第七話 その頃、王都では(二)
式まであと五日に迫った朝。
年のいった役人は、屋敷から役所へ向かう途中で、北の井戸の前を通った。
井戸のまわりには、桶を提げた人たちが長い列を作っていた。汲み上げた水は苦い。それでも、ほかに、ましな水を汲む所が無いのだ。列の中には、青い顔で桶にもたれている女もいた。
役人のすぐ前を、樽を積んだ荷車が一台、列のわきを通って役所のほうへ進んでいった。
「あれは、どこへ行く水だい」
列の中の女が誰にともなく聞いた。
「役所だよ。お役人様がたは、遠くの泉から運ばせた水を飲んでるんだとさ」
答えたのは、女の後ろに並んでいた男だった。男は、汲んだばかりの自分の桶を持ち上げると、荷車に向かって中身をぶちまけた。
苦い水は樽に当たってはね返り、荷車のそばを歩いていた役人の裾を濡らした。
「こっちは、これを飲んでるんだ!」
列のあちこちから、同じような声が上がった。荷車の御者は振り向きもしないで、馬を急がせた。
役人は立ち止まらなかった。濡れた裾を払いもしないで、そのまま役所への道を歩いた。
民の怒りは、もう英雄一人には向いていない。井戸に向き、役所に向きはじめている。式までもたせねばならなかった。
役所に着くと、表の門のあたりが騒がしかった。役人は裏の戸から部屋に入った。書類を広げたところだった。
「どうなっているんです、峠の手前の集落の連中は!」
役人の部屋の戸を開けるなり、恰幅のいい男が怒鳴った。前に来たときのように、笑ってはいなかった。
「役所の前まで押しかけてきておりましたよ。まったく、朝から騒がしいったらない。峠の手前の市じゃ、買った火筒を返しに来る者まで出ておりまして」
男は椅子にどかりと腰を下ろした。
「荷運びの若いのが一人、峠道で大きな魔物にやられて死んだそうで。持っていた火筒が、まるで効かなかったと騒いでおります。英雄様が請け合った品のはずだ、話が違う、と」
役人は書類から顔を上げた。
「死んだのは、どこの者ですか」
「さあ。十七かそこらの荷運びだそうです。母親と妹がいたとか。名前までは聞いておりません」
男は面倒くさそうに手を振った。
役人が続けて聞いた。
「それで、どうなさるおつもりです」
「どうもしませんよ。集落の者には、撃ち方が悪かったのだと言って帰しました。騒ぎが大きくならないよう、少し握らせてもおきました。安いものです」
男は、指輪をはめた指で机をとんとんと叩いた。
「今、大きい魔物に火筒が効かないなどという話が広まったら、商いが止まってしまいます。式が終わるまでは、何としても黙らせておかねばなりません。式で英雄様のお名前がまた立てば、英雄様の品も、また売れますからな」
役人は窓の外へ目をやった。
ちょうど、集落の男たちが役所の門を出ていくところだった。どの男も日に焼けていて、足には乾いた泥がこびりついていた。
一人だけ、門をくぐる前に足を止めて、役所の建物を振り返った。握らされた手を、開かないままだった。
それから、ほかの者のあとを追っていった。
恰幅のいい男は、火筒が大きい魔物に効かないことを、ひと月も前から知っていた。
知っていて、「英雄様が請け合った品」として売り続けたのだ。そのあいだに、火筒を信じて峠を越えようとした若者が一人、死んだ。
役人は今度も書類には書かなかった。ただ、十七かそこらの荷運びが一人、峠道で死んだことだけは、頭の中に書き留めておいた。
*
同じ日の昼、役所の裏の部屋に、一人の男が連れてこられた。
三十くらいの、痩せた男だった。王都の市で荷を運んで暮らしていた男で、背格好が、あの英雄に少しだけ似ていた。
式の壇に立たせる、英雄の替え玉だった。
「あなたは、式の日だけ英雄になっていただきます」
役人は紙を一枚渡した。
「字は読めますか」
「少しなら」
「壇に上がったら、椀を受け取って、水を一杯飲む。それから、この紙に書いてあるとおりに読み上げる。それだけです」
替え玉の男は、紙を受け取って、おそるおそる聞いた。
「あの、誰かに何か聞かれたら、どうすればいいんですか」
「何を聞かれても、頷けばよろしい」
役人は少しも迷わずに答えた。
「本物の英雄も、そういう男でした。何を聞かれても、頷くだけの男でしたから」
あの男が本陣で最初に何と答えたのかを、この役所でいちばんよく知っているのは、役人自身だった。分かったうえでそう言ったのだ。
替え玉の男は、ほっとしたように頷いた。
「それと、水のことですが……本当に、飲んでも大丈夫なんですか」
「一杯くらいで、どうということはありません」
役人はそう言ったけれど、屋敷の下働きの娘が北の井戸の水で倒れているのを、その目で見ている。役人自身は、あの夜から、井戸の水を一滴も口にしていなかった。屋敷にも役所にも、遠くの泉から水を運ばせていたからだ。
替え玉の男に払う金は、式が終わってから渡すことになっていた。式のあとで男が寝込もうが、国には関わりのないことだった。
*
夕方、役人が一人で書類を片づけていると、白い衣の神官が音もなく入ってきた。
神官は、役人の裾に残った染みに目をやった。
「北の井戸の前を、通られましたか」
「ええ。今朝」
「民の騒ぎも、長くは続きますまい」
神官はそう言ってから、戸のほうを一度振り返った。
「……あの日の書類は、どうなさいましたか」
神官が低い声で聞いた。
「本陣の書類です。あの男が、水のことで何と答えたのかが書いてある、あの書類のことです」
神官が恐れているのは、あの日の嘘がばれることだと、役人には分かっていた。
「燃やしました」
役人は、書類を棚に戻しながら、あっさりと答えた。
「英雄を追い出した日に、すぐ燃やしてございます。ご安心ください」
神官はしばらく役人の顔を見ていた。それから、目を閉じて、小さく頷いた。
「ならば、よろしい。式が済めば、あの男の話は二度と出ますまい」
神官は、また音もなく部屋を出ていった。
役人は、神官が戻ってこないのを確かめてから、棚の奥に手を入れた。
そこには、本陣の書類の写しが、一つ入っていた。
写しはほかにもあと二つある。書類そのものも含めて、どれも燃やしてなどいなかった。
*
式まであと三日に迫った昼だった。
役所の廊下を、門番が一人、転がるように走ってきた。
「お役人様! 門の前で、男が一人、名乗ってます!」
ちょうど役人の部屋に来ていた恰幅のいい男が、面倒くさそうに振り向いた。
「名乗っている? 誰がです」
門番は息を切らしながら答えた。
「ソマと名乗ってます。英雄と呼ばれていた者だ、と……門の外にいた者たちが、みんな聞いてました!」
部屋がしんと静まり返った。
恰幅のいい男の顔がこわばった。
「……生きていたのか、あの男」
この男が、「どうせもう野垂れ死んでいる」と笑っていた本物の英雄が、自分の足で、王都の門まで戻ってきたのだ。
男の額に汗が浮いていた。
本物の英雄が生きていて、門の前で名乗ったのなら、式の壇に替え玉を立てることはできない。門の外の者たちが、もうその名乗りを聞いてしまっている。
役人は、何も言わずに、棚の奥のほうへ一度だけ目をやった。
※書き留めたものの写しは、お渡しできません。書き留めたものが正しいかどうかは、神官がお決めになります。




