第20話 中層水路の底
奥から来る支流は、今までの水より冷たく、音が薄かった。
流れ読みを使うと、支流は途中で二つに分かれている。一方は中層の横穴へ戻り、もう一方は下へ落ちる。深層へ続く道だと決めるには情報が足りない。残るのは守護骨片三つ、鉱殻片一つ、保存肉半分、藻二つ、水二単位半。そして裂けた外皮の痛みと、満ちた魔力百六十八を抱えている。
保存肉を四分の一、藻を半分だけ溶かした。満たすためではない。入口へ戻る防水膜と、二回だけ試す魔力を作るためだ。残りは帰路の水がなくなった時のために隔離する。
「進める量じゃなくて、戻れる量を先に残す。昨日の俺なら、ここで全部食べてた。……成長したな、俺。腹だけは全然納得してないけど」
水を三つに分けた。身体の補修用。試行用。帰路用。帰路用には触れない。
水晶片はもうない。二つの流れに印を置く代わりに、守護骨片と鉱殻片を使う。骨片は沈む。鉱殻片は細い流れなら押される。戻ってきた時、片方だけが消えていれば、流れか誰かの手が水路を変えたと分かる。
骨片を横穴側へ、鉱殻片を下へ落ちる側へ置く。待つと、鉱殻片の周りだけ底から細い泡が上がった。骨片は動かない。下へ落ちる流れほど、底の水が上へ混じっている。深い場所から何かが漏れているのは確かだ。
ただし、確かだから進むのではない。
底の暗がりが、こちらを吸い込もうとしている気がした。あんな場所にいるものが、白眼より弱いはずがない。
底から上がった泡が、途中で一斉に潰れた。次いで、岩盤の向こうで巨大な何かが身じろぎし、水路全体が一度だけ沈む。音ではない。圧だけで核を握られたようだった。
「む、無理無理無理。顔も見てないのに分かる。あれは会ったら駄目なやつだ。俺が前菜にもならないやつ!」
低出力の水圧制御で、前の水を半歩ぶんだけ退かせる。戻る水がどの速度で鉱殻片へ届くかを見る。片は少し沈んだ。下側には水を吸う空間がある。
二度目を使えば、空間の大きさまで分かるかもしれない。けれど二度目の波は、下にいる何かにも俺の位置を渡す。俺は一度で止めた。
曲がり角の濡れた壁に白い反射があった。白眼そのものか、壁に残った観測の仕組みかは分からない。俺は反射を見ず、水の泡を見る。反射が二つに割れても、底から泡が上がるのは本物の流れだけだ。白い光は、俺が見るものを増やし、選び直す時間を奪おうとしている。
右壁に細い亀裂があった。水が正面の落差ではなく、壁の内側へ吸われている。守護骨片を一つだけ押し込む。三呼吸後、骨片は感知から消えた。広い場所へ出たのか、感知の外へ運ばれただけか。どちらにしても、俺の身体が入れば途中で反転できない可能性がある。
「行ける穴と、帰れる道は別だ。悔しいけど今日は入口だけ覚える。あれに会う準備? ない。勇気もない。お土産にできるほどの肉もない!」
引き返すのは怖いからではない。勝利条件を深く進むことから、深い水がどこで中層へ漏れるかを確かめることに変えたからだ。
帰る途中、石の向こうから低い振動が来た。白眼か、別の魔物か、ただの水圧の変化か。俺は水刃を作らず、壁へ身体を薄く貼りつけた。振動は俺の横を通り、上へ抜けた。
敵ではないかもしれない。だからこそ、敵と決めて魔力を払わなかった。敵ではないものへ刃を使えば、次に本当の敵が来た時の帰路がなくなる。
入口に戻ると、核の奥へ冷たい線が走った。水中感知でも流れ読みでもない。遠くの水圧が、距離ではなく深さとして身体へ届く。中層の下に空洞がある。水が落ち、戻り、別の穴へ落ちている。
《深層感知:未熟》
Lv6の時、白眼の壁の向こうを水中感知で覗こうとして、広がった水の気配に自分の位置まで見失いかけた。あの時は「向こうに何かある」としか分からず、怖くなって感知を切った。今は、同じ暗さの中でも、水がどれだけ下へ落ち、どの深さで戻っているかが、核の奥へ線になって届く。見える距離が伸びたのではない。前にはできなかった、深さで危険を分けることができる。
「前は暗い水を全部まとめて『怖い!』で終わってた。今は深いから怖いのか、流れが変だから怖いのか、分けられる。……怖さの品揃えだけ豊かになってないか、俺?」
「深さが分かる! 見えないのに、下へ落ちる水だけ線になってる! すごいぞ、これなら――」
喜びのまま感知を広げかけ、慌てて止めた。新しい表示は、新しい逃げ道と同じくらい新しい穴でもある。嬉しい。だからこそ、どこまで使えば帰れなくなるかを先に確かめる。
一度だけ意識を深い側へ向ける。大きな水圧がある。場所は分からない。二度目、下へ落ちる流れが三つあると分かる。急な流れ、細い流れ、途中で消える流れ。安全かどうかは分からない。
三度目を使おうとした時、核が痛んだ。深さと距離の区別が薄れ、入口のすぐ下が遠い空洞に見えかける。俺は止めた。
三度目へ意識を沈めた瞬間、上下が裏返った。入口の浅瀬が底に見え、深い空洞が核のすぐ隣で脈打つ。
「あ、まずい。どっちが上だ? 待て、俺はどこから来た? 帰り道が、全部、下に――」
感知できるから使うのではない。使った後も帰れる時だけ使う。
細い流れの入口へ骨片を一つ置く。もう一つは戻る道の右側に残す。鉱殻片が消えていれば下の流れが変わったと分かる。骨片だけが消えていれば、誰かが入口へ触れた可能性がある。
その時、水の中に知らない魔力が一度だけ触れた。声ではない。片方向の通信だった。名前だけが浮かぶ。
――ルナ。
「触っちゃだめ! そこ、水が怯えてる!」
「誰だ? どこにいる! この流れの先か?」
「先じゃない、下! 違う、あなたから見た下はもう下じゃない! 感知を切って、泡を見て。早く!」
声は幼く、説明より先に息が詰まっていた。罠なら俺を奥へ誘うはずだ。けれど正しい保証もない。
その迷いを待たず、岩盤の向こうの圧がもう一度膨れた。水面が天井へ持ち上がり、残した骨片が入口側へ跳ねる。声の言った通り、深さの感覚だけが逆転している。
「切って! ねえ、聞こえてる? そのままだと、向こうに見つかる!」
「聞こえてる! うるさいくらい聞こえてる! でも助かった、たぶん! 感知、切る!」
俺は深層感知を無理やり閉じ、跳ねた骨片のほうへ身体を投げた。方向感覚は戻らない。それでも骨が動いた向きは、さっきまでの入口だ。水圧制御で一度だけ自分を押し、浅瀬へ転がり込む。
「戻れた? ねえ、返事して。消えてない?」
「いる。半分くらい溶けた気分だけど、ちゃんといる。……名前、聞いていいか?」
「ルナ。次は三回も覗かないで。二回目で、もう水が泣いてたんだから」
「二回目で言ってくれよ!」
「言ったよ! 届かなかったの!」
そこで線が途切れた。返事のない水へ、俺はしばらく「そっちの事情かよ」と言えずにいた。罠かもしれない。けれど、最後の怒り方には俺を奥へ誘う余裕がなかった。
上下の感覚が戻るまで待ち、入口側と帰路側の骨片へ外皮を触れさせた。今度は泡の位置を先に見て、深層感知を一呼吸だけ開く。下へ落ちる細い流れが一本だけ浮かぶ。二呼吸目へ入る前に閉じる。骨片の位置も、入口の浅さも失っていない。
《深層感知Lv1を獲得》
「戻れた。ちゃんと自分で閉じて戻れた! 三回覗いて迷子になった俺と、一呼吸で帰った俺、同じ日の俺なんだぞ。……成長が忙しいな!」
成功したのは一方向、一呼吸だけだ。大きな圧の正体も分からない。それでも失敗したまま終わらず、使って帰る手順を一つ作れた。
「助けか罠かは、まだ決めない。でもルナは、俺より先に水の異変を見た。次に声が届いたら、まず聞く。疑うのは、そのあとだ」
ルナを信じない。敵と決めもしない。赤い魔核と同じように、今は隔離しておく。比べる材料が増えるまで使わない。
今日の勝利は、深層へ行かなかったことではない。細い流れ、落差、壁の亀裂、三つの分岐、深層感知の二回分の限界を、帰れる状態で持ち帰ることだ。
水面が落ち着くまで、俺は動かなかった。戻ったことをすぐ誰かに教えないために待つ。最深部は遠い。でも昨日の俺より、底へ近い場所を測れた。それで今日は十分だった。
待っている間に、入口の印をもう一度読む。横穴側の骨片は残っている。帰路の右側に置いた骨片も残っている。下流側の鉱殻片は見えない。流れに運ばれたのか、深い側の何かに触れたのかは分からない。
俺は横穴側の骨片へ触れ、帰路の右側に置いた骨片との間を身体一つぶんだけ空けた。三つ目の印は置かない。下流側へ向けた感知がまた開きかけ、入口の浅瀬が遠くへ沈む。俺は泡の上がる位置だけを見て、感知を噛み切るように閉じた。
核の痛みが引くまで、壁の冷たさを越える水と、裂け目を塞ぐ水を別々に外皮へ抱えた。最後の小さな塊は胃袋の奥へ押し込み、身体が乾いても触れない位置へ隔離する。
遠い圧がもう一度、水面を持ち上げた。横穴側の骨片は残り、右側の骨片だけが半回転した。誰かが来たのではない。深い側から押し返された水が、入口へ届いている。
ルナへ返事を送ろうとすると、核の奥がまた下へ引かれた。俺は声を飲み込み、動いた骨片を元へ戻さず、その向きのまま残す。次に来て向きが変わっていれば、あの圧がもう一度ここまで届いたと分かる。
水面の揺れが消えた。俺は細い流れへ背を向け、入口の外側から戻った。底を見たい気持ちは消えない。けれど核の奥には、上下を失った時の冷たさがまだ刺さっている。
「待ってろよ、最深部。俺は怖いままでも、ちゃんと戻って、また来るからな」
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