけではない。背中の結晶面を傾け、刃の向きを変えただけだ。正面へ撃つほど、こちらの水を相手へ渡すことになる。
俺は水中感知へ意識を伸ばした。名前どおりなら、水の中にいる脚くらい分かるはずだ。
次の瞬間、砂粒、壁の亀裂、雫、流れ、六本の脚、俺自身の震えまで、全部が同じ大きさで頭へ押し寄せた。
意識の奥で、今まで灰色だった技能名に青い光が灯る。
水中感知Lv0 → Lv1(+1)。
「覚えた! ……あれ、待って。敵はどれだ?」
「多い多い多い! 分かった、一度に来るな!」
感知を切る。遅かった。蒼晶甲虫が角を前へ倒し、砂を蹴った。
ぎゃりりりっ!
俺は右へ逃げたつもりで、流れに押されて左へ滑った。角が身体の端を掬い、浅瀬の外へ放り出す。水を離れた部分から急速に乾き、膜が引きつった。
「そこは駄目だ、俺は乾物になる趣味ない!」
丸く縮んで水へ戻る。甲虫は追撃せず、流れの中央に居座った。水から引き離せば弱ると、偶然にしては正確な動きだ。
背中は硬い。なら脚元だ。
俺は水刃を床すれすれに走らせ、左前脚の下の砂を削った。脚がずぶりと沈む。
「よし、取った!」
だが甲虫は倒れない。結晶の背を流れへ向け、受けた水で脚の周囲の砂を洗い流した。埋まった脚が抜ける。さらに右脚で水を掻き、俺の作った溝を逆向きに埋めてくる。
「罠を自分で直すのかよ。器用さで虫に負けると、ちょっとへこむな!」
ぎぃぃん、と長い音。甲虫がもう一度突進する。
最初と同じ場所へ逃げれば、今度は読まれる。俺は無限胃袋から骨片を出そうとした。出てきたのは乾いた草だった。
「違う! 今じゃない! お前の出番は、もっと平和な場面!」
草をしまい直す間に角が迫る。間に合わない。俺は草をそのまま水面へ放った。軽い草束が流れに乗り、甲虫の右側へ広がる。
蒼晶甲虫の角が草を追った。ほんの一瞬だけ、重心が右へ寄る。
「草、主役だった! 疑って悪かった!」
左側の亀裂へ滑る。入口は狭い。身体を薄くしすぎれば、奥で戻れない。目覚めた直後、核を動かして崩れた失敗が頭をよぎる。核は中央に残し、外側だけを伸ばした。
背後で角が岩へ突き刺さる。ぎゃり、と青晶が削れ、亀裂全体が震えた。
ここで水刃を撃てば、また結晶に返され、俺の逃げ道を自分で切る。
「撃つな、俺。怖いからって、できることを全部やるな」
代わりに小石を亀裂の反対側へ吐き出した。かん、と音が鳴る。甲虫の角がわずかにそちらへ動く。俺は一呼吸ぶんだけ奥へ進んだ。
水中感知をもう一度使う。
今度は全部を知ろうとしない。右前脚が水を押す場所、それだけ。
大きな振動の中から、一つの重い押し返しが浮かぶ。次に左脚。最後に中央の二本。輪郭も距離も分からない。ただ、重さを移す順番だけが残った。
「見えない。でも、右、左、真ん中の順だ。……よし。一個なら、俺にも分かる」
甲虫が亀裂へ角をねじ込む。右脚の圧が強まる前に、俺は左の岩へ身体を寄せた。予想どおり、角は右壁を削った。外れたのは偶然かもしれない。けれど、偶然をもう一度試せる情報にはなった。
亀裂の奥には小さな溜まりがあり、砕けた青い水晶片が三枚沈んでいた。さらに、別の小さな水棲魔物の死骸が岩に挟まっている。
空腹で身体がきゅっと縮んだ。
「食べたい。ものすごく食べたい。でも全部食べたら、明日の俺が今日の俺を恨む。……半分は保存。大人の判断だ。身体はぷるぷるしてるけど」
肉を少量だけ食べ、残りと水晶片を無限胃袋へしまう。水晶片は足元、頭上、背後へ一枚ずつ置いた。水滴がどれへ先に当たるかで、甲虫の動きを知れるかもしれない。
最初は背後の反射を敵の影と勘違いし、全身をひねった。自分で水を乱し、甲虫に居場所を教える。
ぎぃん!
「はい、今のなし! 俺が俺に驚いただけ!」
二度目は光を見ず、砂が沈む順番を感知する。右脚が動けば入口側の砂が先に震え、左脚なら壁の雫が遅れて落ちる。
まだ勝てない。水刃は返される。感知は一つの動きしか拾えない。甲虫は水場を占領したままだ。
それでも、ただ追い出されたわけではない。
「その水場、今日は貸してやる。家賃は青い欠片三枚――高いと思っても返さないからな」
甲虫が岩を削る音を背に、俺はさらに細い支流へ退いた。水場を手放す悔しさは残る。腹もまだ減っている。
右脚の圧、左壁の雫、流される砂。闇は同じ黒でも、触れてくる順番は違う。
支流へ身体を沈めると、追ってくる重い振動だけが、ほかの流れから浮かんだ。
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