第九話 写しは、三つございます
僕の声は壇の下まで届いたと思う。
言ってしまった。
千人の前で、英雄が、この水が大丈夫かどうか分からないと言ったのだ。
足が震えて、立っているのがやっとだった。
前のほうの人たちが、後ろを振り返った。振り返られた人たちが、また後ろを振り返る。僕の言ったことが、人から人へ、広場の端まで伝わっていくのが見えた。
それが端まで届いたとき、広場にざわめきが戻ってきた。来たときとはまるで違う音だった。
怒っている声だった。
「英雄様が、分からないだと?」
「じゃあ、この水を飲めと言ったのは誰なんだ!」
その怒りが僕に向いているのか、別の誰かに向いているのか、僕には分からなかった。
でも、このまま黙っていたら、また全部、僕一人のせいにされる。
僕は、すぐそばまで来て止まっていた役人のほうを向いた。
「あの日、読まれなかった答えを、読んでください」
声が裏返った。それでも、言った。
「本陣で水のことを聞かれたとき、僕が最初に何と答えたのか。書き留めてあるはずです。全部、読んでください」
役人はしばらく僕の顔を見ていた。それから、広場の怒った顔をぐるりと見回した。
この怒りが自分に向く前に、別の誰かに向けてしまいたい。役人の目は、そう言っているように見えた。
役人は、懐から、もう一枚、別の紙を取り出した。初めから、持ってきていたのだ。
「皆様、お静かに願います」
役人は、広場に向かって声を張り上げた。
「英雄様を追放いたしましたのは、手違いでございました。どこで手違いがあったのかを、今から読み上げます」
「追放? 逃げたんじゃなかったのか!」
広場のどこかで誰かが声を上げた。役人はその声には答えず、追放を読み上げたときとまったく同じ調子で、紙を読みはじめた。
「本陣にて、英雄殿にお尋ねした書類にございます
「問い。鳴る火のかすを水に流せば、水も魔物よけになるか。答え。『……危ない、と思います』」
広場がざわりと揺れた。
「問い。効くのか効かんのか、はっきり申せ。答え。『水にも、たぶん』」
神官が目を開けた。
「その先は、読まずともよろしい」
役人はやめなかった。
「続いて、英雄殿を追放した日の、広間での書類にございます。英雄殿は、『最初に危ないと言った』と申されました。それに対して、神官殿は、こう申されました。『書き留めたものの中に、そのような言葉はございません』『英雄の名を、お返しなされ』と」
読み終えて役人は紙を下ろした。
息が止まった。
本陣で、僕は最初に「危ない」と答えていた。それが、ちゃんと書き留めてあったのだ。
それなのに神官は、書き留めたものには無いと言い張って、僕の言ったことを無かったことにした。
嘘だったのだ。民の怒りの行き先を、僕一人にするための嘘だった。
そして役人は、全部知っていながら、今日まで黙っていた。黙っていたのに、今になって自分だけ助かろうとして、神官の嘘を読み上げたのだ。
神官が、役人の手の紙へ、つかみかかるように手を伸ばした。
「それを、よこしなさい! その書類は、燃やしたと言ったではないか!」
役人は、紙をくるくると巻いて、脇へ寄せた。
「写しは、三つございます」
神官の手が宙で止まった。
「あとの二つは、別々の場所にしまってございます。この一枚を破いても、同じことでございます」
燃やしたというのは、役人の嘘だったのだ。
神官の顔から、血の気が引いていった。
広場の前のほうにいた人が、今読まれた言葉を、後ろの人に伝えた。聞いた人がまた後ろへ伝えた。
後ろのほうで、誰かが神官の口まねをした。
「書き留めたものの中に、そのような言葉はございません」
言い方までそっくりだった。まわりの何人かが声を上げて笑った。
「違う!」
神官が、さっきよりもっと大きな声を出した。
「私は、国のためにやったのだ! 民の怒りをあのまま放っておけば、国が持たなかった! 誰かが責めを負わねばならなかったのだ!」
「だから、危ないと言った英雄様に、全部かぶせたのか!」
壇の下から、誰かが怒鳴り返した。すぐに別の男が続けた。
「村を捨てて逃げてきたんだ! うちの子は、変わり水で死んだんだぞ! 英雄様のせいだと言われたから、ずっと英雄様を恨んできたんだ! それが嘘だったのか!」
別のところから、女の人の声が重なった。
「都の井戸だって同じだよ! こんな水にしたのは、誰なのさ!」
神官は、何か言い返そうとして、口を開けたまま止まった。
壇の下で、誰かが僕の椀を指さしていた。別の誰かは、白い衣の神官を指さしていた。
広場の怒りは、もう僕には向いていなかった。神官に向いていた。
*
「英雄様が請け合ったっていう火筒だって、嘘っぱちだ!」
広場の横のほうから、別の声が上がった。
何人かの男たちが、人をかき分けて壇の前へ出てきた。服は土で汚れていて、王都の人ではないことがひと目で分かった。先頭にいたのは、峠の手前の集落で僕に包みと水の袋を押しつけた、あの男だった。
「峠下から来た者だ! うちの若いのが、峠道で大きな魔物に殺された。火筒は、まるで効かなかった!」
あの男が壇の上の僕を見上げた。ギドと峠へ行った旅の者が英雄だったことを、もう知っている目だった。門の外で、僕の名乗りを聞いていたのだろう。けれど男は、僕には何も言わずに、目をそらした。
「おれたちは役所に訴えに来た! なのに、あの商人に『撃ち方が悪かった』と言われて、金を握らされて追い返されたんだ! だから帰るふりをして、式の日まで門の外で待ってたんだ!」
男たちが指さしたのは、役人の後ろに立っていた、恰幅のいい男だった。
「あいつは、前にも効かなかったって話があったのに、撃ち方が悪いって言って、英雄様が請け合った品だと売り続けてたんだ!」
恰幅のいい男の顔から、笑いが消えた。
「な、何を言うか。田舎者の言いがかりだ。私は、国に言われたとおりに、品物を納めて売っただけで……」
「さっき英雄様が言っただろう! 火筒は大きい魔物に効かないって!」
広場じゅうの目が、恰幅のいい男に集まった。
男は、あわてて役人のほうを振り返った。
「お役人様、何とか言ってください! 火筒の商いを私に任せたのは、あなたではありませんか!」
役人は男のほうを見なかった。
「その者の商いは、その者のものでございます。わたくしは、書類を書いただけでございます」
男の顔が赤黒くなった。
「——英雄様が逃げたと町に言いふらすのに、うちの者を使えと言ったのは、あなたでしょう! 峠道で効かなかったという報せも、とうにお伝えしてありますよ! 儲けの分け前だって、毎月お渡ししておりますでしょう!」
広場がしんと静まり返った。
役人の顔が初めて固まった。
恰幅のいい男は、自分が何を言ってしまったのか、言い終わってから気がついたようだった。口を押さえたけれど、もう遅かった。
今の言葉は千人が聞いていた。
*
壇の端で椅子が鳴った。
ベズナさんが立ち上がっていた。
追い出された日も、広間に呼び戻された日も、ずっと膝の上の書類ばかり見ていたベズナさんが、初めて前へ出てきた。
「兵を」
ベズナさんが短く言った。
広場の四隅から、兵が駆け寄ってきた。
王都の兵を預かっているのは戦掛だ。
「戦掛として申し渡す」
ベズナさんの声は、広場の端まで通った。
「神官。英雄殿の申し立てを偽り、民を欺いた罪で、捕らえる」
「商人。大きな魔物に効かぬと知りながら、英雄殿の名を使って火筒を売り、人を死なせた罪で、捕らえる。商人の手元にある火筒と、それで得た金は、すべて国が取り上げる」
「役人。神官の偽りも、火筒が大きな魔物に効かぬことも知りながら黙り、替え玉に都の水を飲ませて民を欺こうとし、英雄殿が逃げたと町に偽りを流させ、商人から金を受け取った罪で、役を解いて、捕らえる」
ベズナさんは、そこで一度、広場のほうへ向き直った。
「それから。峠の上の水場へかすを捨てさせると決めた方々のことも、今日のうちに王のお耳に入れる。都の井戸を駄目にしたのは、英雄殿ではない」
兵が二人ずつ、三人の両脇に立った。
「待て、私は国のために……!」
神官は最後までそう叫んでいた。白い衣が、兵に両腕をつかまれて、人ごみの中へ引きずられていった。
恰幅のいい男が叫んだ。
「放してくださいよ! 私は、言われたとおりにしただけですからな! 英雄様の名前をつけて売れと言ったのは、国のほうですよ!」
追い出された日に、英雄様の名前をつけて売ると自分で言った男が、今は国のせいにしていた。
恰幅のいい男は、足を突っ張って、行くまいとした。太い指輪をはめた手で兵の腕をつかんだけれど、振りほどかれて、膝をついた。そのまま、兵に引き立てられていった。
役人だけは、しばらく何も言わなかった。
兵に腕を取られたとき、役人の口から、初めて大きな声が出た。
「写しを残したのは、私でございます! 私がいなければ、今日のことは何ひとつ明かされなかった! 私だけは、ずっと、責めを負わされる日のために備えてきたのでございます!」
言い終えたところで声がかすれた。役人の手から写しが落ちて、壇の上を滑った。
兵はそれを拾わなかった。役人は、両腕を取られたまま、壇を下りていった。一度だけ僕のほうを振り返った顔は、もう、何の表情も無い顔ではなかった。
広場の隅では、僕の替え玉として用意されていた痩せた男が、人ごみにまぎれて逃げていくのが見えた。
壇の上には、僕と、ベズナさんだけが残った。
*
壇を下りるとき、ベズナさんが横に並んだ。
追い出された日と違って、ベズナさんは、ちゃんと僕を見ていた。
「あの日、国はあなたを縛り首にすると決めていた。追放に変えさせるのが、私にはやっとだった」
「火筒に許しを出したのも、私だ。戦のあいだ、兵に持たせる物だと言われて判を押した。英雄殿の名をつけて売り物にされるとは、思っていなかった」
「伏せ火の掘り返しと、峠の道の直しを止めたのも、私だ。どこに埋まっているか分からない伏せ火を掘れば、掘った者が死ぬ。峠の道の崩れたところのわきにも、戦のときの伏せ火が埋めてある。直すには土を掘る。止めることしか、私にはできなかった」
「今日まで、私の言葉だけでは、何も動かせなかった。……遅くなって、すまない」
ベズナさんは、本陣で一度、僕の命を助けてくれた。あの広間でも、黙って座っていたのではなかったのだ。
この人は、二度も僕の命を助けてくれていた。
お礼を言おうとしたけれど、声がうまく出なかった。そのあいだに、ベズナさんは先に歩いていってしまった。
僕は壇の下で立ち止まった。
台の上には、僕が置いた椀が、まだ残っていた。
誰もその水を飲まなかった。
あの三人がどうなるのかを、僕は三日後、この同じ広場で見ることになる。
※お役を解かれた者の申し立ては、書き留めますが、効力はございません。




