第27話 水と仲間を分ける夜
中層水路域の崩落坑道。深層入口から二区画戻った場所で、割れた床の水だけが下層へ逃げ続けている。
水の落ちる音が、さっきより近い。
いや、違う。近づいているんじゃない。足元を流れていた水が、どんどん下へ逃げているんだ。
割れた還流皿の縁から細い滝が伸び、暗い縦穴へ吸い込まれていく。ミレアの青銀の髪も、水位と一緒に岩肌へ張りついていた。
「あと、どれくらい?」
「この流れなら、長くて半刻。下の水脈まで裂けたら、もっと短い」
ミレアの声は静かだった。静かすぎて、俺の核がひやりと縮む。
俺は身体の内側に抱えたものを確かめた。赤い魔核。激流ワイバーン幼体から分けた一枚未満の翼膜。乾かした肉は一切れ半。罠へ出さず残した黒毛一束。崩落材を削った楔。最後の吸水石が一個。どれも腹を満たすには少なすぎて、失うには大きすぎる。
「食料、素材、退路。全部、薄いね」
ヴァルカが割れた皿を槌の柄で叩いた。乾いた音が一度だけ返る。
「俺は厚いよ。ぷるぷるだけど」
「そういうの、今はいらない」
「はい」
格好つけてる場合じゃない。けれど怖いと、口が勝手に軽くなる。腹の奥は重かった。グラトンに罠の水を丸ごと食われた失敗が、まだ魔力の穴になって残っている。
そのとき、上の通路で岩が鳴った。
一つ。二つ。三つ目だけが、低い。
「来る」
ミレアが顔を上げる。
黒い前脚が、素材置き場へ続く右の通路に現れた。同時に、水源へ続く左の流れが逆巻く。グラトンは右にいる。なのに左からも、濡れた岩を爪で引っかく音がした。
「二匹?」
「違う。水を逃がして、音を回してる」
ヴァルカが翼膜を背負い、楔を二本つかむ。
俺たちが罠で優先順位を測ろうとしたように、あいつも俺たちを測っている。水源と素材。どちらへ誰が走るか。何を捨てられないか。
「ミレアは左。ヴァルカは右。俺は真ん中から両方を見る。危なかったら石を三回鳴らして」
ミレアが足元の石を、こつ、こつ、こつ、と鳴らした。俺は言葉を挟まず、水刃をほどいて一歩下がる。
「今のでいい」
胸に刺さった。でも、昨日なら確認を求めていた一拍を、今日は退く動きへ変えられた。俺は頷き、二人が別々の通路へ入るのを見送った。
一歩下がった場所で、俺は水刃を細い一本に作り直した。二方向へ同時に撃てば、どちらも薄くなる。さっきまでなら「両方守るため」と言い訳して続けていた。今は合図を受けた瞬間に出力を半分へ絞れた。
「止まれた。……痛いけど、ちゃんと止まれたぞ、俺」
嬉しさは小さかった。けれど、その小ささが大事だった。命令を聞けるようになったからといって、二人の危険を見分ける力まで手に入ったわけじゃない。残る仕事は、選択を奪わず、必要な一手だけを出すことだ。
水流を薄く広げる。左にはミレアの足音。右にはヴァルカの槌。正面には、見えないまま近づく空腹の熱。
最初に動いたのはグラトンだった。
右の暗がりから黒牙が振り抜かれ、素材棚の脚を砕く。ヴァルカは翼膜を抱えて転がり、楔を岩の継ぎ目へ打ち込んだ。
「一つ目!」
槌音が響く。
同時に左で水が爆ぜた。水源の細流へ黒い鬣が触れ、流れが細くなる。
「え、待って。そっちにも届くのかよ!」
俺は真ん中から水刃を二つ放った。一つは牙へ、一つは鬣へ。だが、二方向へ薄めた刃はどちらも浅い。牙の表面に白い筋をつけ、鬣を数本散らしただけだった。
グラトンの尾が岩を叩く。右の床が沈んだ。
「二つ目!」
ヴァルカの声。まだ三つ目ではない。まだ持つ。俺はそう考えた。
左ではミレアが両手を流れへ沈め、吸われる水を引き戻している。青銀の髪がぴんと張り、一本ずつ千切れそうに震えていた。
「グルト。こっちは私が選ぶ」
「分かった。三つ目で退く!」
「そうじゃない」
分かっているつもりだった。けれど俺は、二人とも守れる瞬間を探していた。三つ目が鳴る前にグラトンを押し返せば、水も素材も仲間も残せる。欲張りなのは腹だけで十分なのに、判断まで欲張った。
俺は水流滑走を起こした。
激流ワイバーン幼体の魔石だけを吸収して得たばかりの技能。翼膜と肉は胃袋に保存したままだ。直線なら速い。けれど最初の試験では、止まれず壁へ正面からぶつかった。
「曲がるな。止まるな。右まで一直線!」
自分へ言い聞かせ、残る水を腹の下へ集める。身体が弾かれた。岩壁が線になり、ヴァルカの背後へ回った黒牙が一気に迫る。
間に合う。
そう思った瞬間、グラトンが素材棚を蹴った。
翼膜ではなく、その奥の乾燥肉が宙へ舞う。匂いが広がった。空腹で核が勝手にそちらを向く。ほんの一拍、滑走の軸がずれた。
「見るな、馬鹿!」
ヴァルカが俺を突き飛ばす。
黒牙が彼女の肩をかすめ、岩壁へ叩きつけた。布が裂け、その下から赤い血が流れた。
「ヴァルカ!」
俺は壁に衝突し、身体の半分が潰れた。自分で自分を岩へ投げるなんて、我ながら間抜けすぎる。けれど、俺より彼女だ。
「三つ目!」
槌ではなく、ヴァルカの叫びが合図になった。
俺は水刃を黒牙へ叩きつけた。グラトンが首を引く。ヴァルカを包んで逃げようとする。右の素材も抱える。左の水源にも水を送る。
全部だ。今度こそ、全部――。
「グルト、離して!」
ヴァルカが俺の身体を拳で殴った。
「でも、血が!」
「足は動く。肩はあたしの損失だ。あんたが決めるな!」
怒鳴られた言葉で、俺の動きが止まる。
その背後でグラトンが身を沈めた。鬣の熱が増し、吸収皮膜が黒く膨らむ。俺の空腹、ヴァルカの空腹、細い水脈へ力を注ぎ続けるミレアの渇き。三つが同時に強くなった瞬間、あいつの巨体が一回り大きく見えた。
鬣の奥の二つの瘤が、今度は短い角の形まで伸びた。俺とヴァルカの空腹に、ミレアの水脈が魔力を失う渇きまで重なった瞬間だ。黒い皮膜も脚も牙も、まとめて一段膨れた。
「肉だけじゃない。ミレアの魔力不足も腹減り扱いだ! 三人ぶん重なった時だけ、こいつは最大になる!」
「説明は走りながら!」
ヴァルカが楔を投げる。俺は受け取り、右の通路を支える継ぎ目へ差し込んだ。水刃で頭を叩く。一打目では浅い。二打目で楔が食い込み、三打目で棚が傾いた。
グラトンが棚を避ける。その隙にヴァルカが自分の足で立った。
「翼膜は持つ。囮の一切れは捨てる」
「食料を?」
「あたしが決めた。次の罠に要るのは膜だ」
ヴァルカは一切れ半の肉を、最初から分けていた。一切れは匂いの強い囮。残る半切れは、二人で食べる八分の一切れを二つと、次の囮へ残す四分の一切れに切り分け、別袋で背へ縛っている。グラトンは床へ落ちた一切れの囮に飛びつかなかった。鼻先で弾き、こちらへ寄越す。食べろ、とでもいうように。
腹が鳴った。
あいつは肉が欲しいんじゃない。俺たちの空腹が欲しい。
二手に分けられ、合図を遅らせ、ヴァルカが傷を負った。今度は食料そのものまで罠にされている。
「食べたら、あいつの力が落ちるかもしれない」
「その一口の間に噛まれる」
ヴァルカの呼吸が荒い。右腕が上がらない。それでも彼女は俺の陰へ入らず、自分で後退する足場を選んだ。
「じゃあ、肉を水へ流して時間を――」
「しないで」
左からミレアの声が届いた。
振り向くと、水源側の岩床に黒い亀裂が走っていた。グラトンが逃がした水が亀裂を押し広げ、ミレアの細い流路を二つに裂こうとしている。彼女は膝まで水へ沈み、両腕で見えない綱を引くように流れを支えていた。
「肉を流せば、汚れが傷へ入る。流れが死ぬ」
「なら俺がそっちへ行く。ヴァルカ、そこから下がって!」
「待たない」
「え?」
「待たなくていい。自分で下がる。あんたはあたしを運ぶな」
まただ。俺は助けると言いながら、相手がどう助かるかまで決めようとしている。
崩落坑道で、最後の骨片を支えにしてヴァルカを救った。あの時は、三回目の槌音が鳴らなかった。だから俺が選ばなければ、彼女は岩の下で死んでいた。
でも今は違う。ヴァルカは立っている。ミレアは話している。二人とも、自分が失ってよいものと、失いたくないものを選べる。
怖かった。
選ばせて、その結果二人が傷ついたら。離れていったら。俺が守らなかったせいだと思うんじゃないか。
けれど、もうヴァルカは俺の判断で傷ついている。
「……分かった。ヴァルカ、自分で退路を選んで。俺はグラトンの鼻先をこっちへ向ける」
「二呼吸でいい」
「そこ、値切るところ?」
「一呼吸はミレアに回しな」
痛みに歯を食いしばりながら、ヴァルカが笑った。ほんの少しだけだったが、それで俺の核に熱が戻る。
「ミレア。何を残す?」
今度は、俺が決めずに聞いた。
ミレアは亀裂と、その先の暗い水路を見た。髪の先が流れにほどけ、青い光が一筋ずつ遠ざかっている。
「近い流れを残す。遠い声を切る」
「切ったら、長距離の通信は?」
「しばらく届かない」
「戻せる?」
「分からない」
短い返事。その最後だけが、かすかに震えた。
俺は「やめろ」と言いかけた。ミレアがこちらを見る。その目にあるのは助けを待つ色じゃない。選んだ人の色だ。
「……俺にできることは?」
「黒いのを、流れが切れるまで」
「時間は?」
「できる?」
「やる。水音が変わったら逃げる」
ヴァルカは答えず、翼膜を巻いた左腕だけで槌を構えた。その構えが、任せるという返事だった。
グラトンが肉を踏み潰して跳ぶ。
俺は水刃を牙の付け根へ放つ。黒い皮膜が水を吸う。予想どおりだ。吸われる前に刃をほどき、足元へ散らす。
グラトンの前脚が俺を裂く。身体が二つに割れかけ、痛みで視界が白くなった。けれど散らした水は残る。
「まだ! 足元を上げる!」
遠隔水流罠で前脚の下だけを持ち上げる。一拍しか止まらない。それでいい。ヴァルカが楔を蹴り、傾いた棚を完全に倒す。
グラトンは翼膜へ伸ばした牙を引き、落石を避けた。素材側の道が塞がる。ヴァルカは翼膜と黒毛、最後の吸水石を抱え、細い横穴へ滑り込んだ。
「通れた!」
そこでグラトンが俺ではなくミレアへ向いた。
「そっちは駄目だ!」
怒りで身体が熱くなる。両方を守るためじゃない。ミレアが選んだ時間を奪わせないために、俺は残る水を一本へ絞った。
水刃が鬣を裂く。黒毛が飛ぶ。グラトンの尾が俺の核をかすめた。身体が壁へ叩きつけられ、魔力がごっそり抜ける。
「ミレア、今だ!」
ミレアが自分の髪をつかんだ。
いや、髪じゃない。遠い水脈へつながる青い一筋だ。
「ミレア!」
「私が、切る」
彼女は自分の手で、その流れを引きちぎった。
音は小さかった。細い氷が折れたような、乾いた音だった。
けれど次の瞬間、水路全体が身をよじった。切られた水脈から逆流が噴き、亀裂を押し開く。俺たちの背後に、ひと一人とスライム一匹が通れるだけの退路が生まれた。
同時に、いつも遠くまで響いていたミレアの気配が消えた。
「走って!」
俺は滑走を使わなかった。止まれず、誰かを押し潰すかもしれない。潰れた身体を引きずり、グラトンへ偽装流を一筋だけ投げる。空腹の音を右へ流す。
グラトンの頭が一瞬だけそちらを向いた。自分の腹の音までは隠せない。だから一瞬でいい。
ヴァルカが先に横穴へ入り、自分で足場を確かめる。ミレアは切れた流れを振り返らず、その後へ続く。俺は最後に、捨てると決めた一切れだけの囮包みを蹴り、反対側へ転がした。ヴァルカの背にある別袋には、八分の一切れが二つと、四分の一切れの囮が残っている。
黒牙が俺の背後で閉じた。
ぎりぎりで横穴へ滑り込む。牙先が身体を削り、透明な欠片が散った。痛い。悔しい。けれど、まだ動ける。
ヴァルカが残った腕で俺をつかみ、ミレアが足元へ水を送る。二人に引かれて、俺は狭い割れ目を抜けた。
背後でグラトンが吠えた。巨体では横穴へ入れない。それでも爪を差し込み、岩を削る。俺たちは止まらず、三つ角を曲がった先の乾いた窪地まで逃げた。
水音が遠のく。
誰も、しばらく話さなかった。
ヴァルカの肩へ、ミレアが残った近い水脈から薄い水を巻く。血は止まり始めたが、右腕は垂れたままだ。
「ごめん」
俺が言うと、ヴァルカは眉をしかめた。
「何に?」
「合図を遅らせた。両方守れると思った。ヴァルカの肩も、ミレアの水脈も、俺が守るものだって勝手に決めた」
「肩を斬ったのはあいつ。合図を遅らせたのはあんた。混ぜるな」
「うん」
「それと、救われた借りは消えてない。でも借りがあるからって、怪我の仕方まであんたに決めさせない」
「うん」
「二回言わせるな。材料が泣くよ」
「俺、材料扱い?」
「今のあんた、だいぶ欠けてるからね」
ヴァルカの口元が少し上がった。怒っている。でも、離れてはいない。そのことに安堵して、俺は笑いそうになった。笑って済ませてはいけないから、身体を低くして頭を下げる。
「次は、合図を聞いてから守り方を変える。止めるって決めた人を、説得して残らせない」
ミレアが俺を見る。
「私の流れも?」
「ミレアの流れだ。惜しいし、切ってほしくなかった。でも、それを決めるのはミレアだ」
「……そう」
彼女は目を伏せた。いつもなら水脈の向こうから返る微かな反響が、今夜はない。
「怖くないの?」
「怖い」
ミレアは即答した。
「遠くが聞こえない。戻せるかも分からない。だから、私が選びたかった」
その一言が、俺の核の奥へ沈んだ。
「俺も怖い。二人に選ばせたら、二人とも俺から離れるかもしれないって」
「離れる時も私が決める」
「そこは、もう少し優しく言ってほしかった」
「今は離れない」
短い声だった。なのに、失った水脈の暗さの中で、その言葉だけが温かかった。
ヴァルカが保持用の乾燥肉袋を逆さにする。八分の一切れが二つと、次の囮へ残した四分の一切れが掌へ落ちた。
「食べる。あたしとグルトは」
「でも、明日の分が」
「全員が飢えてる時にあいつが最大になる。腹を満たすのも防具だ」
俺は小さい二つの欠片を見た。俺なら一息で全部食べられる。けれど八分の一切れだけを取り、もう一つをヴァルカへ押した。四分の一切れは包み直す。次にグラトンの鼻をずらすための、最後の食料だ。
「素材は翼膜、黒毛、最後の吸水石。赤い魔核は食べない。崩落材の楔は使い切った。食料は四分の一切れ。俺たちの飯じゃなく、次の囮だ」
「還流皿の残骸もある」
ミレアが言った。
「戻るの?」
「取りに戻るんじゃない。流れがここへ運ぶ」
遠い水音に、硬いものがぶつかる響きが混じった。割れた皿の破片が、切った水脈の逆流に押されて近づいている。
ヴァルカが翼膜を広げ、裂け目を確かめる。
「膜は生きてる。黒毛は匂いを散らせる。吸水石は一回。皿の残骸で流れを分けるなら――」
「グラトンの空腹を、一か所に集めない」
俺は答えた。
正面から殴り勝つ力はない。俺たちの腹は空で、水脈は一本減り、ヴァルカは負傷している。それでも、あいつが何で最大になるかは分かった。
そして今度は、誰か一人が全部を決めない。
「次の合図、俺が早まったら?」
「私が止める」
ミレアが言う。
「止まらなかったら?」
「あたしが槌で曲げる」
ヴァルカが答える。
「それ、俺を?」
「手順を」
「一瞬、本気で怖かったんだけど」
「怖がってな。勝手に決めない程度には効く」
俺とヴァルカが乾いた肉を噛む横で、ミレアは残った清水を掌へ集め、細い光として体へ戻した。ウンディーネにとっての飢えは固形物ではなく、水脈の魔力が欠けることらしい。二人の腹と一人の水がわずかに満ちると、グラトンの鬣から感じた圧が遠のいた。
食べることは、ただ満たすことじゃない。誰が食べるか、何を残すか、何を失うか。それを自分で選ぶことだ。
俺は欠けた身体を寄せ集め、暗い水路の先を見た。
「よし。次は食べずに勝つ」
ミレアが静かに頷き、ヴァルカが槌の柄を握り直した。
その夜、俺たちは水と素材を分けた。




