第23話 食べない盗人
警報は、鳴らなかった。
だから俺は、最初、数え間違いだと思った。
中層水路域の小区画で、昨日ミレアと決めた置き場は四つだ。食料棚、素材棚、腐敗隔離の窪み、流れへ戻す還流口。さらに食料棚の中だけを、今食べる分と保存分へ分けた。混ぜると、何が消えたか分からなくなるからだ。
寝る前には、洞魚二切れと水甲虫の脚肉二つ。素材は青い甲殻二枚、丈夫な鱗六枚。背骨一本は還流皿の縁。守護骨片二個は、赤い魔核と離して体内へ入れた。何度も見直した。空腹の俺が食料を数え間違えるはずがない。たぶん。いや、一度くらいはある。二度も、まあ、あるかもしれない。
でも、洞魚が一切れ消えている。甲殻も一枚足りない。
「え、待って。これ、俺が寝ぼけて食べた?」
水面へ髪を広げていたミレアが、ゆっくりこちらを向いた。
「甲殻も、一枚ない」
「じゃあ俺じゃない。腹が減っても甲殻を前菜にはしないよ」
「昨日、噛んだでしょう」
「あれは硬さの確認! 食事じゃない!」
言い返したら、腹が情けなく鳴った。小区画の壁にまで響いた気がして、俺は体を平たくした。隠れたところで腹の音は消えない。ミレアは笑わなかったが、水面に浮いた髪の先が少しだけ揺れた。
「……今、笑った?」
「流れが動いただけ」
「その流れ、ずいぶん楽しそうだな」
軽口を返しながら、俺は備蓄の周囲を一周した。入口側の細い流路には、俺が張った水膜が残っている。何かが通れば膜が破れ、還流皿の小石が落ちる仕掛けだ。小石は元の位置。水膜にも切れ目はない。床の泥にも足跡はなかった。
なのに肉と素材だけが減っている。
喉の奥に、空腹とは違う冷たさが貼りついた。
「ミレア。昨夜、通信を止めた時間は?」
「止めていない。あなたが三度寝返って、一度、自分の水膜に顔から入ったのも見た」
「そこまで見てたなら起こしてくれよ……いや、違う。入口は?」
「誰も通っていない」
短い答えだった。疑うな、とも、信じて、とも言わない。そのせいで俺の中の嫌な考えは、消えずに形だけを変えた。ミレアが隠しているのか。それとも、俺の感覚まで何かに弄られているのか。
俺が備蓄とミレアを交互に見たのを、彼女は見逃さなかった。
「疑うなら、私は流路へ戻る」
「待って。俺、今すごく嫌なこと考えた。ミレアが隠したのかもって。……ごめん。まだ、違うとも言い切れない」
言葉にすると、自分の疑いがひどく汚く見えた。俺は先に入口と右の細道を確かめた。どちらにも通った跡はない。振り返ると、ミレアはもう細い流路へ半身を戻していた。
「でも、出ていかないで。疑ったまま追い出したら、俺は安心したふりをするだけになる。まず俺が三回、別のやり方で確かめる。ミレアは水を止めたくなったら止めて」
口にしてから、胸の奥がちくりと痛んだ。格好をつけている場合じゃないのに、少しだけ格好をつけた気がする。
ミレアは細い流路から離れないまま、戻り水へ指を沈めた。
「三回まで」
「何が?」
「あなたの確認。水を使う試しは三回まで。それ以上は、流れが痩せる」
「分かった。三回で尻尾を掴む。尻尾がある相手なら」
「なかったら?」
「……持ちやすいところを掴む」
「今のは、あまり賢くない」
「知ってる。怖いから喋ってるんだよ」
認めると、腹の底の冷たさが少しだけ薄くなった。
一回目は匂いを試した。
腐敗隔離の窪みから、食べられない肉を薄く削る。食料棚には洞魚一切れと水甲虫の脚肉二つを残し、魔材クラフトで作った小さな皿を四方へ置いた。偽装流で腐敗臭だけを入口側へ運ぶ。匂いを追うなら、侵入者は空の皿へ寄るはずだ。
「食べ物を囮にするの、俺の信念が痛むな」
「昨日、腐る前に分けると言った」
「はい。だから無駄にはしません。仕事が終わったら責任を持って――」
「食べないで。もう腐敗が始まってる」
「先回りで止めるの、やめてもらえる?」
俺たちは灯り苔を伏せ、流路の陰で待った。
水滴が七十八回落ちたところで、入口側から肉の匂いが強くなった。
来た。
俺は水刃を細く立て、匂いの中心へ撃ち込んだ。刃は皿を二つに割り、壁へ浅い線を刻む。だが手応えはない。代わりに、俺たちの背後――備蓄の奥で、骨が一度だけ鳴った。
「後ろ!」
振り向いた時には、水甲虫の脚肉が一つ消えていた。食べられたのではない。床を擦った跡が、暗い隙間へ続いている。そして割れた囮皿の匂いは、いつの間にか俺の体へべったり付いていた。
「うわっ、臭い! なんで俺が腐りかけ肉みたいになってるの!」
「匂いの流れを返された」
「俺の偽装流を?」
「違う。水は触られていない。皿だけ動かして、匂いがあなたへ戻る位置へ置いた」
水を使わず、俺の流れを利用した。しかも肉を奪いながら、食べずに匂いだけを俺へ擦りつけた。
腹がまた鳴る。今度は空腹だけではない。怒りで体の表面が熱くなった。
「食べないなら盗るなよ! それ一つで、俺の次の食事が消えたんだぞ!」
「声を落として」
「落とせない! 俺は今、食べ物を使って馬鹿にされた!」
「怒る場所、そこ?」
「そこも大事!」
叫んだ直後、ミレアの水が細く震えた。上から小さな砂粒が落ち、俺の頭へ当たる。
二回目は床圧を試した。
区画の床全体へ、指一本より薄い水膜を広げる。重みがかかれば波が起きる。守護骨片は二個のうち一個だけを備蓄の中央へ立て、遠隔水流罠の起点にした。最後の一個は赤い魔核と離し、体内の奥へ隔離してある。今度は匂いではなく、重さを拾う。
「広げすぎ」
ミレアの声が冷えた。
「分かってる。でも床のどこかを通るなら――」
「三回目の水がなくなる」
俺は反論しかけ、膜の端を二歩分だけ狭めた。悔しいが、彼女の水だ。俺の焦りで使い切っていいものじゃない。
「これで。駄目なら止めて」
「……見ている」
待つ間、空腹は時間を長くした。残った洞魚を見ないようにすると、今度は素材の甲殻が食べ物に見えてくる。いや、甲殻はだめだ。昨日噛んで歯がないのに歯が痛くなった。
水膜の左端が揺れた。
俺は罠を閉じた。三本の水縄が床を走り、波の中心へ絡みつく。
捕まえた――そう思った瞬間、右から黒い塊が飛んできた。
肉だ。
俺は反射で体を伸ばした。水縄の一本が俺の脇腹へ食い込み、そのまま床へ叩きつけられる。
「うぐっ、縄が食い込む! って、そっちは食べられない肉!」
飛んできた肉は、昨日、還流分へ分けた傷んだ部位だった。食べられない。分かっているのに、腹が先に追った。
「罠を解いて!」
ミレアの水が縄の結び目を押し戻す。俺が抜け出した時には、中央へ出した骨片が消えていた。水膜には、最初から最後まで足跡が一つもない。体内の奥には、出さなかった最後の一個が残っている。
「嘘だろ。俺を囮にして、骨を持っていった?」
「あなたが自分で囮になった」
「今は優しく言ってほしかった!」
「傷は?」
言葉は短いままなのに、流れが俺の脇腹へ寄った。冷たい水が、罠で裂けた表面をそっと洗う。
「痛い。でも動ける。……ごめん。三回目の水まで使わせた」
「まだ使っていない」
俺は目を瞬かせた。ミレアは床を見ず、暗い天井を見ている。
「床の波は、落ちた肉の重さ。骨片は、上へ消えた」
上。
さっき頭へ落ちた砂粒。入口の水膜が切れない理由。床圧が一度も侵入者を拾わなかった理由。
俺は天井を見上げた。灯り苔の届かない割れ目が、還流庫の真上を横切っている。位置は備蓄から二体分ほど上。そこだけ岩肌が新しく削れ、黒い毛が一本、濡れた亀裂に引っかかっていた。毛は太く、先端が脂で固まっている。その奥で、何かが身じろぎするたび、水滴が天井へ吸い上げられた。
姿は見えない。だが重い。水へ足を置かず、岩の割れ目へ体を預けて動いている。そして目的は、腹を満たすことじゃない。保存食と素材を少しずつ奪い、匂いだけを散らし、俺を焦らせている。
「待って。あいつ、俺たちを襲いに来たんじゃない」
「備蓄を取りに来ている」
「違う。取るだけなら肉を食べる。あいつは、俺を腹ぺこにしてる」
言葉にした途端、恐怖が輪郭を持った。爪や牙が強いだけの相手より嫌だ。俺が空腹で失敗することを知っている。さっき肉へ飛びついたのも見られた。
天井の暗がりで、石が擦れた。
三回目。
俺は残った水を天井へ撃ち上げた。水刃ではない。細い偽装流を亀裂の両側へ這わせ、逃げ道を一つだけ残す。その先に遠隔水流罠を開いた。追い出すふりをして、通過時刻を測る。
黒い前脚が、暗がりから一瞬だけ伸びた。濡れた毛。岩へ食い込む湾曲した爪。そいつは残しておいた逃げ道へ進まず、爪で天井の薄い岩板を剥がした。
「来る!」
岩板が俺たちと備蓄の間へ落ちた。水が弾け、灯り苔が二つ潰れる。暗闇の向こうで、素材棚の鱗二枚が引きずられた。
俺は落石を回り込もうとして、脇腹の傷に体を取られた。遅い。なら一つだけだ。
「ミレア、水を切って! 追わない!」
彼女は問い返さなかった。流路が閉じ、俺の罠から力が抜ける。追えば、亀裂の向こうまで水路を見せることになる。待てば、備蓄は消える。その二つしかないと思わされていた。
だから、どちらもしない。
俺は残った水滴を一つ、岩板の端へ貼りつけた。もう一つを天井の亀裂へ。落ちる間隔を数えれば、次に侵入する時刻が分かる。今は追わず、相手の癖を盗む。
暗闇から、乾いた骨の折れる音がした。
罠へ出した守護骨片だ。食料でもないのに、あいつはためらいなく砕いた。体内へ隔離した最後の一個まで見つからなかったことに、安堵する自分が悔しい。
「くそっ……返せよ。それ、まだ使えたんだぞ!」
声が裏返った。怒りに任せて飛び出したかった。けれど、ミレアが閉じた流路の前で止まる。彼女の水を勝手に道へしないと決めたのは、俺だ。
「追わないの?」
「追いたい。すごく追いたい。噛みつけるなら噛みつきたいし、骨の使い道を三時間くらい説教したい。でも、あいつはそれを待ってる」
「三時間は長い」
「そこだけ?」
ミレアの髪先が、またわずかに揺れた。今度は流れのせいにされる前に、俺も少し笑った。悔しくて、怖くて、腹が減っている。笑っても一つも解決しない。でも、さっきより呼吸は整った。
俺たちは残ったものを一個ずつ数え直した。食料は洞魚一切れと水甲虫の脚肉一つ。素材は青い甲殻一枚と丈夫な鱗四枚。背骨一本は、傷ついた還流皿の縁に残っている。甲殻一枚と鱗二枚は盗まれ、罠へ出した守護骨片一個は砕かれて持ち去られた。もう一個だけは、体内の奥で守った。腐敗隔離の窪みは荒らされ、匂いが寝床まで散っていた。
洞魚の端をほんの少し削り、食料棚の中で用途を分け直した。本体は明日の食料。削った小片は次の侵入を測る囮。水へ返すのは、腐敗していない筋だけだ。四つの置き場そのものは崩さない。
「食べる分を減らすの?」
「減らしたくない。泣きたい。でも全部食べたら、あいつがいつ来るか分からないままだ。次は匂いじゃなく、時刻を取る」
「また失うかもしれない」
「うん。だから次に動いた瞬間だけ測る。追わない。水も渡さない。俺の腹が鳴っても、たぶん……いや、鳴るのは止められないから、鳴っても飛びつかない」
「さっきは飛びついた」
「それを今、本人が一番反省してるところ!」
ミレアは、残った一番小さな肉片を俺の前へ押した。
「食べて。次は、反省より先に動けるように」
「ミレア、たまに優しさが刺さるんだよな……ありがとう」
ミレアが押してくれたのは、囮にする前の洞魚から削った、ごく小さな端だった。少なく、乾いて、悔しいくらいうまかった。捕食しても技能は増えない。ただ空腹の底が少し浅くなり、傷の震えが止まった。甲殻と鱗は食べずに素材棚へ戻し、匂いの強い腐敗部だけを囮として封じる。食料、素材、腐敗隔離、還流。減っても、混ぜない。盗人に荒らされたからこそ、俺まで雑には扱わない。
天井を調べると、岩板の裏に四本の黒い爪痕が残っていた。入口ではなく、最初から俺たちの上にいたのだ。
体の内側へ意識を向ける。最大値は変わらない。技能も増えていない。減ったのは、罠へ使った魔力と、打ちつけた体力と、守るはずだった在庫だ。傷の深さと残った魔力は、話の終わりに一度だけきちんと確かめればいい。いま必要なのは、盗人が来る場所と時刻を忘れないことだった。
でも、分かったことがある。
盗人は入口から来ない。肉を食べない。俺の空腹を見て、餌を投げ、判断をずらす。罠を避けるだけじゃなく、こちらが何を守るかを選ばせようとしている。
「次は、盗られる前に捕まえる?」
「捕まえない。まず、来る時刻と戻る方向を知る。俺が追いたくなったら止めてくれ」
「水は止める。あなたは?」
俺は一番小さな囮を見た。腹が鳴った。
「俺は……食べない。いや、今の間は迷ったんじゃない。覚悟を込めた間だから」
「そういうことにしておく」
天井から、また砂が一粒落ちた。
今度は飛びつかず、水滴が落ちるまでの時間を数えた。
十七滴目。天井の黒毛が、ほんの少しだけ揺れた。
腹は鳴った。けれど俺は囮へ伸びず、還流皿の端へ水滴を一つ置く。二十一滴目で、その滴だけが天井へ引かれた。昨日なら肉を見た瞬間に跳び、罠ごと自分へ巻きつけていた。今は盗人の動きだけを一つ拾えた。
「来る間隔、四滴ぶん。……よし。技能は増えてないけど、俺の待てる時間は増えた」
嬉しさで囮を見たら、また腹が鳴った。待てるようになっただけで、空腹が消えたわけじゃない。次は、この四滴を罠へ変えなければならない。




