第22話 一匹分の水場
白眼の接続を一本だけ断ち切った先で、俺は細い水路の縁を滑っていた。ここは中層水路域の端、深層入口から上流へ一つ戻り、さらに横へ枝分かれした小区画だ。丸い天井から青白い雫が落ち、広さは寝床二つ分ほど。背後にはまだ管理核の気配がある。完全に逃げ切ったわけじゃない。けれど、少なくとも今すぐ白い視線が追ってくる様子はなかった。
身体は妙に軽い。レベルが上がり、裂けていた膜も戻っている。魔力も満ちている。それなのに腹の内側だけが、きゅるる、と情けなく鳴った。
「いやいや、強くなった直後に餓死は格好悪すぎるだろ。食料、ほぼゼロ。水はある。逃げ道は……後ろと、右の細道。よし、まだ動ける」
俺は壁際に寄せた赤い魔核へ触れ、そこにあることだけ確かめた。食べない。今はまだ、これを食べないと決めたことのほうが大事だ。
水路の先から、しゃら、と髪を梳くような音がした。
風ではない。水面だけが細長く持ち上がり、俺から三体分ほど離れた岩棚へ集まっていく。冷たい青光が洞の藻へ走ると、萎れていた葉がわずかに起きた。流れの中央にいた何かが、俺を見定めるために水を呼び戻したのだ。
「ミレア?」
呼ぶと、水が人の輪郭を取った。
青銀の髪が水面いっぱいに広がり、その中央から成人した人間ほどの上半身が浮かぶ。透ける腕の内側を、淡い光の筋が脈のように巡っていた。整った顔は静かだったが、俺を見る青い目には、助けを待つ者の安心より、危険な捕食者を測る警戒が濃い。彼女の腰から下は水と溶け合い、岩棚の奥へ延びる指一本ほどの流路につながっていた。
離れられないのだ。少なくとも、あの細い流れを切らずには。
「観測名はルナ。正式名はミレア。そう聞いたけど、合ってる?」
「合っている。近づかないで」
「はい。止まります。俺、聞き分けのいいスライムなので」
ぴたりと止まったつもりが、濡れた岩で身体の前半分だけ滑った。俺は慌てて後ろ半分を広げ、べしゃっと床へ張りつく。
「……今のは近づいたうちに入る?」
「少し」
「ごめん」
ミレアの口元がほんのわずかに緩んだ。笑われた気もするが、敵意が一滴減ったなら安いものだ。
そのとき、流れの脇に積もったものが目に入った。白い腹を上にした洞魚。殻の割れた水甲虫。細長い鼠のような魔物の死骸。古いものは黒ずんでいたが、新しい魚の身からは、腹を刺すほど濃い匂いがした。
「食べ物!」
反射で跳んだ。ミレアの髪が水面を打つほうが早かった。
「しないで」
細い水柱が俺の額を正確に弾いた。
「いったぁ! 額だけ狙うの、正確すぎない? いや、死骸だぞ? 放っておいたら腐るし、俺なら残さず――」
「もう腐っているものもある。全部を混ぜれば、流れが死ぬ」
彼女の声は短かった。けれど青銀の髪の先が強く縮み、足元の水が震えている。俺が食べることを嫌ったのではない。この水まで俺の空腹に巻き込まれることを恐れている。
腹がもう一度鳴った。すぐ食べたい。今なら魚一匹くらい、丸ごと呑み込める。
だが、俺は跳ぶのをやめた。
「分ければいい?」
ミレアは死骸を見た。それから、俺を見る。
「何に」
「食べる分。道具にする分。腐っていて触らせたくない分。それと、水へ返したい分。俺は腹が減ってる。だから、間違えそうなら止めてくれ。でも最初から全部駄目って言われたら、たぶん聞けない」
「……見せて。あなたがどう分けるか」
許可ではない。観察の続きだ。それでも俺は嬉しくなり、身体を少し膨らませた。
「任せろ。腹は騒いでるけど、手順までは食わせない」
まず新しい洞魚を嗅ぐ。えらは赤く、身に濁りがない。腹を割ると、内臓の端だけに黒い斑点があった。身を食料、丈夫な背骨と鱗を素材、斑点のある内臓を腐敗部へ置く。水甲虫は肉が少ない。脚の付け根だけを食料にし、青い甲殻を素材へ回した。
古い鼠型の死骸へ触れた瞬間、酸っぱい泡が弾けた。俺は反射的に包み込んでしまい、舌の代わりの膜が焼ける。
「うわ、苦っ! 待って、これは食べない。食べたら俺のほうが在庫から消える!」
「見たでしょう」
「はい。すごく見ました。身体の内側から」
悔しいが、すぐ吐き出した。黒く溶けた肉は水から離れた岩の窪みへ封じ、上から甲殻片をかぶせる。無駄にしないことと、何でも食べることは同じじゃない。分かっていたつもりなのに、空腹になると境目がぼやける。
最後に残ったのは、まだ腐っていない小さな骨、魚のえら、魔力を含んだ透明な膜だった。食べても腹の足しにはならない。素材としては弱い。俺には使い道が見えなかった。
「それは?」
「分からない。水へ返す分って、これでいいのか?」
「柔らかいものは小さくする。流れの生き物が食べる。硬いものは置かない。細い流路を塞ぐから」
ミレアは答えを全部くれなかった。魚のえらへ視線を落とし、流れの速い場所を顎で示しただけだ。
俺は透明な膜を細く裂き、えらと一緒に水へ置いた。小さな水虫が岩陰から現れ、すぐに一片をさらっていく。藻の葉も揺れた。
「なるほど。返すって、捨てることじゃないんだな」
「流れの先で、食べるものがいる」
「俺と同じか」
「あなたより、小さい口で」
「そこは張り合ってないからな?」
今度は、ミレアの目元が確かに和らいだ。
仕分けた結果、食料は洞魚の身が三切れと、水甲虫の脚肉が二つ。今夜と次の一回分にはなる。素材は青い甲殻四枚、背骨一本、丈夫な鱗が六枚。腐敗部は一山。水へ返す柔らかな残りは、もう小さな生き物が運び始めていた。
俺は洞魚の身を一切れだけ包み込み、ゆっくり溶かした。塩気のあとに、冷たい魔力が広がる。全部食べたい。でも残り二切れと脚肉二つは、甲殻で作った蓋の下へ置いた。これで備蓄は二回分。少ないが、ゼロではない。
「問題は腐敗部だ。水から離しただけじゃ、匂いが戻る」
「流れへ入れないで」
「入れない。でも、腐る前に水を抜いて封じたい。皿を作る。水だけ受けて、きれいなほうへ戻すやつ」
「水を取るなら、上限を決める」
ミレアは髪の一筋を水面へ沈め、岩壁に青い線を灯した。
「水面がこの線を下回る前に止める。戻りが二息遅れたら、その時点で終わり」
「二息。分かった。止めるって言われたら、途中でも止める」
「約束は信じない。止めなければ、通信を切る」
「え」
胸の奥がひやりとした。白眼に追われたとき、あの声がなければ俺は安全な位置を選べなかった。切られたくない。だからといって、彼女に声を出し続けろとは言えない。
「……分かった。話したくないときは切っていい。俺は、切られたらたぶん慌てるけど……その前に『止める』って一回だけ言ってくれない? 理由は、言える時だけでいい」
「あなたにも、聞かれたくないことはある?」
「ある。赤い魔核をいつ食べるのか、とか。答えは今のところ、食べない、だけど」
ミレアは魔核へ一度目を向けたが、それ以上は聞かなかった。
俺は青い甲殻を丸く重ね、背骨を縁にして固定した。鱗で隙間を埋め、魔力を細く通す。魔材クラフトで形を覚えさせれば、水だけを受ける還流皿になるはずだ。
「よし。完璧な皿だ」
「まだ水を流していない」
「今から完璧になる皿だ」
腐敗部から染み出す水を一滴ずつ皿へ落とす。濁りは甲殻の内側へ残り、透明な水だけが縁へ集まった。成功だ。俺は嬉しくなって流量を少し増やした。
皿は水を一滴も逃がさなかった。
つまり、戻り水も一滴も出なかった。
流路の水位が青い線へ向かって下がる。皿の下に生えていた藻が、みるみる灰色へ萎れた。
「止めて」
「え、待って、もう少しで――」
「流れが死ぬ」
ミレアの声が鋭く途切れた。水路の光まで消えかける。
失敗を隠したい気持ちが一瞬だけ勝った。縁に穴を開ければ直る、と言い張りたかった。けれど、灰色の藻は待ってくれない。
「止める!」
俺は皿へ伸ばしていた魔力を切り、水ごと持ち上げようとした。焦って力を入れすぎ、硬化した背骨の縁が身体へ食い込む。痛みで形が崩れ、皿がひっくり返った。濁った水がこちらへ跳ねる。
「いやいやいや、それは戻しちゃ駄目なほう!」
俺は身体を広げて濁りを受け止め、流路の外へ押し返した。酸が膜を焼き、魔力がごっそり抜ける。それでも、きれいな水へ混ざる前には止められた。
ミレアは何も言わなかった。青い瞳が灰色の藻と俺の傷を往復する。怒っている。だが、彼女が先に見たのは俺ではなく藻だった。
「ごめん。水を貯めることしか考えてなかった。戻る道がなかった」
「作り直して」
「やらせてくれるのか?」
「失敗を見た。次を見せて」
胸の奥で、悔しさが少しだけ熱へ変わった。次は大きく賭けない。一つだけ直す。
俺は甲殻を全部外し、皿の底を浅くした。濁りを沈める窪みは中央に残す。片側には背骨を置かず、透明な膜を細い樋にして、水が必ず流路へ戻る坂を作った。魔力で固めすぎれば、また流れが止まる。柔らかさを残し、二息ごとに樋がたわむよう調整する。
「流すぞ。一息」
水が皿へ入る。濁りが中央へ沈む。
「二息」
透明な上澄みが膜の樋を伝い、藻の上へ戻った。灰色になった葉の隣で、まだ青い葉が揺れる。水面は青い線より上だ。
「戻った」
「見たでしょう」
「見た。皿は貯める道具じゃない。戻す道具だ」
俺は嬉しくなって樋を指先ほど持ち上げた。上澄みは途切れず、曲がった膜に沿って藻へ戻る。前の俺なら、硬くするか崩すかしか選べなかった。今は、柔らかいまま役目を残せる。
「やった。固めなくても、ちゃんと形だ」
喜んだ直後、持ち上げすぎた樋から一滴が外へこぼれた。ミレアの視線が刺さり、俺は慌てて元の高さへ戻す。
「はい。動かせるのと、好きに動かしていいのは別でした」
できることは増えた。けれど水位と戻りの速さを見なければ、また流れを殺す。その限界まで含めて、今度は忘れない。
形を保つ感覚が、さっきまでより細かく分かる。甲殻、骨、膜を同じ硬さにせず、それぞれの役目を残してつなげられる。だが腐敗そのものを消せるわけではない。沈んだ濁りは俺が外へ運び、皿も毎回洗わなければならない。
俺は新しい還流皿を腐敗部の窪みへ据え、蓋つきの食料置き場と素材置き場を水路から離して並べた。還流庫と呼ぶには小さい。けれど、一匹が飢えず、一つの流れも殺さないための場所にはなった。
「ミレア。俺、ここを使いたい。ずっと寄越せなんて言わない。水は青い線まで。戻りが二息遅れたら、俺が泣いてても止める。通信はミレアが切っていい。あと……動く前に一回だけ聞く。答えたくないことは、答えなくていい」
「退路は」
「俺はミレアの細い流路を塞がない。ミレアも、俺の後ろの道と右の細道を勝手に塞がない。逃げる時は……ええと、自分の道を先に守っていい。これで足りる?」
「仲間になる約束ではない」
「期間限定の、水場の使い方だ」
少し寂しい。声を聞き、姿を見て、助け合えそうだと思った。でも、そこで勝手に仲間と呼べば、彼女の退路を言葉で塞ぐことになる。
俺はわざと身体を丸くした。
「まあ、一匹分の水場を借りられるだけで大勝利だ。俺、見た目より場所を取らないし」
「さっき、床いっぱいに広がった」
「あれは緊急時の大きさです」
「普段も滑る」
「そこは今後の成長に期待してほしい」
ミレアの肩から力が抜けた。笑い声はなかったが、水面に小さな輪が二つ広がった。
「その条件だけ。今は」
「うん。今は、それでいい」
合意を忘れないうちに、俺は自分を鑑定した。初めて読めた進化ポイントも、赤い魔核を食べないと決めた八点のままだ。変わったのは、失敗した皿を流れの道具へ作り直した技能だけだった。
HP七と魔力四十七を使った。安くはない。しかも魔材クラフトLv3でできるのは、違う素材の役目を残してつなぐところまで。腐敗を浄化することも、水を増やすこともできない。
それでも、さっき失敗した皿では殺しかけた藻の横へ、今度は水を戻せた。以前の俺なら硬く固めるしかなかった薄い膜も、流れへ合わせて曲げられる。次に圧が変わっても、樋がたわんで水を逃がす。できなかったことが、一つだけできるようになった。
「残りを確認する。食料は洞魚二切れと水甲虫の脚肉二つ。素材は甲殻四枚のうち二枚を皿に使って、手元に二枚。鱗六枚、背骨一本は皿の縁。守護骨片は二個とも体内。赤い魔核は食べない。腐敗部は隔離、還流皿は洗浄が必要」
「匂いは残る」
「分かってる。完全には消せない」
俺が答えた直後、ミレアが水路の奥へ顔を向けた。
戻り水の音が変わっていた。規則正しい雫の間に、ぬるりと重いものが岩を擦る音が混じる。ミレアの髪が一斉に細い流路へ寄り、洞の青光が弱くなった。
「まだ触らないで」
観測名ルナだった頃の、急いだ声が一瞬だけ戻る。
俺は水刃を出さず、還流皿の手前で止まった。匂いを読む。鉄の臭い。濡れた獣の臭い。さっき分けた死骸のどれとも違う。
上流ではない。俺たちが見ていた細い流路の反対、右の細道へ回り込む戻り水からだ。
やがて、黒く太い毛が一本、皿の樋へ引っかかった。俺の身体ほど長い。毛先には乾きかけた血が絡み、その血だけが新しい水で薄くほどけていく。
「これ、ミレアの知ってる生き物か?」
「知らない」
ミレアの返事は早かった。水が怖がるように、青い線の下で細かく震えている。
腹の底に、食べ物を見つけたときとは違う冷たさが溜まった。大きい。少なくとも、この毛の持ち主は俺たちの仕分けた死骸へ触れられる場所を通った。そして血を流しているのに、肉の匂いより先に自分の匂いを残している。
「追わない」
口に出すと、跳び出したがっていた身体がようやく止まった。
「今夜は食料と素材を水路から離す。右の細道は塞がず、毛がもう一度来るか見る。俺の退路も、ミレアの流路も残す」
「それでも来たら?」
「そのとき鑑定する。見る前に、敵だって決めない。でも――食料に触るなら、俺は怒る」
ミレアは黒い毛を見つめ、短くうなずいた。




