1 村
「ここはどこなの?」
「おっかしいな!? さっきまで……」
標準語圏の人間が聞けば、この二人のしゃべりは北欧訛のような発音に聞こえただろう。
「ここは、海岸なのかしら?」
ハディージャは杖を固く握りしめたまま、不安そうに隣のアフマドに訊ねた。横にいたアフマドも、不安そうにして同じ光景を見ていた。ここは、本来ならば針葉樹林、そしてその遥かな下方の混合樹林帯と村とを見下ろす山頂のはずだった。
その謎の幻は、見知らぬ星の島の海岸から見た、何も無くなった南の側の水平線。そこには、かつて島があったはずだった。
「僕はこんなところ、知らないぞ......」
「恐ろしい風景だわ」
二人とも、おとなしい控えめな性格なのだが、目の前の光景は驚きの声をあげるほどあまりに驚きに満ちたものだった.
このとき、ハディージャの持つ杖が細かく振動した。それはまるで声のような音だった。こちらの声は、二人の幼い子供の発音に比べると、したったらずなアラビア語訛のように聞こえたかもしれない。
「これは、あの大地の上における、太古の最終大戦の痕跡だ…この後、大地の上のほとんどの人間たち、つまり狭き門を通り携え挙げられた者を除いた人類と魔族たちは滅びへ向かうこととなった......たとえ、大宇宙へと逃げ去っても......」
その音が、次第に誰かの声のように変化して、目の前の幻が、さらに広がった。
「『あの大地』って? 何のことなの?」
「太古の最終対戦?」
・・・それは、誰かの記憶だった。それをこの杖が二人に見せたのだ。
「その杖を、また持ち出したのか? なにをしようとしたのだ!」
幻が突然消え、目の前はいつもの針葉樹林を見下ろす風景に戻っていた。ハディージャとアフマドが後ろを振り返ると、普段優しいはずの父と母が厳しい形相をして怒鳴っていた。おとなしい小さな二人の子供に対して、大声はふさわしくない。だが、この時の父と母はきっと必死だったのだろう。
「ご、ごめんなさい……」
ハディージャとアフマドは、二人の育ての両親ニールとカーラの剣幕に驚いた。彼らは、二人で持ち出したその杖を黙って父の腕に返した。
「また、これを持ち出したのか? そうか......この杖には二人を惑わす魔力があるに違いない……」
父親のニールはそういうと、不思議そうに何の変哲もなさそうな杖をしきりに観察した。カーラは、子供たち二人へ家に戻るように促すと、最後にニールに声をかけた。
「さあ、子供たちも見つかったし、帰りましょう」
「ああ、そうだな......この杖はどうしようか? 折ろうとしても、この杖はおれない......まるでこの子たちの秘めたる折れない意思を表しているような......この杖は、もう、カミーユブーバルさまの神殿に奉納してしまったほうがよいだろう」
確かに神殿におさめてしまえば、子供の手でその杖を持ち出すことは不可能ではあった。
「でもニール、これは元々は子供たちの傍らにあったものよ」
「それはわかっている......この二人が成人してから返してやることを考えているよ」
「そうね」
大人の二人はそう言いながら、家路についた。その後に続いてとぼとぼ歩くハディージャとアフマドは、父親に怒られたうえに、先ほどの光景に圧倒されたせいもあって、その後無言のまま家に戻ったのだった。
「ごめんなさい」
家に帰ると、ハディージャとアフマドは小さく謝ってから子ども部屋へ戻って行った。子供たちは部屋へ入る直前にふと後ろを振り向くと、普段は優しいはずの父母の目は、まだ厳しくそして寂しげに光っていた。
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ヘンダーセン家の二人の子供ハディージャ・ヘンダーセンとアフマド・ヘンダーセンは、ともに黒い瞳、褐色の皮膚、うねる黒髪、狭い鼻を持った子供だった。二人は共通した特徴を有していたが、そのどれも育ての親であるヘンダーセン家の両親とは、似ても似つかなかった。
彼らを赤子の時から育ててきた父母、ニールとカーラは、この村の外れに家を構えていた。この父母二人は、この家を含んだ広大な混合樹林・農業地域一帯にすむ、典型的な人類と同様に灰青色の目とグレーの肌を有していた。
朝になり、彼らの棲む横穴から上に穿った煙突からは、スープを煮詰める香りが、薪の匂いとともに空へ舞い上がっていた。
「ニール、そろそろ朝食ができるわ」
「そうか、もう、追加の薪は必要ないだろうか? わかった......カーラ、僕が子供たちを起こしてこよう」
時を置かず、ニールに急き立てられるようにして、幼子二人が無言のまま子供部屋からダイニングへとやってきた。だが、目の前のご馳走に二人の子供はいつもの無邪気さを取り戻した。
「おはよう、カーラ」
「ええ、おはよう」
「あ! 香草の鶏肉野菜スープだ! いい香り!」
「早く食べたい」
「さあ、早く席に着きなさい!」
「ニール、今朝は貴方が食膳の祈りを捧げて!」
「わかった! 我らを守る神にして収穫とこの星の支配者たる神、カミーユブーバルよ! 我らに今朝も食事を与えたもう! 感謝します」
ニールとカーラの間には子供が出来なかった。この村で信仰されているカミーユブーバルという牧神の教えによれば、若者は三人以上で家庭を構成し、子孫を産み増やすことが求められていた。村の人間たちはそれほどカミーユブーバルに帰依していた。彼等は、食べるものも買うものも着るものも、全てをカミーユブーバルの御印ものにこだわっていた。
ところが、ヘンダーセン家では、それほどカミーユブーバルに入れこんではいなかった。さらに、ニールとカーラの二人だけで家庭を構成しており、この星では極めて珍しかった。これは、彼ら二人が互いに今の相手だけしか受け入れられなかったせいであった。
村では、この二人は変わり者とささやかれていた。二人だけで家庭を構成したことで、今まで地域社会や神官たちから子孫を効率的に産み増やすことが出来ていないと責められもした。
そんな二人に、ハディージャとアフマドという二人の子供が突然与えられたことは、ニールとカーラにとって願ってもないことだった。ただ、ニールとカーラは誰に聞かれても二人の子供が森にいたと説明するだけで、二人の前に突然の現れた不思議な透明カプセルの中から、子供たちが飛び出て来たということは、誰にも言っていない秘密だった。
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ニールとカーラの子供ハディージャとアフマドは、髪と肌の色が違ってはいても子供には違いなく、その意味でこの地域社会でも受け入れられていた。二人の子供は、他の家庭の子供たちと一緒になって遊びまわっていたし、子供たちは全員七歳になってからは、学び舎へも一緒に通っていた。ただ、二人の子供は、ニールとカーラのこともあって、スクールカーストの中では最低に位置していた。
学び舎での勉強は、主に『生産と避難』、『倫理』、『観察描写表現』、『理科・観察分析』という学問が教えられていた。
「さて、今日の『理科・観察分析』の授業だが、今日は石、岩、木材などを観察してみたいと思う」
担任教師のゼニス・ギルバートソンはそういうと、手で持てるほどの立方体の石、岩、木材を十数個、実験台の上に乗せた。児童たちは、何が始まるのだろうと目を輝かせて実験台の周囲に集まった。
女児のスティアーが声を上げた。
「え、この石や木材の何を観察すればいいの?」
「それぞれの硬さと形とを観察するんだ」
ゼニスがそういう皆が皆がゼニスを見つめた。
「硬さと形?」
スティアーはハディージャをちらりと睨みながら、怪訝そうな顔をした。離れたところにいた男児のエリアスも不満めいた口調で続いた。
「何が面白いのさ」
「みんなの家は何でできているのかな?」
ゼニスが話題を変え、改めて子供たちに質問をすると、比較的知恵が回る男児たちが返事をした。
「杉の木だよ」
「そうさ! 木を同じ長さに切って、互いにたてかけるんだ」
「簡単だよ」
エリアスやほかの子供たちは、歓声を上げた。それにゼニスは呼応した。
「そうだ、簡単だ......簡単で、すぐ壊れる」
「簡単だから、すぐ作れるし、すぐ修繕せるよ」
エリアスはゼニスに反駁した。ゼニスはさらに指摘した。
「そうだ、簡単だからすぐ修繕せる......そして、すぐ壊れる」
「でも、それが此処での昔からのやり方だから……」
ほかの男児がエリアスに同調した。エリアスは気をよくしてさらに続けた。
「そうだよ、お父さんもお母さんもそう言って、僕たちに教えてくれているよ」
「そうか…だが、ここで言っておきたい……簡単に壊れるということは、丈夫にする工夫がないということになるんだよ」
ゼニスがそうまとめると、子供たちは黙ってしまった。それでも、エリアスが再び声を上げた。
「アフマドとハディージャは、岩の穴に棲んでいるんだぜ……家じゃないんだぜ、岩の穴だぜ」
「こいつらの家は、ネズミの穴蔵だぜ」
スティアーもまたそう言って茶化した。ハディージャとアフマドは顔を伏せていたが、それでも小さな声で、反論した。
「岩は私たちにとって、最も安心できるところなんです…」
この時、アフマドは小さな声で独り言のように言った。
『......啓典の主こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら......私は決して、ゆるがされない」
その言葉は、かつて幼い時に手に持っていたあの杖が語った言葉だった。
アフマドがその言葉を口にした時、ハディージャが小さな声を重ねた。
「私たちは岩山の中に棲んでいます……岩山の中にアーチが構成されています…...それが必須の構造出はないかと......」
「へえ、それは何のことだ?」
ゼニスは関心して、小さくなっている二人を見つめた。すると、二人はゼニスを見つめ、アフマドがゼニスに質問をした。
「ここでは、あのう......アーチを応用しないのですか?」
「アーチ!?」
ゼニスは、アフマドが「アーチ」という言葉を強調した意味を、理解できなかった。ゼニスが戸惑う様子を見て、アフマドは思わず夢中になって言葉をつづけた。
「アーチです…」
「アーチを利用する? どういう意味だ」
このやり取りに、ハディージャも夢中になって加わった。
「あのう、今日の『理科・観察分析』の授業の中には、分析があります……それなら分析の応用もあるのでは?」
「何のことだ?」
「木、岩、石を観察すれば、簡単な堅牢構造に行き着きます……つまり、石をくみ上げたアーチです」
「何を言っている?」
ゼニスがそう言ったのだが、ハディージャはがっかりしたように口をつぐんだ。アフマドも口をつぐんでしまった。此処の生活には、アフマドやハディージャが杖から教えられた『三日月の工学といわれる叡智学院の工学』の智恵は、なさそうだった。そして、二人は周囲のクラスメイト達が、蔑みと嫉妬を含んだ怒りの視線を向けていることに気づいた。「スクールカーストの最下位の自分たちは、もうこれ以上、この授業で口を利くべきではない」と、ハディージャとアフマドは悟ったのだった。
ゼニスは、全員が黙りこくってしまったことに気づいたものの、その沈黙の意味を理解しなかった。ハディージャとアフマドは最下層の人間として沈黙すべきだと悟ったのであり、ほかの生徒たちはハディージャとアフマドに対して、静かな怒りと憎しみを向けていた。
そして......ちょうど、そこで授業の終わりを知らせる鈴が鳴った。
「では、今日の授業を終えます」
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別の日には、別の重要な授業があった。それは「安全指導・避難訓練」だった。
「みんなに聞きたい」
安全指導・避難訓練の授業となり、担任教師のゼニスはある魔獣のミニチュアを手にした。
「この魔獣は何という名前だろうか?」
「しらない……」
スティアーやほかの児童たちは、躊躇いながらもそう答えた。ゼニスは、少しがっかりしたようにつづけた。
「そうか、これはこの村の周囲の針葉樹林のさらに外側の湿地帯の池から出入りして徘徊している魔獣だ」
「まさか、牛鬼?」
エリアスが、思わず口に出した言葉は恐ろしい指摘だった。ゼニスはそれを認めるように、静かに追認した。
「そうだ、牛鬼だ」
「そ、その怪物……僕は見たことがあるぞ! 僕たちを守る魔獣のはずなのに、そいつは僕の従姉妹たちと家族を村の外へ引きずって行ったんだ」
エリアスは顔を引きつらせ、さらに震え始めた。ゼニスは慌てて彼に術を掛けて眠らせてしまった。
ほかの児童たちは、その光景に一様に表情を引きつらせていた。
ゼニスは気を取り直して、ふたたび口を開いた。
「みんなも知ってほしい……牛鬼は恐ろしい存在だ......だが、基本は村を守ってくれる魔獣なんだ......本当はまずこの映像を見てほしかったんだが……」
彼はそういうと、詠唱とともにある映像を白壁に投影した。
それは、皆が見たことのない巨大な熊のような、獅子のような怪物の数頭が、針葉樹めがけて突進してくる姿だった。それ等が牛鬼の領域に差し掛かると、池や沼から大量の牛鬼たちが出現した。
双方は、そのまま激突し、牛鬼たちはその鋭い牛角と牙とつま先とによって、たちまち怪物たちを引き裂いた。彼らはそのまま怪物たちの肉にたかるようにして、怪物たちを喰い尽くしてしまった。
牛鬼たちが沼や池に姿を消すと、そこにはきれいに食べ尽くされた怪物の骨だけが残っていた。
「皆も分かったように、牛鬼たちは、本来外からの怪物を撃退する守り手のはずなのだ......それは、この牛鬼という魔獣たちが、われらの守護神カミーユブーバル様に飼われている家畜の一部だからだ。しっかり管理されていれば、先ほどの映像のように、怪物を撃退してくれる」
ゼニスの説明にスティアーが当然の質問をした。
「しっかり管理して居れば……ということは、しっかり管理されていないこともあるのですか?」
「そうだ、我々の一人だけでもカミーユブーバル様に対して従順でなくなった時、カミーユブーバル様は我々に向き合わなければならなくなるらしい......そうすると、管理がおろそかになって、牛鬼たちが勝手な行動を起こす、とされている」
ゼニスの説明にスティアーがうなずくようにつづけた。
「そうか、じゃあ、私たちは、私たちの守護神カミーユブーバル様を大切にしなければならないのね!」
「そうだ!」
ゼニスは、彼のクラスの児童たちが飲み込みの早い頭の良さを持っていることに、安どした。
「ただし、牛鬼の姿を此処で学んだのだから、この姿の一部でも見かけたら、すぐ逃げるのだぞ……牛鬼たちは、私たち人間を襲うことがある。やはり恐ろしい存在なのだからな」
「でも、先生、私たち、実際に牛鬼を見たことはありませんでした.......だから、今まで、牛鬼がどんなものか、分からなかった......」
スティアーの指摘はもっともだった。エリアス以外、彼らが実際に牛鬼を見る機会は、ほとんどないはずだった。ゼニスはそれを思い出しながら、説明を重ねた。
「そうだね……確かに、牛鬼たちは潜んでいて、危険が迫った時や狩の時にだけ姿を見せる……だから、ここで牛鬼のミニチュアを見せたのだ......細かいところまで覚えておいて、遠くからでも牛鬼を見出せるようにしておかないといけない......さもないと、逃げられないぞ……いや、姿を見て逃げ出せたものは少ないんだ......だから、少しでも生き残れるように準備しておかないといけない」
ゼニスはそういうと、今度は怪物と言われる魔獣たちの説明をし始めた。
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ハディージャとアフマド、そして他の子供たちは成長していった。彼らはそれぞれが10歳前後となり、あと数年で成人式を迎えるころとなった。ハディージャ達娘らは美しく成長し、アフマドたち少年らは逞しくなった。そんな彼らは、春の新緑の季節を迎えてピクニックに出かけたのだった。
このときのピクニックは、皆にとってとても馴染みのある岩山の頂上だった。
「ここから振り返ると針葉樹林が見渡せるねえ」
「そう......その向こうに金剛樹林帯と私たちの村がみえる」
「私たちが向かっていた方向には、針葉樹林帯の外の湿地帯が見える……あの湿地帯にはいくつも池や沼地があるね」
「牛鬼たちがあそこにいるのね」
「牛鬼なんて、いねえじゃねえか!」
スティアーやエリアスなど多くの子供たちが不安そうな顔をした時、ディンゴという男児とその取り巻きたちが威勢のいいことを言った。
「そうさ、そんな話、怖くないぜ」
「カミーユブーバル様が管理しているというけどよ、何処で管理しているというんだよ」
ディンゴたちが、牛鬼について彼らの神を冒涜するような嘲りの言葉を吐いた時だった。湿地帯の方から、不気味に低く響く咆哮が聞こえた。それ等は次第に様々な音程の方向の重なりになって、岩山一帯を覆い始めた。同時に、周囲に霧が立ち込めた……いや、実際には牛鬼たちの身体から立つ大量の湯気だった。
これには、全員が一斉に恐怖に襲われて顔を歪ませた。
不意に岩山の麓の霧の間から、かつて授業で教えられた牛鬼の巨大な姿が何頭も見え隠れした。それ等は明らかに岩山の頂上にいた少年少女たちを狙って、岩山を登り始めているに違いなかった。
「ねえ、あれって牛鬼なの?」
スティアーがアフマドの顔を見た時、アフマドは不安そうな声を出した。
「ぼ、僕たちを襲いに来るんじゃないの?」
「は、早く逃げないと......」
ハディージャも、そう言ったのだが……ところが、誰もが恐怖で腰を抜かして動けなくなっていた。
「俺たちは愚弄されたぞ」
「愚弄した奴、出てこい」
「愚弄した奴を、許さないぞ」
「愚弄した奴を、俺たちは喰う」
頂上は、こう怒鳴り続ける牛鬼たちですっかり囲まれてしまった。
「ディンゴたちは確かに牛鬼を嘲った……でも、あんな嘲りだけで牛鬼たちが子供全員を相手に襲い来るのか?」
アフマドは思わずハディージャの顔を見つめた。ハディージャもまた、不安いっぱいだった。ただ、ハディージャの心にふと、杖に言われていた言葉が浮かんだ。
「わたしはけっしてあなたを見捨てない」
ハディージャは、震える手を合わせて天を仰いだ。
「グルルル、まずはお前を喰ってやる」
牛鬼たちの口から出る唸り声は、ディンゴたちに向けられていた。彼らは少しばかり人間の顔を見分けられるようだった。アフマドは反射的に手許の石を牛鬼めがけて投げた。それと同時に、カミーユブーバルの神殿から光のようなものが発せられ、その石を加速させた。極限まで加速された石は、一頭の牛鬼をしたたかに打ちのめした。
「グルルルウォー」
「おまえ、やったな! お前、殺す!」
倒れた牛鬼を見た仲間の牛鬼たちは、怒ってアフマドを睨み、全員が寄ってたかってアフマドを捕まえようとした。アフマドはやっとのことで逃げ延びたのだが、したたかに膝を打って転がらざるを得なかった。
「牛鬼........」
アフマドはそう言って牛鬼たちを恐怖のこもった目で見つめた。周囲では、すでに子供たちが次々に牛鬼たちに捕らえられつつあった。
「きゃー」
「いやー」
「いたいー」
普段でも、村が怪物たちに襲われることがあった。そんな時は必ず放牧主のカミーユブーバルが来るのだが、それでも間に合わずに何人かの子供が喰われたことはあった。だがこれほど大量の怪物が現れることはなかった。今は多数の魔獣が現れて子どもを襲っていた。それも管理されているはずの多数の牛鬼たちが、禁じられているはずの杜の中にまで入り込み、岩山を囲むほどの数になって襲い来ていたのだった。
しかも、通常の魔獣はすぐに獲物を食べてしまうのだが、牛鬼たちはすぐに子供たちを食おうとはしていなかった。どうやら、彼らは獲物をもてあそんでから、徐々に食べ始めるようだった。ハディージャとアフマドも他の子供たちと同様に彼らの両手でもてあそばれながら、逃げまどうしかなかった。
「おーい」
「少年たち、少女たち、何処にいるんだ?」
この時、ようやく村から駆けつけた大人たちの声が、岩山の下から聞こえた。皆、少年少女たちの親たちだった。その内の一人が、農作業に用いる長距離種まき機をもちいて、力任せに金属の礫を大量に牛鬼の群れめがけて投げ込んだ。牛鬼たちはその音に驚いて、両脇へのけぞった。
「今だ、みんな逃げろ!」
隙をついて、少年少女たちは一気に岩山を駆け下り始めた。
「ウォー、そうはさせない! お前たちだけは逃がさない!」
後方にいた少年たちが牛鬼の一頭に行く手を遮られ、ふたたび摘まみ上げられた。それは先ほど牛鬼たちを嘲ったディンゴだった。
その様子を目にしたのであろう、ディンゴの父親らしい男が手にしていた鋤のようなものを手にして、牛鬼めがけて突進した。
「この化け物め!」
「ぐぇー、ぐぇー」
牛鬼はふくらはぎをしたたかに突き刺され、もんどりうって倒れた。だが、安心したのもつかの間、別の牛鬼たちがそこに押し寄せたうえ、気を失ったはずの牛鬼もまた再び動き出した。
「牛鬼ども! なにをしている!」
この時、ようやく恐ろしい混乱の中を治める者が突然現れた。それは、牛鬼たちを放牧し管理している放牧主カミーユブーバルだった。彼はこの辺りの守り神だった。
「この馬鹿ども! 俺様に隠れて、よくもこんなことをしてくれた! ただでは済まさんぞ!」
彼は鋭い叫び声とともに、牛鬼たちを一瞬にしておとなしくさせた。
「うへぇ」
「うへぇ」
牛鬼たちは、全員が頭を抱えてひれ伏した。カミーユブーバルはそこに怒りに任せて雷を叩き落した。
「この野郎、人間に! 俺様のものに手を出したな!」
「ぐえべええ」
「グァ、おらたちが悪かっただあ」
「ぶ、ぶたねえでくでえ!」
牛鬼たちは、飼い主の怒りにすっかり怯えてしまった。こうして、全ての牛鬼たちはようやくに岩山から湿地帯へ帰るのだった。
「ほら、自分のねぐらに帰るんだ! 帰れ! ぐずぐずするな!」
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「あの石を投げたのは誰なんだ......俺様の神殿の宝物庫から不思議な力が、あの石をめがけて飛んでいったんだぞ」
牛鬼たちが帰っていくのを確認すると、カミーユブーバルは解放された子供たちを一人一人眺めながら、そう独り言を言った。




