第24話 飢えを飼う黒牙
戻り水が、止まった。
細い水路の底で揺れていた藻が、ぺたりと石へ伏せる。水がなくなったわけじゃない。還流皿から寝床へ巡るはずの流れだけが、何かに怯えたように壁際へ逃げたのだ。
ここはまだ中層水路域の横枝だ。最深部へ下る入口は一つ下流の区画、その入口から見れば俺たちは上へ戻り、横へ逃げ込んでいる。進んではいない。せめて生きて、下り道をもう一度選べる状態を守るしかない。
俺は赤い魔核を抱えたまま、体を低くした。腹の奥が、きゅう、と鳴る。昨日口にできたのは、洞魚の小さな端だけ。残っている食料は、洞魚一切れと水甲虫の脚肉一つ。素材棚には青い甲殻一枚、丈夫な鱗四枚。背骨一本は傷ついた還流皿の縁にある。最後の守護骨片一個は、赤い魔核から離して体内の奥へ隔離した。
数えると余計に腹が減る。けれど、数えないともっと早く死ぬ。
「え、待って。今の俺の全財産、噛まなくても飲める量じゃない?」
冗談を言っても、水は笑わなかった。
『動かないで』
水脈からミレアの声が届く。いつもより短い。水面へ浮かぶ青銀の輪郭も、肩から下が千切れかけていた。
『上。寝床の奥から、右へ七歩』
見上げる。
天井近くの岩棚に、昨日はなかった黒い染みがあった。滴ではない。毛だ。濡れた獣毛が石の裂け目から垂れ、一本ずつ熱で縮れている。その下には、あの黒い爪痕。爪痕の端から新しい石粉がさらさら落ちていた。
匂いが遅れて降りてくる。古い血。焼けた脂。空っぽの胃袋から上がる、酸っぱい息。
俺の体が勝手に赤い魔核を包み込んだ。柔らかい体の中心へ押し込み、その上から乾いた布と薄い甲殻を重ねる。
「ミレア。通信、切っていい。こいつ、水を追ってる」
『切らない。けれど、流せる水は増やさない』
「それでいい。俺も、格好つけてる場合じゃない」
岩棚の暗がりで、二つの眼が開いた。
獅子を骨だけになるまで痩せさせ、狼の長い脚を継いだような巨体だった。肩は俺の寝床の入口より高い。肋骨の一本一本が浮いているのに、前脚だけは太く、爪が石へ深く沈んでいる。口の両端から湾曲した黒牙が突き出し、下顎を挟むように内側へ曲がっていた。
鬣は黒ではない。根元が暗い赤だ。呼吸するたび、炭火みたいな熱が毛先まで走る。その鬣の奥、額の左右に、毛へ埋もれた硬い瘤が二つあった。角と呼ぶには短く、古傷の盛り上がりにも見える。けれど獣が腹を鳴らすたび、そこだけが熾火のように赤く脈打った。
獣が岩棚から降りた。
音はした。だが、着地音が届くより先に、床の水膜が四方へ弾けた。足音そのものが水を逃がしている。還流皿の縁が乾き、貯めていた一口分の水まで震えながら溝へ退いた。
そいつは俺を見なかった。
保存食の棚を嗅ぎ、素材棚を嗅ぎ、最後に俺の体内へ隠した赤い魔核へ鼻先を向けた。肉を食べに来た目じゃない。どれを守れば俺が動き、どれを奪えば俺が飢えるか、確かめに来た目だ。
「食べない盗人の次は、食べる先生か。いやいや、授業料が俺の家って高すぎるだろ」
黒い尾が一度だけ床を打つ。入口側へ回り込む軌道だった。
逃げ道を閉じてから、俺が何を守るか見るつもりだ。
俺は目を逸らさず、鑑定を向けた。一度に読めたのは断片だけだった。名はグラトン。種族は黒牙飢獣。危険度はA相当。水と魔力を奪う吸収皮膜、飢えるほど熱を増す飢熱鬣、獲物の空腹を煽る性質を持つ。額の硬い瘤は名称すら読めない。知らない器官を弱点だと思い込むのは危険だ。まずは、何に反応するかを見る。
危険度A相当。
喉の奥が冷えた。勝てない、という言葉が体の芯へ落ちる。なのに、腹は鳴った。相手の鬣から漂う焦げた脂の匂いを、食べ物だと勘違いしたらしい。
グラトンの眼が細くなる。
聞かれた。
「……今のなし。腹の音で居場所がばれるとか、俺、狩られる側として素直すぎない?」
『退いて』
「一つだけ試す。効かなかったら退く」
俺は寝床の脇に残していた水を引き上げた。右前脚は太い。けれど左後脚だけ、着地したあと爪が半拍遅れて石を掴んだ。
水刃を一本、薄くする。狙うのは左の腱。
「痛かったら帰ってくれよ!」
放った刃が鬣の下を走った。
当たる。
そう思った瞬間、水刃の輪郭がほどけた。刃を作っていた水が、グラトンの皮膚を覆う透明な膜に沿って流れ、脇腹から鬣へ吸い上げられる。赤黒い毛が一段明るく燃えた。
「食べるの、水の方か!」
グラトンが床を蹴る。逃げた水が足元から消え、巨体が予想より一歩深く伸びた。黒牙が俺の左側を抉る。体を引いたのに間に合わず、表皮が大きく裂けた。
「熱っ……水を持っていかれた! これ、噛まれるより先に干からびる!」
熱が傷口へ残った。削られただけじゃない。黒牙が触れた場所から水分が引かれ、体の端が硬く縮む。
怖い。次に胴の中心を噛まれたら、赤い魔核ごと持っていかれる。
だから、もう同じ水刃は撃たない。
俺は棚の下へ潜り、尾のように伸ばした体で丈夫な鱗を一枚弾いた。先端だけ魔材クラフトで尖らせ、グラトンではなく奥の溝へ刺す。昨夜、侵入時刻を測るために残した遠隔水流罠の起点へ噛ませれば、一回だけなら足止めに使える。
「今!」
溝に隠した水が跳ね、前脚二本へ絡みついた。粘りを足した水輪が関節を逆向きに引く。
グラトンの肩が沈んだ。
一拍。
たった一拍で、飢熱鬣が膨らんだ。水輪から湯気が上がり、吸収皮膜へ引きずり込まれる。額の左右に埋もれた瘤まで赤く灯り、ほんの少しだけ前へ尖った。だが形を確かめる前に、起点の鱗が乾いた音を立てて折れた。
その一拍で俺は食料棚へ飛びついた。洞魚一切れと水甲虫の脚肉一つを体内へ取り込む。食べるためじゃない。持って逃げるためだ。
だが、グラトンは追ってこなかった。
前脚を振り抜き、素材棚を叩き潰した。青い甲殻一枚と残る鱗三枚が砕け、次の一撃で背骨ごと還流皿に亀裂が走った。
「やめろ!」
怒りが恐怖を押しのけた。あれはただの皿じゃない。藻を枯らし、ミレアに止められ、流れを測り直して作った二枚目だ。食料、素材、腐敗部、水へ返す分。全部を無駄にしないための場所だった。
俺は偽装流を広げた。右の通路へ濃い匂い。左へ床圧。寝床の奥には、俺が赤い魔核を抱えて縮こまる像。空腹の震えまで魔力で散らし、三つの俺を走らせる。
「さあ、どれだ」
グラトンは鼻を使わなかった。
耳を伏せ、床へ下顎を近づけた。
きゅるる、と俺の腹が鳴る。
三つの偽物にはない音が、本物の俺から響いた。
「そこを見るのかよ!」
黒牙が偽装を突き抜けた。俺は赤い魔核をさらに深く包み、前へ転がる。牙は避けた。だが肩から振られた前脚が背を叩き、体が寝床の壁へ潰れる。
視界が白く弾けた。魔力で保っていた偽装流が全部消える。
『グルト』
「聞こえてる。まだ、動ける」
『戻ってこないで』
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
『ここを退路にしないで。流れを辿られる』
助けない、ではない。自分の水脈を守るため、俺が向かうことを拒んでいる。
胸の奥が小さく痛んだ。それでも、正しい。俺が選んで危険へ踏み込み、ミレアの退路まで勝手に使うわけにはいかない。
「分かった。通信も切れ。俺が呼んでも、今は開けるな」
『……死なないで』
「それは俺も賛成」
水面から青銀の輪郭が消えた。
グラトンはすぐには襲わなかった。還流皿の割れ目を嗅ぎ、寝床の入口を見て、俺が退こうとしている細い南側通路へ眼を移す。罠の位置。寝床の位置。退路の位置。順番に覚えている。
そして、俺の体内で赤い魔核が脈打った。
どくん。
グラトンの鬣が逆立つ。
こいつの目的が変わった。
飢えさせて動きを測るだけじゃない。赤い魔核を欲しがっている。
「これは駄目だ。俺の飯じゃないけど、お前の飯にもさせない」
食料を抱え、赤い魔核と最後の骨片を守り、寝床も守る。全部は無理だ。
まず生き残る。次に一つだけ試す。危険なら退く。
俺は体内の洞魚一切れを見た。昨日、食べずに残した最後の魚。これを捨てれば、グラトンは匂いを追うかもしれない。追わなければ、俺はただ最後の一口を失う。
悔しくて、体が震えた。
「食べ物を粗末にするな、俺。……でも死んだら、残り全部がこいつの在庫だ」
洞魚一切れを還流皿の反対側へ放る。同時に、割れた皿の下へ残る水へ魔力を通した。水刃ではない。押すだけの流れ。水甲虫の脚肉一つも、砕けた甲殻片と一緒に滑らせ、別の溝へ送る。
食料と素材を、二方向へ分けた。
グラトンの眼が動く。
一度は洞魚へ。次に脚肉へ。最後に、俺の赤い魔核へ。
選んだのは俺だった。
歓声を上げる暇もなく、巨体が迫る。俺は最後の遠隔操作で還流皿を持ち上げ、間へ立てた。皿は盾にならない。それでも黒牙の軌道を指一本分だけずらした。
牙が皿を貫く。
魔材クラフトで重ねた縁が裂け、二枚目の還流皿が真っ二つになった。
「うわああっ、俺の皿!」
悲鳴を勢いに変え、南側通路へ飛ぶ。背後で爪が床を削った。石片が体を打つ。さらに一歩、黒牙が伸び、尾の端を噛みちぎった。
熱と乾きが走る。痛みで体がほどけそうになる。それでも赤い魔核だけは中心から動かさない。
通路は俺なら通れる。グラトンの肩には狭い。
そう思った瞬間、後ろから鈍い衝撃が来た。
グラトンは肩をねじ込み、入口の岩ごと壊した。細い通路が、細くなくなる。
「いやいやいや、体格で迷路を解くな!」
逃げながら、壁の亀裂へ水を押し込む。最後の小さな試行だ。岩を落として倒すんじゃない。追跡を一呼吸遅らせるだけ。
水圧で亀裂が開き、拳ほどの石が三つ落ちた。グラトンは一つを前脚で砕き、一つを牙で弾く。最後の一つが左後脚へ当たり、爪が半拍遅れた。
見間違いじゃなかった。
勝てなくても、一つは持って帰れる。
「左脚。水じゃなく、石なら嫌がる!」
水刃も水輪も吸われた。けれど水圧で石を落とせば、相手へ水を渡さずに足を遅らせられる。負けている最中なのに、胸の奥で小さな火が点いた。
「一個だけ見つけた。次は、水を当てるんじゃない。水で別のものを動かす!」
叫んだ途端、残りの石を試したくなった。だが魔力も退路も足りない。もう一度やれば観察ではなく意地になる。俺は悔しさごと飲み込み、次の亀裂へ逃げた。
返事をする声はない。通信は切れている。それでも口に出した。恐怖で頭から落ちないように、次に使える事実を自分へ聞かせた。
崩落坑道へ続く裂け目が見える。俺は体を薄くして滑り込んだ。
直後、黒牙が入口の岩を噛み砕いた。牙先が背へ触れ、また水分を奪う。けれど巨体全部は入れない。グラトンは無理に追わず、裂け目の前で止まった。
赤い鬣の熱が、暗闇の向こうでゆっくり引いていく。
諦めたんじゃない。
寝床と、罠と、退路と、赤い魔核。あいつは全部覚えた。水を吸った時だけ額の硬い瘤が尖ったことも、俺は忘れない。次はもっと先回りしてくる。
崩落の向こう、中層水路の濡れた壁に白い反射が一度だけ走った。白眼そのものではない。けれど、壊れた寝床と逃げる俺を、管理核の観測膜が数え直したように水圧が一段重くなる。グラトンだけに集中している間も、ダンジョンの支配側は眠っていない。
俺は冷えた岩へ体を預け、残ったものを確かめた。
赤い魔核、一つ。最後の守護骨片、一個。
保存食、ゼロ。棚に出していた甲殻・鱗・背骨はゼロ。吸収できたもの、ゼロ。寝床、喪失。還流皿、二枚目も喪失。腹はさっきより空っぽだった。
HPは112/134から89/134へ、二十三減少。魔力は142/218から116/218へ、二十六減少。レベル9、攻撃45、防御22、速度81、進化ポイント8。技能の成長はない。
「見事なくらい、負けたな」
声にすると、悔しさが一気に溢れた。作った場所を壊された。残しておいた食べ物を、自分で捨てた。試した水は全部食われ、偽装は腹の音で破られた。
でも、赤い魔核はここにある。俺もまだ動ける。ミレアの水路へは戻らなかった。
勝ったものは一つもない。それでも、死なずに失敗を持ち帰った。
「次は腹の音まで罠にしてやる。……その前に、何か食べたい」
立ち上がろうとして、体の下にあった丸い石へ乗った。つるりと滑り、顔から冷たい泥へ突っ込む。
「よし。まだ転べる。なら、まだ動ける」
自分で言って、少しだけ笑った。




