第1話 誕生、そして逃走
冷たい。
最初に浮かんだ感想は、それだった。次が、濡れている。三つ目が――背中はどこだ、である。
「寒っ……いや、寒いのは分かる。分かるけど、毛布を引っぱる手がない。手どころか、毛布もない。ちょっと待て、順番に困らせてくれ」
目を開けたつもりなのに、暗闇は一欠片も薄くならなかった。まぶたを擦ろうとして、擦る指がない。起き上がろうとして、腰も膝も見つからない。焦って力を込めた途端、身体らしきものが床いっぱいに、べちゃりと広がった。
「うわっ、こぼれた! 俺が俺からこぼれた!」
慌てて縮む。すると、散った感覚が中央へ集まり、その奥で硬いものが小さく震えた。丸い石のようで、石よりもずっと自分に近い。そこへ意識を寄せるほど、形が安定する。
たぶん、核だ。
確証はない。けれど、これを割られたら死ぬ、と身体の全部が騒いでいる。
「はい、急所発見。開始一分で死亡条件だけ分かるゲーム、難易度の説明が雑すぎない?」
返事はなかった。代わりに、ぽたり、と天井から落ちた雫が身体へ触れた。冷たさが膜を伝い、雫の落ちた位置だけが妙にはっきり分かる。
手足の代わりに、身体そのものを動かすらしい。丸くなれば核を厚く包める。薄く伸びれば岩の隙間へ入れる。ただし、薄くしすぎると核まで剥き出しになる。
右へ伸びようとして左へ滑り、壁へぶつかった。
「壁、近っ。……暗いんだから、せめて当たる前に名乗ってくれ」
もう一度、今度は核を後ろへ残して前だけを伸ばす。少し進めた。嬉しくなってさらに伸びた途端、腹――腹があるかは知らないが――の中央が薄くなり、慌てて縮んだ。
できる。だが、下手だ。
その事実を噛みしめる暇はなかった。
ざり。ざり。ざり。
岩を引っ掻く硬い音が、暗い通路の奥から近づいてくる。次いで、獣臭い息が流れ込んだ。闇の中に白い眼が二つ浮かぶ。灰色の毛皮は岩粉で逆立ち、肩は前世で見た大型犬より高い。何より、前脚の爪が鎌みたいに内側へ曲がっていた。
獣が鼻面を低くし、喉の底を震わせる。
「グルルルル……」
「いやいや、その唸り方は『友達になろう』じゃないだろ。俺、見た目はたぶん一口サイズだけど、初対面だぞ?」
灰爪獣は返事の代わりに跳んだ。
爪が岩床を抉る。俺は縮むつもりで、逆に横へ潰れた。刃の先が身体の端を引き裂き、冷たい痛みが一拍遅れて核まで届く。
「いっ――痛い痛い痛い! スライムでも普通に痛い! そこだけ人間と同じなの、今はいらない!」
灰爪獣は血の代わりに散った俺の雫を嗅ぎ、前脚で床を探った。獲物がどこへ逃げるか確かめている。窪みの奥にいれば、次は爪が核へ届く。外へ出れば噛まれる。
白い文字が、意識の中央に浮かんだ。
鑑定。無限胃袋。水刃。
名前だけは分かる。使い方までは親切に教えてくれないらしい。
「能力一覧を出すなら説明書も出してくれ! ……水刃。読める名前から試すしかないか」
床の水を身体へ集め、前方へ押し出す。薄い刃を思い描いた。水は一瞬だけ青く尖り、斜め上へ飛んで――獣の前脚を浅く撫でたところで、ぱしゃりと崩れた。
「ギャウッ!」
灰爪獣の右前脚に細い傷が走る。効いた、と喜んだ次の瞬間、傷ついた脚が俺の水場を踏み潰した。水が四方へ散り、二発目に使う分まで減る。
「当たったのに状況が悪くなった! そういう採点方式なの!?」
獣は傷を庇わない。むしろ怒りで鼻息を荒くし、身体を窪みへ押し込んできた。水刃を当てれば勝てる、ではない。こいつは一撃なら耐える。俺は次を撃てば、逃げる水まで失う。
なら、倒すのをやめる。
「よし、作戦変更。勝つのは諦めた。命だけは諦めない!」
爪が振り下ろされる直前、俺は身体を薄くして窪みの縁へ滑った。核を中央へ置いたままだったせいで腹が岩に引っかかる。もう一度爪が迫る。
「引っかかった! 今だけ痩せろ、俺!」
無理やり前へ伸びた。岩、枯れ草、白い骨片が身体へ触れる。邪魔だと思った瞬間、それらが内側へ、すぽん、すぽんと消えた。
「消えた!? 食べた? 俺、石を食べたのか? 待て、味がしないのが余計に怖い!」
内側には、石と草と骨片が、形を失わず収まっている感覚があった。無限胃袋。取り込んだものをしまえるらしい。
考えるより先に、骨片を外へ出してみた。白い欠片が灰爪獣の鼻先へ落ちる。
獣の眼が反射的に動いた。
「出せる! よし、胃袋なのに倉庫だ。名前は後で問い詰める!」
石を右の壁へ吐き出す。かん、と乾いた音が鳴り、灰爪獣の耳が右へ向いた。俺は左へ滑る。ところが獣はすぐ鼻を戻し、爪を横薙ぎに振った。
身体の表面が削れ、核が跳ねる。
「うぐっ……音だけじゃ一呼吸か。じゃあ、次は鼻だ!」
骨片の尖った側を前へ出し、噛みついてきた鼻面へぶつけた。
「ガッ!?」
灰爪獣が顔を振る。俺はその顎の下を抜け、下り坂へ転がった。右へ行くつもりが左へ跳ね、岩へ二度ぶつかり、最後は浅い水溜まりへ頭から――頭はないが――突っ込んだ。
「逃走、成功……たぶん! 着地、零点!」
冷たい水が裂けた身体へ染み込み、失った輪郭を埋めていく。だが上から爪音が追ってきた。灰爪獣は鼻先を傷つけられた怒りで、さっきより速い。
俺は慌てて核を水と反対側へ寄せ、水刃を作ろうとした。守る側と撃つ側を分けるつもりだった。
身体が、ぐにゃりと崩れた。
しまった石が転がり出て、水刃もただの飛沫になる。
「ああもう、欲張った! 核を動かしたら水が散る――分かったから、石まで出てくるな!」
灰爪獣が水場へ踏み込む。俺は核を動かすのを諦め、身体を丸く保ったまま、水刃を床へ短く走らせた。一発目は浅すぎて水面を撫でただけ。二発目は獣の脚より手前で砕けた。
獣が爪を振り上げる。
「あと一回。敵じゃない、床を狙え。俺、外すなら役に立つ方向へ外せ!」
三発目の刃が濡れた砂を削った。灰爪獣の前脚の下へ薄い溝ができ、水が流れ込む。
獣が踏み出す。爪が砂を噛まず、巨体が横へ滑った。
「グルァッ!?」
「よしっ! 倒せないけど転んだ! 今の俺には大勝利!」
俺は水を一口ぶんだけ身体に残し、斜面へ身を投げた。そのとき、さらに上の闇から、空気そのものを押し潰すような咆哮が落ちてきた。
グオオオオオオオ――ッ!
洞窟の天井から砂が降る。水面が波打ち、核まで震えた。灰爪獣は俺を追うのをやめ、尻尾を腹へ巻いて振り返る。あの大きな獣が、子犬みたいな声を漏らした。
「クゥン……」
「待て待て待て。お前がその反応する相手、俺は絶対に見たくない!」
灰爪獣が横穴へ逃げる。俺も反対側の水脈へ飛び込んだ。何層あるのかも、ここが入口からどれほど下なのかも分からない。ただ、上には俺を食う獣がいて、その獣まで怯える何かがいる。
「怖い。すごく怖い。……石も骨もある。下へ流れる水もある。手ぶらじゃない」
前世の記憶も、立派な武器もない。あるのは、形の定まらない身体と、すぐ崩れる水刃と、何でもしまえる妙な胃袋。
水刃で削った溝の感触が、まだ身体の底に残っている。
俺は下りの水へ身を預けた。上からまた咆哮が落ちたときだけ、しまった骨片へ触れて、ここにいると確かめた。
⠀




