第28話 食べずに勝つ
中層水路域の下り側。切れた水脈が作った横穴は、深層入口へ戻る道より半区画ぶん下に口を開けていた。最深部へ近づいたというより、水に追い落とされた格好だ。
腹の底で、何も入っていない空洞がきゅう、と鳴った。
音は小さい。けれど、水脈を一本失った洞窟では、情けないくらい遠くまで響いた。
「今の、合図に使えるかな」
冗談のつもりだった。ミレアは笑わなかった。青銀の髪の先を、残った細い水へ浸したまま、俺の腹ではなく暗い横穴を見ている。
「使わないで。あれも聞いている」
「だよな。うん、知ってた。ちょっと場を和ませようとしただけ」
「和んでない」
ヴァルカが壁にもたれたまま言った。右肩に巻いた黒毛の帯へ、まだ薄く血がにじんでいる。槌を右で持ち上げようとして顔をしかめ、何も言わず左手へ持ち替えた。ミレアの声も、切った遠い水脈からは返ってこない。俺は合図を出す前に、一度だけ二人の顔を見た。
足元に、俺たちの全在庫を並べる。逆流が運んできた還流皿の破片が七片。残していた黒毛は一束だが、ヴァルカが三つの結び束へ分けた。翼膜は一枚分より少ない残りを、細い罠帯二本へ切った。最後の吸水石が一個。食料は、昨夜に残した四分の一切れ。指先ほどで、舐めても腹の足しにならない。赤い魔核は体内の奥へ隔離したまま。食べない。使わない。
「確認する。皿の破片は、全部使う?」
俺が尋ねると、ヴァルカの眉が上がった。
「珍しいね。勝手に決めないの」
「その言い方、傷より細く刺さるんだけど」
「まだ軽口が出るなら動ける。四片を水受け。二片を偽の継ぎ目。残り一片は退路の目印。全部は使わない」
「残すんだな」
「帰り道を食べる奴に、次の仕事はないよ」
俺は皿を分け直した。食料に回せるものはゼロ。素材は黒毛、翼膜、吸水石、皿片。還流へ戻す死骸は、横穴の先に散らばる小魔物の古い骨と皮が五つ。食べられる部分はもう腐っている。水へ返すには汚れが強すぎるが、匂いだけなら使える。
「ミレア。水は?」
「私が切った流れは戻らない。残りから出せるのは、四筋。一筋でも取られたら、退路の水が死ぬ」
「三筋で組む。最後の一筋は――」
「私が決める」
静かな声だった。それでも、昨日より近くで刃を突きつけられた気がした。
「……うん。ミレアが決めてくれ」
ミレアの髪から、張りつめていた水滴が一つ落ちた。
作戦は単純だ。単純でなければ、腹が空きすぎた俺が間違える。
三筋の水を別々の皿片へ流す。黒毛でグラトン自身の匂いをつける。翼膜は水を叩いて、生き物が逃げる音を作る。古い死骸を三方向へ散らし、最後の吸水石だけを中央に置く。
指先ほどの肉屑は、中央の吸水石へ貼った。飲み込めば一瞬だけ腹鳴りを止められる。けれど、囮に回せば全員の退路を作れる。食料ほぼゼロが、これで完全なゼロになった。
グラトンは全員が飢えている時に最も強くなる。なら、俺たちへ向いている飢えを、複数の水と死骸へ裂く。
「正面から倒すんじゃない。食べずに、餌場から追い出す」
「追い出したあと、追ってきたら?」とヴァルカ。
「俺が残る、とは言わない。三人で退く」
「誰かが倒れたら?」
「本人に聞く。聞けないなら運ぶ。俺一人で決めない」
ヴァルカはしばらく俺を見た。それから翼膜を張るための黒毛を歯で結び、短く息を吐いた。
「帰り道から作った。今度は、そこを忘れてないね」
胸の奥が少しだけ熱くなった。褒められた。たぶん。ヴァルカ語では、かなり褒められたはずだ。
低い擦過音が横穴から届いた。
黒い爪が岩を削る音。次に、湿った鼻が空気を吸う音。最後に、空洞そのものが唸るような腹鳴り。
グラトンが来た。
闇の中で、二本の黒牙が先に曲線を描いた。痩せた獅子の肩、狼の長い脚。肋骨が浮いているのに、鬣は熱を含んでゆらめいている。前より痩せた。前より大きい。矛盾した姿に、俺の核が縮む。
奴の額、その左右に伸びた短い角だけが、周囲の匂いへ合わせて脈打っていた。右が俺たちへ向く。左が水受けへ向く。そして、俺の腹が鳴ると、二本とも俺へ揃った。
俺の体は中傷、魔力も減っている。それでも、観察した事実は増えた。グラトンの二本の角は、餌と水と魔力を同じ方向へ欲しがる時には揃う。狙いを別々へ散らせば、首と足の判断がずれる。名前をつけるなら、あれは飢餓角だ。
そう考えた瞬間、右の角がこちらを向いた。
「まだ!」
ミレアの声が飛ぶ。
分かっていた。翼膜が二度鳴ってから起動する手順だ。なのに、グラトンがヴァルカへ頭を向けた。その口元に、昨日ついた血の匂いが届いたのだと思った。
「今だ!」
俺は一度目で水を放った。
一拍、早かった。
遠隔水流罠が床から立ち上がる。三筋のうち二筋しか揃わず、薄い水の輪はグラトンの前脚に触れただけで裂けた。奴は止まらない。吸収皮膜が水を腹側へ流し込み、熱い鬣が一段高く逆立つ。
グラトンの爪が右の皿片を砕く。俺は残った水を水刃へ変え、前脚の腱へ撃った。
刃は届く前に黒い皮膜へ滑り、壁へ突き刺さった。
「失敗した、退く!」
俺が叫ぶより早く、ヴァルカが翼膜の留め具を切った。膜が落ち、爪の軌道を半呼吸だけ隠す。ミレアは一筋の水を引き戻し、退路を濡らした。
「退く?」
ミレアが俺に決定を渡さず、問いとして置いた。
「あたしは続ける」とヴァルカが答えた。「罠帯を一本なくした。もう一本は持たせる」
「私も再合図を選ぶ。次は私の二回目まで待って」
俺だけが、喉のない身体で言葉を詰まらせた。二人は俺の早とちりを責める代わりに、自分の危険を自分で選んだ。怖かった。次も間違えて、その選択ごと壊すのが怖い。
「……分かった。次は待つ。絶対に」
グラトンが翼膜を噛み裂いた。食べない。吐き捨て、俺たちの血と空腹の匂いだけを探している。
黒牙が横薙ぎに迫る。
「滑れ!」
ヴァルカの声で、俺は水流滑走を起動した。
足元の薄水が弾け、身体が一直線に加速する。激流ワイバーンを食べた直後、同じ加速で壁へ突っ込んだ感覚が蘇った。あの時は止まれなかった。急旋回もできなかった。
だから曲がらない。
黒牙の下を真っ直ぐ抜け、正面の岩へぶつかる寸前、水刃を床へ突き刺した。反動で身体を縦に伸ばし、岩肌へべたりと張りつく。牙が背後を削り、石片が体内へ食い込んだ。
「核の横を持っていかれた! 次は笑えない、絶対に避ける!」
「比較して喜ぶところじゃない!」
ヴァルカの声が裏返った。怒っている。いや、怖がっている。俺がまた壁へ潰れると思ったのだ。
「助けた時の借り、まだ返してないんでしょ!」
「壁にぶつかった俺でも、止まり方は覚えた! 今度は誰も道連れにしない!」
「最後はいらない!」
その怒鳴り声で、恐怖が一瞬だけほどけた。
俺は壁から落ちながら偽装流を放つ。俺の体臭と腹鳴りを含んだ水を、左の死骸へ這わせた。グラトンの右角が俺を追い、左角が死骸を向く。首が迷い、爪が半歩遅れる。
「一回」
ミレアの声。
ヴァルカが最後の翼膜を引く。膜が水を叩き、右奥で獣が逃げるような音を立てた。
グラトンが跳ぶ。だが、音の先には何もない。奴は着地と同時に身体を捻り、騙された怒りで黒い尾を振り抜いた。
尾がヴァルカの足場を砕く。
「ヴァルカ!」
叫びかけて、止めた。勝手に運べば、また同じだ。
「退くか、残るか!」
「残る! この傷はあたしのだ!」
崩れた岩の上で、ヴァルカは片膝をついた。それでも最後の吸水石を杭代わりに打ち込み、黒毛の継ぎ目を固定する。
「継ぎ目が裂ける! 次の合図でやれ!」
「無茶な注文だな!」
「無茶を減らした結果だよ!」
「二回」
ミレアの再合図が落ちた。
俺は待った。今度こそ、翼膜の音、水の位置、グラトンの角、その全部が揃うまで待った。
「遠隔水流罠!」
三方向の皿片から水柱が立ち、黒毛を芯にして輪を閉じる。一度目より細い。だが、水は別々に動き、グラトンの四肢ではなく、二本の飢餓角の向きを交互に引いた。
罠へ新しい段が生まれた。遠くに置いた水を、同時ではなく、ずらして起こせる。
グラトンが吠え、吸収皮膜を膨らませた。水柱が腹へ引かれる。奴はまた水を奪って強くなる――はずだった。
「しないで」
ミレアが両手を握りしめた。残った水脈が細く震える。
「その水は、私が切る」
「退路がなくなる!」
「これは私の流れ。奪われる前に、私が切る」
声は静かなままなのに、目だけが燃えていた。俺を責めるためではない。自分の流れを、奪われる前に自分で使うための怒りだ。
ミレアが指を閉じた。グラトンへ吸われかけた一筋が途中で千切れ、水滴の群れになって床へ落ちる。奴の皮膜が空振りし、腹側が大きく窪んだ。
飢えに狂ったグラトンが、罠も死骸も捨て、俺へ突進する。二本の角が完全に俺を向く。速い。避けきれない。
怖い。
あの牙に挟まれたら、赤い魔核ごと食われる。ミレアの水も、ヴァルカが残した皿片も、俺が守ると言って失わせたものも、全部、何もなかったことになる。
「グルト!」
「中央を切って!」
二人の声が重なる。
俺は逃げなかった。水流滑走で一歩だけ横へ抜ける。急旋回はできない。だから、曲がる代わりに偽装流を中央の吸水石へ集めた。
グラトンの左角が吸水石を向く。右角は俺を向いたまま。首が裂けそうなほど左右へ引かれ、突進の軸がぶれた。
遠隔水流罠を右、左、右と時間差で起こす。角の向きがさらに開く。吸水石が悲鳴のような音を立て、砕けた。
「吸水石はこれで空! 流れを切ったら、刃を入れる!」
砕けた石が抱えていた水を一息だけ噴く。その細い流れを、俺は流路切断で断った。
切るのは太い水脈じゃない。生物の身体でもない。砕けた吸水石から左の飢餓角へ吸い上げられる、外側の細い水と魔力の道だけだ。
左角の吸収皮膜が空を吸い、根元の硬い輪がむき出しになる。
俺は退路の目印に残していた皿片を一つだけ引き戻した。黒毛の結び束で表皮へ固定し、魔材クラフトで反りのある短刃へ組む。刃先へ水刃Lv3を薄く重ねた。水だけなら流される。皿だけなら折れる。だから二つで、一点を噛む。
「クラフト刃――そこだ!」
一撃目で黒い火花が散った。二撃目で角の根元に白い亀裂が走る。グラトンが首を振り、俺の半身が床へ叩きつけられた。離せば、次はない。
「怖いに決まってるだろ! でも今だけは、俺の水を返せ!」
水刃の圧を刃の背から押し込み、三撃目を同じ亀裂へ滑らせた。
左の飢餓角が、根元から落ちた。
グラトンの牙が俺の身体をかすめ、その先端が床へ激突して欠ける。痛みが核まで走り、視界が白く弾けた。それでも俺は角だけを包み込む。肉へ広がらない。魔核を探さない。角に残った飢えの力だけを吸収する。
熱い。空っぽなのに、世界中の食べ物の匂いが一度に流れ込んでくる。
「う、ああああっ! 腹が減った! 俺はずっと減ってる! でも、おまえまで食べたら、俺はおまえと同じになる!」
グラトンが初めて後ずさった。片角になった頭を振り、右の死骸、左の水滴、中央の俺を順番に見る。どれにも決めきれない。飢えが一つの命令にならず、三方向へ引き裂かれている。
ミレアが残った水を細い壁にした。ヴァルカが取っておいた最後の皿片を、退路の暗がりへ投げる。硬い音が、出口の位置を示す。
「帰り道は残した」とヴァルカが言う。
「流れは塞がない」とミレアが続ける。
俺は震える身体を横へずらし、餌場から外へ続く一本だけを空けた。
「行け。ここは、俺たちが腹を減らしても、おまえに食わせる場所じゃない」
グラトンは低く唸った。右角が何度も俺を向く。そのたび、散った水と死骸の匂いへ引かれて揺れる。
やがて黒い巨体は、開けた横穴へ飛び込んだ。爪音が遠ざかる。最後まで走り、最後まで生きている音だった。
追わない。食べない。勝ったのに、俺の腹は空のままだ。
それが、ひどく嬉しかった。
「やった……やったぞ。俺、食べなかった」
「知ってる」
ミレアの返事は短かった。けれど、彼女の指が俺の表面へ触れ、すぐには離れなかった。
ヴァルカは座り込み、上がらない右肩を左手で押さえたまま笑った。
「そこを誇るんだ。食いしん坊なのに」
「食いしん坊だからだよ。食べるかどうかは、腹じゃなくて俺が決める」
「今のは、悪くない。かなり」
「かなり!? 格上げされた!」
「うるさい。傷に響く」
喜びで跳ねかけて、俺は止まった。先に怪我だ。先に在庫だ。勝った直後ほど、食べ物と素材を混ぜない。
戦場を三つに分ける。食料――今すぐ口へ入れられるものはゼロ。素材――落ちた黒牙片一つ、破れた二本の翼膜帯、割れた皿から拾えた三片。還流――腐敗した死骸五つと、吸水石の粉を含む汚れた水。黒毛一束は三つの結び束すべてを使い切った。赤い魔核は保留のまま。最後の吸水石は喪失。旧寝床は完全に使えなくなった。
ただし、腐敗死骸の一体だけ、甲殻の内側が冷えていた。外は腐っていても、密閉された腹部に未腐敗の肉が残っている。ミレアに洗浄水を一滴ずつ通してもらい、一食分と小片二つだけを食料側へ移した。食料ゼロから、ようやく「ほぼゼロ」へ戻った。
角を吸収した力が、核の周りで一気に膨らんだ。
身体の傷が閉じ、薄くなっていた膜が張り直される。水の一滴ごとの位置が、前より遠くまで分かる。遠隔水流罠は一斉起動しかできなかった段階から、複数地点を時間差で起こせる段階へ変わった。
Lv10→Lv11。HP104/164→198/198(現在値+94、上限+34)。魔力177/276→342/342(現在値+165、上限+66)。攻撃55→66(+11)。防御27→32(+5)。速度102→126(+24)。進化ポイント9→10(+1)。遠隔水流罠Lv1→Lv2。新技能、飢餓感知Lv1。
種族進化はしない。赤い魔核も食べない。
「新しい感覚、試す。食べられるものを探すだけ」
ミレアが俺と正面の岩壁の間へ水筋を一本置き、ヴァルカが翼膜帯を俺の背へ軽く掛けた。進み続ければ、水が切れ、帯が張る。二人の動きを見て、俺は一度だけ頷いた。
飢餓感知を開いた。
空間に、匂いとは違う引力が灯る。右奥の死骸が弱く、ヴァルカの血が細く、ミレアの水が冷たく光る。そして正面に、とてつもなく強い飢えがあった。
「見つけた。食料は正面――」
俺は、誰もいない岩壁へ飛びついた。
ごつん、と核まで響く。
「……壁だ」
ミレアが言った。
「見れば分かる!」
「止めたほうがいいね」とヴァルカ。
「はい、切った! え、待って。なんで壁がご馳走に見えたんだ?」
もう一度、技能を開かずに考える。正面から感じたのは、食料の存在ではなかった。俺自身の空腹が向かいたがっている方向だ。戦闘で削れ、勝った安心で抑えが緩み、何でもいいから満たしたい。その強さを、俺は本物の餌と誤認した。
「俺が空腹だと、囮と本物を見分けにくい。生き物が何を考えてるかも分からない。ただ、飢えがどっちへ引かれてるかだけだ」
「便利だけど、腹ぺこの君が使うと危ない」
「俺、だいたいいつも腹ぺこなんだけど」
「じゃあ、一人で使わないで」
ミレアの言葉に、俺はすぐ答えなかった。一人で決めないことと、何も決めないことは違う。技能を封じれば安全、とは限らない。次に必要になるかもしれない。
「使う前に、見えている物を二人に確認する。違ったら切る。これでどう?」
「再現できる手順ならいい」とヴァルカ。
「私も止められるなら」とミレア。
「決まりだ」
今度は、見えている食料で試した。ヴァルカが未腐敗の小片を皿片の裏へ隠し、ミレアが空の皿を反対側へ置く。俺は二人に位置を聞いてから飢餓感知を細く開いた。
最初は空腹そのものが両方を食料だと叫んだ。俺は慌てて閉じ、深呼吸の代わりに身体を三度縮める。二回目は「食べ物」を探さず、自分の飢えが強く引かれる向きだけを見る。皿の裏へ向く細い引力と、空の皿へ向く俺の期待を、ようやく別々に感じられた。
「右が本物。左は、俺があってほしいと思ってるだけ」
ヴァルカが皿片を上げる。小片があった。
「当たり」
「やった! 壁じゃない! ちゃんと食べ物だ!」
跳びつきかけ、ミレアの水筋が目の前で揺れたので止まる。場所を知ることと、食べていいことは別だ。飢餓感知は対象の正体も安全性も教えない。確認役がいなければ、次も壁へ抱きつく。それでも、失敗した技能を一度は手順へ戻せた。
黒牙片を素材の山へ置こうとして、俺は表面の傷に気づいた。
自然に欠けた跡ではない。三本の直線と、半円。ヴァルカが翼膜の血を拭い、指先でなぞる。
「人間が使う所有刻印だ。焼き鏝で入れてある。魔物の傷じゃない」
還流へ回す死骸の一つにも、同じ印があった。皮の裏側、見えない場所へ焼きつけられている。
「グラトンの欠けた黒牙と、ここの死骸に同じ印……誰かの持ち物ってことか?」
「分からない」とミレアが即座に止めた。「印が所有を示すとは限らない」
「そうだな。格好つけて謎を解いた顔をするところだった」
「調べるなら、触りすぎるな」とヴァルカ。「印は傷より厄介な継ぎ目になる」
俺は黒牙片と刻印つきの死骸を、食料にも還流にも入れず、第四の山へ分けた。
頭上の岩に、乳白色の薄膜が一瞬だけ開いた。白眼の観測膜だ。グラトンを追い払った俺たちを見て閉じ、その直後、下層から管理核の重い圧が一度だけ返る。獲物を倒しても、このダンジョンそのものには見られ続けている。
腹は空いている。寝床もない。水は減り、最後の吸水石も失った。
それでも、俺たちは三人とも生きている。グラトンも生きている。そして、食べるものと食べないものを、俺はまだ選べる。
暗い横穴の奥で、遠ざかったはずの黒い爪音が一度だけ止まった。




