第八話 分かりません
王都までは、村には寄らず、川沿いの道を十一日かけて下った。そのあいだは、集落の男がくれた包みを少しずつ食べて、あとは川の水で食いつないだ。変わり水だと分かっていても、ほかに飲める水は無かった。
王都の門の外には、追い出された日よりも、さらにたくさんの人が寝泊まりしていた。石垣に沿って、同じような形の荷物がずらりと並んでいる。
追い出されたあの日、空っぽの桶の陰で丸くなって眠っていた子どもは、もういなかった。
近くで寝ていた男に聞くと、あの子は変わり水を飲み続けて熱を出し、十日ほど前に死んだと言った。
桶だけが、あの日と同じ場所に置いてあった。
僕は、門の前まで歩いていって、大きく息を吸った。
「相馬剛です。英雄と呼ばれていた者です」
声を張り上げた。門の外で寝ていた人たちが、何人も顔を上げてこちらを見た。
門番が、すぐに槍を下ろして、僕の腕をつかんだ。もう一人が僕の後ろへ回り込んだ。
名乗れば縛り首だと、言われている。分かっていて名乗った。
黙っていたら、別の誰かが英雄として壇に立って、変わり水を飲む。それを見て、王都のみんなが安心して、あの水を飲む。
膝が震えていた。歯が鳴りそうになるのを、奥歯を噛みしめてこらえた。
殺される。
分かっていてここまで来た。それでも、怖かった。
門番に腕をつかまれたまま、門の内側へ引っぱっていかれた。門の外の人たちが、まだこちらを見ていた。あの人たちが、僕の名乗りを聞いていた。
門の内側の番小屋で、日が傾くまで待たされた。それから、広間へ連れていかれた。
広間までの道には、旗が何本も下がっていた。
旗には絵が染めてあった。本陣で僕が描いた、伏せ火の絵だった。人を殺す道具の絵だ。国はそれを勝った印にしていた。
*
広間は追い出された日のままだった。
あの年のいった役人がいた。白い衣の神官も、前と同じ場所に立っていた。役人の後ろには恰幅のいい男もいた。
広間の隅には、見たことのない痩せた男が、居心地悪そうに立っていた。背格好が僕に少しだけ似ている。
触れを聞いたときに思ったとおりなら、あれが、英雄の替え玉として用意された男なのだろう。
役人が筆を止めて僕を見た。目が一度だけ、大きく見開かれた。本当に本人なのかと、確かめるような目だった。
恰幅のいい男が顔をしかめた。
役人と恰幅のいい男が、小声で話しはじめた。小声のつもりらしかったけれど、静まり返った広間では、僕のところまで全部聞こえた。
「いまさら替え玉を立てても、本物がここにおりますからな。門の外の者たちも、本物の名乗りを聞いております」
恰幅のいい男の声だった。
役人が低い声で返した。
「縛り首にすれば、英雄が捕まったと町じゅうに広まります。捕まった英雄が壇で水を飲むはずがないと、民は思うでしょう。そうなれば、式が台無しになります。……では、本物に頷いていただきましょう。あの方は、何を聞かれても頷く方ですから」
僕に聞こえていても、構わないのだろう。どうせ頷くだけの男だと、思われているのだから。
役人がこちらへ向き直った。顔は、追放を言い渡したあの日と同じ、何の表情も無い顔に戻っていた。
役人と神官がそろって頭を下げた。
広間にいた十数人も、同じ速さで頭を下げた。追い出される前、僕がこの広間に入るたびに全員が立ち上がった、あのときと同じ速さだった。
二年前、「役に立たない者は、要らない」と言った、顎の白い髭を胸まで垂らした男も、その中にいた。
役人が先に口を開いた。
「お戻りくださいませ、ソマ殿。あのときのことは、手違いでございました」
手違い。
あの日、僕を縛り首で脅して、何も持たせずに王都から追い出したことが、手違い。
役人の声は、追放を読み上げたあの日から、一つも変わっていなかった。
「あの日の申し渡しに、行き違いがございました。あれは、こちらの落ち度でございます。戦が終わりましたのは、英雄様あってのことでございます」
戦が終わったときにも、同じ言葉を聞いた。言ったのは、戦勝の祝いの席の、国の偉い人たちだった。そう言った人たちが、手柄を全部持っていったのだ。
神官がそのあとを継いだ。
「名を、お受け取りなされ。あなたは、英雄でございます」
言い終わると、神官はそのまま目を閉じた。
英雄の名を返せと僕に言ったのも、この人だった。声の出し方まで、あのときのままだった。
役人が続けた。
「追放の一件は、無かったことにいたします。門も、どこも、お通りいただけます。位もお受けくださいませ。館もご用意しております。民へは、こちらから改めて触れを出します。英雄様のお名は、元のとおりに」
恰幅のいい男が前へ出てきた。追い出された日に、僕を笑っていた男だった。
「火筒の商いを預かっております。英雄様のお名前のおかげで、よその国からも、売ってくれと言ってきておりまして」
男は最後まで笑ったままだった。
火筒。
ギドを死なせた火筒で、この人は儲けている。大きな魔物には効かないのに、英雄様が請け合った品だと言って、売り続けている。
役人が台の上に載ったものを示した。布が掛けてあって、中身は言われなかった。位や金のような物なのだろう。
僕は手を出さなかった。ギドを死なせた火筒で儲けた金かもしれないと思ったら、手が出なかった。
「お受け取りいただけませんと、こちらが困ります。三日後に、広場で式がございます。英雄様には、そこで都の井戸の水を飲んでいただきます。そのための、お支度でございますので」
「……なぜ、今になって僕を」
「都の井戸が、変わり水になりました。川の下のほうまで、来てしまったのです」
あの日、王都の門の外で、川の水は上から下へ流れると思ったのを、僕は覚えていた。この広間の人たちは、それを甘く見ていたのだ。
役人はそこで一度言葉を切った。
それから、一つだけ言い足した。
「水が飲めぬとなれば、民はよその水を求めて、壁の外へ出ていきます。壁の外には魔物が出ます。ですから、英雄様に、この水は安全だと民へお示しいただかねばならないのです」
やっぱりだ。
僕を迎え入れたのは、許したからじゃない。英雄の名前で、王都の人たちに変わり水を飲ませるためだ。
ベズナさんは、あのときと同じ席にいた。膝の上に書類を置いているのも、同じだった。
僕のほうは見ないまま、頭だけ下げた。
*
館に入れられた。門も、どこも通れると言ったくせに、式までのあいだ、外へは一歩も出してもらえなかった。世話をする人が二人ついて、二人とも、僕の目を見ないで話した。
出された水は澄んでいて、何の味もしなかった。役所の人たちだけが飲む、遠くから運ばせた別の水なのだと、世話の人の一人が言った。ご飯は温かいものが一日三度出た。寝台は柔らかかった。追い出される前と、同じだった。
でも、眠れなかった。
目を閉じると、斜面の下で聞いた火筒の音がした。一度きりで、それきり鳴らない音だった。
眠れないまま横になっていると、本陣で聞かれたときのことが、少しずつ思い出されてきた。
誰に、いつ聞かれたのかは、出てこない。でも、自分が何と答えたのかは、順番に出てきた。十いくつかあった。
二日たつと、体が少しだけ戻ってきた。館の階段を、途中で止まらずに上がれるようになった。
式の前の晩、世話の人の一人が、戸口から声をかけてきた。
「明日の段取りを、お聞きになりますか」
「……はい」
段取りは短かった。壇に上がって、椀を受け取って、水を飲んで、渡された紙に書いてあるとおりに読み上げる。この二年で、字だけは少し読めるようになっていた。
手の震えは止まらないままだった。
*
式の日は、朝から人の足音が絶えなかった。
広場には、千人が集まっていると言われた。とても数えられる数ではなかった。
壇の下から見上げると、人の顔が、広場の端までずっと並んでいた。
これほどたくさんの人に顔を見られるのは、初めてだった。この二年、僕の前にいる人は、いつも数えられるくらいの人数だった。
壇に上がった。自分の足で歩けたし、手すりにもつかまらなかった。
壇の上には、役人と、白い衣の神官と、恰幅のいい男がいた。ベズナさんは壇の端の椅子に座って、あの日と同じように、膝の上の書類を見ていた。
役人が、広場に向かって声を張り上げた。
「英雄様が、都の井戸の水をお召し上がりになります。これをもって、皆様には安心していただきます」
前のほうの人たちが、少し前へ詰め寄った。
役人が僕に椀を差し出した。
「都の井戸の水でございます。どうぞ、お召し上がりください」
それから、紙を一枚出して、僕にだけ聞こえる声で言った。
「このあと、ここに書いてあるとおりに読み上げてください。『この水は安全です。英雄が請け合います』と」
僕は椀を両手で受け取った。片手ではこぼしてしまいそうだった。
受け取った水は透きとおっていた。あの村の井戸の水と、見た目は何も変わらない。匂いもしなかった。
紙のほうは受け取らなかった。
役人は、しばらく紙を差し出したままでいた。それから、黙って手を下ろした。
広場が静かになった。人々の服の擦れる音が、前から後ろへ順に止んでいった。
僕は椀を持ったまま立っていた。口もつけなかったし、飲めないとも言わなかった。
下のほうで誰かが咳をした。
椀のふちが指のところで少し濡れた。手が震えているせいだった。
千人のうちの誰も動かなかった。みんなが僕が飲むのを待っていた。
役人が一歩だけ近づいて、止まった。
怒ってもいい場面だと思う。
騙されて、罪を着せられて、追い出されて、今度はまた利用されようとしている。
でも、怒りより先に、思い出したことがあった。
本陣で頷いていたのは、殺されたくなかったからだと、ずっと思っていた。
違った。最初の一度はたしかにそうだった。でも、そのあとも頷き続けたのは、殺されたくなかったからじゃない。
この扱いを、失いたくなかったのだ。
英雄様と呼ばれる暮らしを。会社では誰にも覚えてもらえなかった名前を、みんなが呼んでくれる暮らしを。
だから僕は聞かれるたびに頷いた。頷けば、また英雄様と呼んでもらえたから。
ここで飲めば、あの広間のときと同じだ。頷いて、済ませて、またここに置いてもらえる。
僕は、椀を、壇の上の台に置いた。両手でそっと置いたのに、ふちが当たって、かちりと音が鳴った。
役人が何か言いかけて、やめた。
僕は息を吸って、吸いきる前に、広場のほうを向いていた。
「二年前、僕はいきなりこの国に呼ばれました
「『役に立たない者は、要らない』と言われて、殺されかけました。だから、思い出せることを、必死に思い出しました
「子どものころに見た本のことです。絵ばかりの本で、説明は一行も読んでいません
「だから、たぶんできると思います、としか言えませんでした。それがあとでどうなるのかも、考えていませんでした」
広場の誰も口を挟まなかった。僕は続けた。
「聞かれたことには、全部答えました。十いくつか、あったと思います
「そのうち、形になったのは四つです
「伏せ火と、変わり水と、火筒。この三つで、人が死んでいます。残りの一つは、数の書き方です
「数の書き方は、今、王都の店で使われていると聞きました。でも、あれには僕の名前が出ていません。人が死んだ三つにだけ、英雄様の名前がついています」
前のほうで誰かが短く声を上げた。
横目に見ると、役人は紙を持った手を下ろしたまま動かず、神官は目を閉じていた。恰幅のいい男だけが、しきりに額の汗を拭いていた。
「水にも効きますか、と聞かれたときは、危ないと答えました
「そのあとで、たぶん、と言い直しました。そう言えば、喜んでもらえると思ったからです
「そのあと、誰がどう決めたのか、僕は知りません。決める場には、一度も呼ばれていません
「僕が言ったのは、それだけです」
声が震えた。止めなかった。
「峠の道で、荷運びの若い人が一人、火筒を持ったまま、大きな魔物に殺されました。英雄様が請け合った品だと、信じて買ったものでした
「火筒は、大きな魔物には効きません。僕はそのとき、すぐそばにいました。そして、怖くて、声を出せませんでした」
広場はまだ静かだった。
「この水が、飲んでも大丈夫かどうか」
僕は千人の顔を見渡した。
「分かりません」
※式にてお示しした水は、都の井戸のものでございます。お飲みになるかどうかは、みなさまのご判断にお任せしております。




