第29話 死骸についた値札
グラトンを追い払った次の朝。俺たちは中層水路域の下り側、旧寝床から半区画下った横穴で、死骸を三つの山に分けていた。北の穴だけは人間の死骸市場へ向かって緩く上り、最深部へ続く水は反対の南下層へ落ちている。
食料。素材。水脈へ返す還流分。
食料の山は、一食分と小片二つだけ。還流分はその倍ある。腐敗して食べられない肉や、水に溶かせば藻の養分になる骨粉だ。素材の山には黒牙片一つ、切れた翼膜の端二枚、拾い直した還流皿片三つを置いた。
旧寝床は失った。最後の吸水石も、グラトンを追い払う罠で使い切った。残っている水脈は一本減り、ヴァルカの右肩には昨日巻いた翼膜の帯がまだある。俺の体内には、食べないと決めた赤い魔核が一つ。腹はもう、朝から三度鳴っていた。
「食料、一食と少し。俺が我慢すれば二食。いや、我慢を在庫に数えるのは危ないな」
「最初から数えるな。お前の我慢は材料より信用できない」
石壁にもたれたヴァルカが、黒牙片を棒の先で転がした。ぶっきらぼうな声はいつも通りだったが、右腕を上げず、左手だけで作業している。俺が見たことに気づくと、彼女は先に眉を上げた。
「動ける。勝手に休ませたら、その棒でお前を転がすよ」
俺は反論を飲み込み、黒牙片ではなく彼女の足元へ皿片を寄せた。右肩を使わずに届く距離だ。ヴァルカは何も言わず、左手で受け取った。
「分かった。休めとは言わない。痛みが増えたら言ってくれ。俺も聞いたら止まる」
ヴァルカは黒牙片を返さず、棒の先で素材山の中央へ置き直した。それが答えだった。
褒められたのだと思う。たぶん。
細い水路の向こうで、ミレアの青銀の髪がゆっくり揺れた。彼女は還流分の山を見ている。食べられないものではなく、水へ戻すものとして見ている目だ。
「それ、まだ流さないで」
「匂いが強い?」
「違う。光ってる」
ミレアが指した先で、黒牙片の根元に赤褐色の線が浮いていた。昨日は血の筋だと思ったものだ。けれど水を一滴落とすと、線は円と三本の鉤へつながり、牙の表面を浅く走った。
還流死骸の骨にも、同じ形がある。
「値札、みたいだな」
「値段は書いてない」
「ヴァルカ、俺だってそれくらい分かるよ。食べ物に印を付けて、誰かのものだって言ってる感じがする」
言いながら、腹の奥に冷たいものが落ちた。グラトンはこの死骸を盗んでいたんじゃない。誰かが印を付けた死骸を、決まった場所から食べていた。ここは巣の跡ではなく、もっと大きな何かの餌場かもしれない。
飢餓感知を細く広げる。
食べられる肉の位置ではない。強い空腹が、どちらへ引かれていたか。その残り方だけを追う。
すぐに自分の腹が食料の山を本物だと叫び、感覚がそちらへ曲がった。
「いやいや、今はお前じゃない。俺の腹、調査の邪魔がうまくなってない?」
「一口食べる?」
ミレアの声に、思わず食料へ伸びた体を止めた。
「食べたい。でも、食べたら感知が正しくなる保証はない。それに、これは次の食事だ。先に印を見る」
ヴァルカが黒牙片の下へ薄い石板を差し込んだ。
「触るなら板ごと。直接はだめ。印から糸みたいな魔力が、北の穴へ伸びてる」
「見えるのか?」
「継ぎ目が震えてる。見えなくても、嫌な作りは分かる」
ミレアが水を引いた。印の周囲だけ、石板の上が乾く。
「流れも避けてる」
二人とも触るなと言っている。なら、俺が決めることは一つだ。
「調べる。ミレアは水を切る。ヴァルカは板を落とす。二人のどちらかが動いたら、俺も手を離す」
ミレアはすぐ水を細くし、ヴァルカは石板の端へ靴を掛けた。俺も触手を伸ばす前に、いったん引っ込める。三人の動きが揃うのを見てから、もう一度だけ伸ばした。
「今度は見てたね」
少しうれしくなったせいで、体の縁が勝手に丸くなる。格好つけてる場合じゃない。
俺は体から細い触手を一本だけ伸ばし、黒牙片の所有刻印へ触れた。
熱くはない。痛くもない。
なのに、印の三本の鉤が同時に俺の内側を向いた。
カン、と遠くで金属音が鳴る。
一度。二度。三度。
北の横穴で、昨日までなかった赤い光が走った。床に埋もれていた細い線が次々と点り、所有刻印から闇の奥へ続いていく。
「離して!」
ミレアの声と同時に水が切れ、ヴァルカが板を蹴り落とす。牙からは離れた。けれど赤い線は消えない。
刻印の光が俺の表皮にも一つ残っていた。
「え、待って。触っただけだぞ。食べてもないのに持ち帰り扱い?」
北の穴から、鎖を石へ引きずる音が近づく。
ヴァルカが素材の山を退路側へ蹴り寄せた。
「食料は?」
「あたしが持つ。還流分はミレア側へ。混ぜるなよ」
「混ぜない。死んでも――いや、死んだら全部混ざるな。生きて分ける!」
「冗談にしては悪い」
怒鳴ったヴァルカの顔が、痛みとは違う強張り方をしていた。素材の山を蹴り寄せた足が、食料の手前で一度もつれる。彼女が何を思い浮かべたかまでは分からない。ただ、俺の軽口が本気で怖がらせたことだけは分かり、言葉が喉で止まった。
「ごめん。生きる。だから、二人は右の水路へ。俺が引きつける」
「一人で決めないで」
ミレアの水が、俺の前で低い壁になった。
鎖の音が止む。
北の穴の入口まで、およそ十五歩。最初に出てきたのは、人の腕ほど太い鉤だった。次に四本脚。錆びた鉄板を虫の甲殻のように重ねた胴。上半分は人型だが、顔の位置には縦に開閉する鋏があり、左腕には巻き取り鎖、右腕には骨を割る円鋸が付いている。
歩くたび、右後脚が遅れる。胴の中央には割れた青い石。その奥で赤い命令核が脈打ち、俺の表皮の刻印と同じ間隔で明滅していた。
床の藻が円鋸の熱で縮れた。
機械の鋏が開く。
『所有確認。回収対象、二。登録死骸、一。未登録死骸、一』
鉤が黒牙片と俺を交互に向いた。
「未登録死骸って、俺かよ! 見ろ、動いてるだろ!」
『鮮度、良好。回収』
「そこを褒められてもうれしくない!」
鑑定を敵へ絞る。レベルは解析できない。壊れた外装を百と見れば、動ける分は六十ほど。攻撃は俺と同程度でも、鉄板の防御は俺より明らかに上だ。右後脚だけが遅く、胸の命令核は北の回収信号から魔力を補給されている。顔の鋏は俺を「未登録死骸」、黒牙片と還流死骸を「登録済み所有物」と誤認していた。
補給中。その事実に背中が冷えた。こいつ一体で終わらない。所有刻印に触れた瞬間、俺は誰かの倉庫へ「ここに在庫があります」と知らせてしまったのだ。
「三人とも、聞いてくれ。胴の赤い核が命令を出してる。右脚は遅い。でも外装は硬い。倒すんじゃなく、命令だけ止めたい」
「どれくらいで止まる?」
「分からない。核へ触れるまで」
「なら鎖一本が曲がるまで作る。あたしは左を噛ませる」
ヴァルカは素材山から割れた還流皿の縁を拾った。さっきまで傷を押さえていた手で、重い破片を構える。
「私は脚を流す。水は二度まで」
ミレアが言う。水脈を一本失った今、無理に引けば残った流れまで弱る。
「二度で足りる。一度目は止める。二度目は、俺を逃がして」
『回収』
鉤が飛んだ。
俺は食料山の匂いを偽装流へ乗せ、左へ走らせた。魔導解体兵の顔の鋏がそちらを向く。効いた、と喜んだ次の瞬間、鉤は匂いを無視して俺の表皮の赤い刻印へ曲がった。
「そっちが目か!」
水流滑走で右へ跳ぶ。直線なら速い。だが急には止まれない。鉤を避けた俺は石壁へぶつかり、体の端が裂けた。
HPが削れる。痛い。けれど鉤の鎖は壁際へ伸びきった。
「今!」
ヴァルカが還流皿の縁を鎖へ打ち込む。金属と魔材が噛み合い、巻き取りが止まった。
「鎖が曲がるまでだ! 高いんだから無駄にするな!」
俺は遠隔水流罠を右後脚の下で起動した。薄い水輪が関節を締め、遅れていた脚が床へ沈む。
これで核まで行ける。
そう思った瞬間、円鋸が自分の鎖を切った。
火花。千切れた鎖が鞭のように跳ね、ヴァルカの足元を薙ぐ。彼女は避けたが、右肩へ響いた衝撃に顔を歪めて膝をついた。
『障害、分解』
次の狙いは俺ではなく、食料の山へ向いた。
「やめろ、それは次の二食だ!」
怒りが先に出た。水刃を撃ちそうになり、寸前で止める。外装へ当てても水と魔力を失うだけだ。
「グルト、罠を切って!」
ミレアの声が飛ぶ。
「でも脚が――」
「水を取られてる!」
見れば、解体兵の右脚から細い管が伸び、遠隔水流罠の水を命令核へ吸い上げていた。罠を維持するほど相手が動く。あの測定罠と同じ失敗だ。俺たちは罠へ送った水を奪われ、グラトンを強くした。
悔しさで体が熱くなる。でも、今度はミレアの声より先に指が罠から離れた。
「罠、切る!」
水輪をほどく。解体兵の脚が自由になる代わりに、核への補給も途切れた。
円鋸が食料へ下りる。狙われたのは、小片二つのうち一つだ。
ミレアが一度目の水を横から叩きつけた。刃の軌道がずれ、食料山の端だけが弾ける。貴重な肉が泥へ落ちた。
「小片一つ、だめになった」
ミレアの声が震えた。水を守る彼女が、俺たちの食料を守るために水を使った。そのせいで流れが細くなっている。
「小片一つで俺を守った。無駄じゃない!」
「でも、次はない」
「次は俺が変える!」
二往復目で分かった。匂いでは騙せない。水で縛れば吸われる。外装を壊す時間もない。
なら、命令核へ続く細い流れだけを切る。
問題は距離だった。流路切断は細い接続にしか届かない。胴の割れ目へ触れるほど近づかなければ、赤い核と四肢のつながりを見分けられない。
「ヴァルカ、立てる?」
「立てるって、さっき言った」
息が荒い。けれど彼女は膝を上げ、切れた鎖の端を両手で持った。
「じゃあ頼む。右脚へ鎖を巻いて、傾くまで引いてくれ。肩が開いたら離して。俺は核へ行く」
「傾かなかったら?」
怖かった。足りなければ、円鋸の下で俺が分かれる。それでも、できない約束で彼女を立たせたくない。
「足りなくても離して。四呼吸目は俺の失敗だ」
ヴァルカは一瞬だけ俺を見つめ、それから歯を見せた。
「分かった。今度は守れよ、その約束」
俺は表皮に残る所有刻印を食料山とは反対へ向け、正面から跳ねた。
解体兵の鉤のない左腕が開き、胸元へ抱え込もうとする。
『未登録死骸、固定』
「だから、生きてる!」
腕の内側へ潜り込む。鉄板が体を挟み、HPが削れた。円鋸の熱が背後から近づく。
ヴァルカが鎖を投げ、右後脚へ二重に巻く。
「一つ!」
彼女が引く。破損脚が外へずれ、解体兵の胴が傾いた。
俺は割れた青石へ触れる。深層感知を一瞬だけ通す。太い魔力路が円鋸へ、もう一本が脚へ、髪の毛ほど細い赤線が中央の命令核から全体へ伸びている。
「二つ!」
円鋸が俺の背をかすめる。焼けた表皮が弾け、意識が白くなった。
怖い。逃げたい。赤い核を食べて、全部自分の力にしてしまいたい。
でも、赤い魔核は食べない。目の前の命令核も、丸ごと壊さない。食料も素材も還流分も、勝手に一つへ混ぜさせない。
「三つ!」
ヴァルカが約束どおり鎖を離した。
同時に俺は、細い赤線へ流路切断を差し込んだ。
水の刃ではない。流れている命令の継ぎ目だけを、押し開く。
魔力が一気に抜けた。命令核が抵抗し、俺の表皮に付いた所有刻印を強く光らせる。頭の中へ、意味の分からない形が押し寄せた。
回収。
停止。
所有。
三つだけが言葉として読めた。
俺は「停止」の形をつかみ、切った流れへ押し返した。
魔導解体兵の円鋸が、俺の背へ触れる寸前で止まった。
四本脚が順に折れ、重い胴が横倒しになる。俺も押し潰されそうになり、ミレアが二度目の水を差し込んで外へ滑らせた。
石床を転がり、食料山の手前で止まる。
しばらく、誰も声を出せなかった。
最初に聞こえたのは、ヴァルカの苦い息だった。
「肩が開く前に離した」
「うん」
「怒ってない?」
「怒るわけないだろ。約束を守ってくれて……助かった。ほんとに」
言葉にした途端、怖さが遅れて押し寄せた。体が震え、うまく形を保てない。円鋸の熱がまだ背に残っている。
ミレアが細い水をそっと俺の傷へ流した。
「生きてる?」
「さっきからそう言ってる。こいつだけ聞いてくれなかった」
「私に聞いてる」
声が短い。青銀の髪が俺の周りで小刻みに揺れている。彼女も怖かったのだ。
「生きてる。二人が止めて、離して、逃がしてくれたから」
ミレアはうなずき、そこでようやく水の震えが弱まった。
停止した解体兵の胸から、赤い命令核の欠片が一つこぼれていた。丸ごと食べれば、もっと読めるかもしれない。けれど外から来た所有の力を、腹の中へ全部入れる気にはなれなかった。
欠片の先だけを吸収する。
魔力が舌の代わりに形をなぞり、新しい技能が開いた。
魔力刻印Lv1。
読めるのは「回収」「停止」「所有」の単純な三命令だけ。長い命令も、誰の所有かも、条件も読めない。
俺は停止した解体兵の胸に残る刻印へ触れた。三つの形のうち、一番柔らかく感じたものを選ぶ。
安全、だと思った。
魔力を一滴流す。
次の瞬間、横穴全体へ甲高い鐘が鳴り響いた。
停止していた解体兵の背から赤い光柱が立ち、北の通路へ三度明滅する。
『回収信号、再発信』
「え」
ヴァルカが俺の触手を核から叩き落とした。
「何を押した!」
「安全だと思った! いや、違う。これ、回収だ。俺、回収を安全って読んだ!」
「止めて」
ミレアの一言が冷たく刺さる。
もう一度「停止」を押し込む。光柱は消えた。だが、北へ走った三度の明滅までは戻らない。
技能を得た喜びが、腹の底まで落ちて悔しさに変わった。読めるようになったのではない。三つの印に、自分で意味を当てただけだ。相手の命令を知ったつもりになれば、次はもっと大きなものを呼ぶ。
「ごめん。使えると思って、試す順番を飛ばした」
ヴァルカは怒鳴らなかった。だから余計に痛かった。彼女は泥へ落ちた小片を拾い、食料ではなく還流分の山へ置いた。
「小片一つ減った。水も減った。信号は出た。それが値段だ」
「うん」
「次から、読めた印を口に出せ。私とミレアが別々に確認する。二人が同じ意味だと言うまで押すな」
「それでも誤読するかもしれない」
ミレアが解体兵の赤い核を見たまま言う。
「だから、退路を空けてから試す」
「分かった。刻印は三人で確認。退路を先に作る。回収信号は、もう届いた前提で動く」
確認のため、俺は停止した解体兵から外れた小さな留め金へ、三つの印を一つずつ近づけた。回収では留め金が北へ引かれ、所有では赤い線が俺の表皮へ絡みかける。二つとも途中で切る。最後に、ヴァルカが形を読み、ミレアが魔力の向きを確かめた「停止」だけを触れさせた。
かちり、と留め金の震えが止まった。光柱は立たない。北へ信号も走らない。
「止まった……。今度は、本当に止まった!」
喜びで身体が膨らみ、すぐに自分で縮めた。一つ読めたからといって、文章が読めるわけではない。三命令の単純な形だけ。それでも、誤読して警報を鳴らした失敗を、確認して止める手順へ変えられた。
「食料は?」
「無事な分だけ一か所へ。素材は持てるものだけ。還流分は水路の奥へ流さず、入口から見えない窪みに置く。赤い魔核は俺が持つ。解体兵は止めたまま、命令核を抜かない」
ヴァルカが短くうなずいた。
「やっと作業の話になった」
俺たちは残りを数え直した。開始時は一食分と小片二つ。泥へ落ちて食べられなくなったのは小片一つで、還流分へ移した。だから食料は一食分と小片一つ。素材は黒牙片一、翼膜の端二、還流皿片三。赤い魔核一つは未捕食。最後の吸水石はない。旧寝床もない。水脈は一本喪失したまま。魔導解体兵一体は停止したが、所有刻印と回収信号は残っている。
HPは198/198から181/198へ、十七減少。魔力は342/342から281/342へ、六十一減少。レベル11、攻撃66、防御32、速度126、進化ポイント10。遠隔水流罠Lv2と飢餓感知Lv1は変化なし。新たに魔力刻印Lv1を得たが、読めるのは回収・停止・所有だけで、意味を誤る。
「食事、今にする?」
ミレアが残った小片を一つ、水で洗って俺の前へ置いた。
腹は食べろと叫んでいる。けれど北の通路から、今にも別の鎖が聞こえそうだった。
「この小片を半分ずつ。ヴァルカも食べて。一食分は逃げる時まで包んでおく」
「お前の分だろ」
「俺一匹で解体兵を止めたことにしたら、次も一匹でやらなきゃいけなくなる。三人分の勝ちなら、三人で食べる」
ヴァルカは断ろうとして、俺の焼けた背を見た。それから小片の半分を取る。俺も残り半分を包み込み、飲み込んだ。これで食料は、手をつけていない一食分だけだ。
「借りは増やさない。これは作業賃」
「はいはい。そういうことにしておく」
ミレアは食べない代わりに、残した一食分の包みへ薄い水膜をかけた。三人で同じものを守る形が、ようやくできた気がした。




