第25話 武器にしない最後の骨
黒牙の足音が、まだ腹の奥で鳴っていた。
中層水路の横枝から南へ逃げ、斜め上へ折れた崩落坑道の割れ目へ身をねじ込んで、俺はようやく止まった。深層入口より一段上へ戻った形だ。最深部からは遠ざかったが、グラトンの肩幅では通りにくい。体の端が欠け、核の周りまで鈍く痛む。Lv9、HP89/134、魔力116/218。寝床も還流皿も置いてきた。食料はない。棚へ出していた素材もない。守れたのは、飲み込まず体内に包んだ赤い魔核と、最後の骨片ひとつだけだ。
勝てなかった。
水刃も罠も偽装流も、黒牙飢獣グラトンには読まれた。思い出すたび、悔しさで体が熱くなる。だが、怒って戻れば、今度こそ食われる。
「よし、まだ動ける。格好つけてる場合じゃない。まず逃げ道、次に食べ物――できれば同じ方向にあってくれ」
体を低くして進んだ時、坑道の奥で鉄の音がした。
がん。
少し間を置き、もう一度。
がん。
俺は足を止めた。一定の間隔。石が勝手に落ちる音じゃない。三回目を待つ。
来ない。
「……二回で力尽きた、とかじゃないよな」
呼びかけようとした瞬間、崩れた岩の向こうから、掠れた声がした。
「聞こえてるなら……返事より、上を見ろ。継ぎ目が死んでる」
ぶっきらぼうな言い方を、俺は覚えていた。
「ヴァルカ?」
「その声。無茶をする素材食いか」
「再会一言目がそれ?」
「当たってるなら黙って見ろ。右の岩、三呼吸も持たない」
見上げる。天井を斜めに走る亀裂から砂が落ち、右側の大岩がゆっくり沈んでいた。その奥にヴァルカがいる。姿は見えないが、鉄槌の柄らしいものが岩の隙間から突き出ている。
俺は最後の骨片を体内から出した。守護者から得た、細くて硬い骨。刃にすれば、グラトンに追いつかれた時の一手になる。今の俺に残った、唯一のまともな武器だ。
「その骨、刃にする気?」
「追っ手が来たら、丸腰は怖い」
「なら行け。あたしを掘れば天井が落ちる。二人まとめて潰れるよりまし」
「いや、それは――」
「助けるって言うな。持つ材料も手順もない奴の言葉は、杭より軽い」
胸の奥を刺された。俺はヴァルカを危険へ巻き込むのが怖いんじゃない。もう危険の中にいる彼女を、助けるふりでさらに潰すのが怖いのだ。
だから、言い返す代わりに観察した。右の大岩を抜けば落ちる。だが、その下の細い隙間へ骨を横に噛ませれば、荷重を左の岩へ逃がせる。刃にはならなくなる。回収も、おそらくできない。
「助ける、は言わない。骨を一本、ここで使い切る。俺が右を押す。ヴァルカは三呼吸で抜ける。無理なら一呼吸目で中止って言って」
岩の向こうが黙った。
「……骨の向きが逆。細い方を奥へ。太い節を手前の割れに掛けろ」
「これで?」
「まだ。下に小石を二つ。骨だけに荷を食わせたら折れる」
「素材を食べるのは俺だけでいいってことね」
「口を動かす暇があるなら手を動かせ」
言葉は冷たいのに、声にはわずかに力が戻っていた。
俺は小石を押し込み、骨片を継ぎ目へ差した。きし、と骨が鳴る。俺が右の大岩へ体を広げ、全身で押す。
「今!」
「早い。まだ荷が移ってない!」
ヴァルカの制止と同時に骨が滑った。大岩が指一本分ほど沈み、俺の体が押し潰される。痛みが核まで走った。
「ぐえっ、核まで平たくなる! でも分かった。俺が焦ると骨が逃げる!」
「笑うな。次はあたしの槌音に合わせろ。一つで押す。二つで止める」
「三つ目は?」
「あたしが抜けた音だ」
俺は骨を拾い直し、今度は太い節を割れへ深く掛けた。がん。一打目で押す。がん。二打目で止める。骨が弓なりにしなり、天井の荷重が左へ移った。
三回目。
がん、と鉄槌が床を叩き、岩の下から煤けた腕が出た。続いて灰色の髪、革の前掛け、傷だらけの顔。ヴァルカは片脚を引きずりながら隙間を這い出した。
「抜けた!」
「浮かれるな。骨が泣いてる。ゆっくり退け」
俺たちは一歩、二歩と後退した。三歩目で骨片が砕け、大岩が落ちた。轟音と砂煙が坑道を埋める。
最後の武器はなくなった。
それでも、砂煙の隣でヴァルカが息をしている。胸に広がった安堵は、空腹より温かかった。
「最後の骨を刃にせず、荷を逃がす方へ使った。その判断は悪くない」
「もっと喜んでいいんだよ?」
「骨一本で退路を一つ潰した。収支はまだ赤字だ」
「はい、職人さんは厳しい」
その時、足元を冷たい水が走った。
さっきまでは湿っているだけだった坑道へ、濁流が一気に流れ込んでくる。上流で何かが壊れたのだ。水には腐った苔の匂いと、獣の血の匂いが混じっていた。
ヴァルカが鉄槌を構える。しかし片脚が震えた。
「下がって。戦える脚じゃない」
「あんた、武器がないだろ」
「水はある。黒牙よりは、たぶん話が通じる」
「魔物相手に何の話をする気だ」
答える前に、上流の闇が裂けた。
薄青い翼が水面を切り、濁流の上を滑ってくる。四肢は細いが、翼膜は水を抱えて膨らみ、尾の一振りで飛沫が刃のように散った。幼い体つきなのに、爪は俺の核まで届きそうな長さだ。腹を空かせた喉がひくつき、視線がヴァルカの傷口で止まる。
まず兆候。濁流に逆らわず滑空。狙いは負傷者。俺は前へ出た。
一瞬だけ鑑定を向ける。激流ワイバーンの幼体。水を翼膜へ取り込み、地面すれすれを高速で滑る亜竜だ。旋回時は尾で流れを掻き、獲物の退路を崩す。翼膜が乾けば速度は落ちるらしい。いまは飢え、右翼の裂傷に興奮している。数字を並べ直す余裕はない。右の翼を庇う動きと、尾が水へ入る瞬間だけ覚える。
「ヴァルカ、岩陰へ。これは俺がやる」
「一匹で?」
「二人でやったら、あいつは弱ってる方へ来る。俺が三回試す。駄目なら一緒に逃げ方を考えて」
「……三回だ。四回目はない」
激流ワイバーンが翼を伏せた。濁流がその腹の下へ集まり、青い塊が矢のように迫る。
正面から、まず水刃を放った。
水の刃は胸へ届く直前、膨らんだ左の翼膜に掬われた。軌道が上へ逸れ、天井を浅く削る。亜竜は喉を震わせて短く吠え、俺の横をすり抜けざま、尾で濁流を叩いた。
「うわっ!」
足場が消え、俺は転がった。爪が背を掠め、体表が裂ける。
「正面から水をやるな! あいつの翼が食う!」
「見た! 左で受ける時、裂けた右が下がる!」
「なら右へ回れ!」
「それが速すぎるんだって!」
怖い。さっきの黒牙と同じだ。攻撃が通らない記憶が、体を縮ませる。だが違う。こいつは俺を見ている。攻撃へ反応し、傷を庇った。試せる。
正面が駄目なら、狙う向きをずらす。俺は崩落材の細い板を二枚、濁流へ浮かべた。片方へ自分の匂いをこすりつけ、もう片方の陰に身を沈める。
「それ、三呼吸も持たないぞ」
「一呼吸でいい!」
亜竜が匂いの板へ飛びついた。爪が板を砕く。一呼吸。その隙に俺は右へ回り、水刃を放つ。
だが尾が先に動いた。濁流が横からぶつかり、水刃は翼の端を浅く裂いただけで壁へ消えた。亜竜は痛みに首を反らし、甲高く鳴く。怒りで翼膜の血管が膨らみ、今度は板ではなく俺だけを見た。
「浅い!」
「でも右へ寄った!」
「次で決めろ。下流は行き止まりだ!」
残る一回は、逃げるふりに使った。濁流に押されるまま、落盤で斜めに突き出した石柱の手前まで下がる。背後は壁。止まれば爪、避ければ壁へ衝突する。
「え、待って。これ、俺がやるの? いや、俺が決めたんだけど!」
「今さら泣くな! 右へ半身!」
「半身って、俺だいたい全部身なんだけど!」
激流ワイバーンが翼を畳んだ。怒りで狙いがまっすぐになっている。水面が一本の溝になり、その中央を嘴が迫る。
俺は最後まで引きつけた。
「今!」
ヴァルカの声で、体を右へ潰す。同時に石柱の根元へ水刃を撃った。
亀裂が走る。崩落材が落ちる。俺の左端を爪が抉ったが、亜竜は急には曲がれない。折れた石柱へ胸から突っ込み、裂けた右翼が岩の間へ挟まった。
それでも首がこちらへ伸びる。嘴が体表を噛み、熱い痛みが走った。
「口を開けたな――そこなら水を逸らせない!」
俺は逃げず、開いた口へ水刃を押し込んだ。
水刃が喉の奥で弾けた。亜竜の翼が激しく水を打ち、濁流が一度だけ逆巻く。爪が床を掻き、石に白い筋を残す。やがて尾から力が抜け、薄青い翼膜が水面へ沈んだ。
しばらく、俺は動けなかった。
「……終わった?」
「ああ。息も、水を掻く反応もない」
「勝った?」
「あんたが一人で仕留めた」
その言葉で、やっと体が震えた。怖かった。黒牙に負けた直後だから、なおさら怖かった。それでも三回観察して、三回目を自分で選べた。嬉しさが込み上げ、俺は死骸の上へぺたりと広がった。
「よかった……。もう一回は絶対無理」
「なら、動けるうちに分ける。肉は?」
「食料。全部は食べない。翼膜は素材。魔石だけ吸収する」
「赤い核は?」
「食べない。これは保留のまま」
ヴァルカは一瞬だけ俺を見て、それから鉄槌の細い先で解体線を引いた。
「胸肉は水に浸けるな。腐る。翼膜は裂け目から切れば長く取れる。魔石は喉の下だ」
「手伝ってくれるの?」
「借りの勘定をしてるだけだ」
俺は胸肉を四食分に分け、食料として乾いた崩落板の上へ積んだ。左右の翼膜は根元から外し、大きな膜を二枚、素材として別々に丸める。右の膜はきれいに取れたが、左の膜には水刃で裂いた長い傷が残り、使える面積は一枚に満たない。骨や爪まで欲しかったが、持てる量と追っ手を考え、今回は置いていく。食べ物と素材を混ぜない。赤い魔核は体内の奥へ戻す。最後に、小さな青い魔石だけを包み込んだ。
冷たい力が核へ流れ込む。翼が水を掴んだ感覚と、濁流の上へ体を預ける感覚が重なった。
Lv9からLv10へ上昇。
HP上限134→164(+30)。現在HPも164/164へ回復。
魔力上限218→276(+58)。現在魔力も276/276へ回復。
攻撃45→55(+10)。防御22→27(+5)。速度81→102(+21)。
進化ポイント8→9(+1)。
新技能、水流滑走Lv1を獲得。
「水の上を滑れる。あいつみたいに」
「試すなら荷物を置け。直線だけ。壁まで十二歩」
「分かってる。速さを見るだけ。危なければ止まる」
「何で止まる?」
聞かれて、俺は黙った。
「……気合い?」
「その技能、三呼吸も持たないどころか、一呼吸であんたを壊すぞ」
「でも初回確認は必要だ。短くやる。壁まで十二歩なら、三歩だけ」
肉と翼膜と赤い魔核を乾いた高所へ置く。浅い水へ腹をつけ、流れを体の下へ集めた。
「行くよ」
「待て。止め方を――」
水が弾けた。
景色が後ろへ飛ぶ。一歩、二歩、三歩。速い。嬉しい。これなら黒牙の横へ回れる――そう思った時には、もう八歩目だった。
「止まれ、俺! 止まれって!」
体の下の水を切る。切ったのに、勢いが消えない。曲がろうと右へ重心を寄せると、体だけが横に伸び、進路はまっすぐのままだ。
「左へ倒れろ!」
「どっちの左!?」
「あたしから見て右!」
「それ俺の左!」
十二歩目。壁が全部になった。
べちゃり、と俺は正面から衝突した。
少し遅れて、潰れた体が床へずり落ちる。痛みはある。だがレベル上昇直後の体は壊れていない。ヴァルカが片脚を引きずって来て、俺の横でしゃがんだ。
「直線加速はできた」
「うん」
「急停止はできない」
「うん……」
「急旋回もできない」
「はい……」
「乾いた床には、そもそも乗せる水がない」
「もう勘弁して」
それでも、壁へぶつかったまま終わるのは悔しい。俺は水を一歩ぶんだけ腹の下へ集め、今度は発動前から身体の後ろ半分を岩へ広げた。
「一歩だけ。滑って、すぐ張りつく」
水が弾ける。身体が前へ出る。そこで後ろ半分を床へ吸いつかせると、二歩目へ入る前に止まれた。勢いで前端がぷるんと揺れたが、壁には届かない。
「止まった! 見た? 今、俺、自分で止まった!」
「一歩ならね」
ヴァルカの容赦ない答えにも、嬉しさはしぼまなかった。直線加速は使える。短距離なら止まれる。長く滑ればまだ壁の餌食だ。できる範囲が、ようやく一本の手順になった。
ヴァルカは俺の体表を指で押し、裂けがないことを確かめた。それから、ほんの少し口元を緩めた。
「失敗を隠さず、手順へ戻せるなら、その材料も泣かずに済む」
「褒めた?」
「評価しただけだ」
「同じじゃない?」
「違う。あたしは仲間になるとは言ってない」
その一言で、浮かれかけた気持ちが静まった。俺は壁から体を剥がし、彼女へ向き直る。
「じゃあ、どうする?」
「あんたはあたしを落盤から出した。あたしは、あんたが肉と素材を運べる退路を作る。借りを返すまでの共同作業。それだけだ」
「終わったら離れる?」
「あたしが決める。途中でも、材料を無計画に捨てるなら離れる。勝手にあたしの役目を決めるなら、その場で中止する」
断られる怖さが、少しだけ胸を締めた。助けたのだから一緒に来てほしい――そんな勘定を、俺は知らないうちに持ちかけていたのかもしれない。
「分かった。借りが終わる時はヴァルカが言って。中止も、ヴァルカが決めていい」
「借りの終わりを、あたしに残した。それなら手順を続けられる」
「それ、今日二回目だ」
「一回目よりは評価が上だ。壁に突っ込んだ分、減点したが」
「上なのか下なのか、どっち!?」
坑道の奥から、低い振動が伝わった。
黒牙の足音かもしれない。あるいは濁流で崩落が続いているだけかもしれない。どちらにせよ、ここへ長くはいられない。
俺たちは持ち物を並べた。食料は激流ワイバーン幼体の胸肉四食分。素材は大きな翼膜二枚――無傷の一枚と、使える部分が一枚未満の裂けた一枚――それに、退路へ使える崩落材。赤い魔核は保留のまま俺が保持。魔石は吸収済み。最後の骨片は支えとして砕け、在庫から消えた。
ヴァルカが翼膜を巻き、俺が肉を体の上へ載せる。今度は滑らない。歩く。速さより、落とさないことを選ぶ。
「グラトンって黒牙が、この先の水場と寝床を奪った」
「勝てるのか?」
「今は無理。でも、何を食べて、何を食べないかは見たい。罠を作るなら、俺は順番を考える。ヴァルカは材料が持つか決めて」
「共同作業の範囲ならな。無理な時は止める」
「うん。俺も、止まれない技能は先に止め方を考える」
「それを壁にぶつかる前に言えれば満点だった」
俺は肉を落とさないよう、ゆっくり振り返った。
Lv10。HP164/164、魔力276/276、攻撃55、防御27、速度102。進化ポイント9。水流滑走Lv1は、直線では速いが、急停止と急旋回が苦手で、乾燥地では使えない。
武器にするはずだった最後の骨はない。代わりに、生きて歩く一人と、次に試せる翼膜がある。
借りが終わるまで。それ以上を、俺が勝手に決めてはいけない。




