第六話 効かない
道の先で鳥がいっせいに飛び立った。
ギドは焚き火の跡を足でならしながら、鳥が飛んだほうを一度だけ見て、足元へ目を戻したまま聞いた。
「今の、見ました?」
「……はい」
「鳥は、よく飛ぶんですよ。峠下でも、毎朝どこかしらで飛んでます。気にしなくて大丈夫です」
僕は、飛んでいった鳥の数を数えていた。数えても、何も分からなかった。
あの村の夜も鳥は同じように飛んだ。伏せ火が鳴ったのか、魔物が何かを鳴らしたのか、どっちか分からない音の、少しあとだった。
「今日は、昼までには峠を越えられますよ。上りはもう、ほとんど終わりなんで」
「……そうですか」
「越えたら、あとは下りだけなんで楽なんです。下りなら、僕、走れますよ。旅の人は走らなくていいですからね。ゆっくりで」
ギドは昨日よりもよく喋った。峠さえ越えてしまえば、あとは下るだけだからだと言った。
「向こうで荷を渡したら、その日のうちに帰りの道に出るんです。帰りは荷が無いんで、半分の日数で戻れます」
ギドは荷を持ち上げた。一度下ろして、膝に載せて、肩へ回す。昨日と同じ、なめらかな三つの動きだった。
それから朝ご飯を半分に割って、僕に差し出した。三度目も、雑な割り方のままで、僕のほうが大きかった。
「越えたら、向こうに温かい汁を出す店があるんです。一緒に食べましょう。僕がおごりますよ、手間賃が入るんで
「妹に何を買うか、決めました。糸巻きにします。あいつは手先が器用なんで、道具は後でいいかと思ったんですけど、先にいい道具を持たせたほうが上手くなるって、母が言ってたんで」
ギドは、糸巻きの値段を指で数えていた。数え終わると、もう一度初めから数え直した。
*
道が平らになって、少し進んだところで、ギドが急に足を止めた。
「……旅の人。止まってください」
ギドは荷を地面に置いた。置いてから、腰の火筒に手をやった。僕が何かに気づくより先に、ギドの手はもう火筒を握っていた。
道の先の木々がひとかたまり揺れた。
出てきたものは大きかった。
牛よりも大きい。頭が、ギドの背丈よりずっと高いところにあった。枝の下をくぐるのではなく、枝のほうを押しのけて、道へ出てきた。村の人たちが「小さいの」と言っていた魔物とは、まるで違った。
大きい魔物だ。こんなに大きいのは、生まれて初めて見た。
声が出なかった。足も、地面に縫いつけられたように動かなかった。
「後ろにいてください」
ギドが言った。声の高さは、昨日とまったく同じだった。
「大丈夫です。効きますから。売ってた人が、英雄様が請け合ったって言ってましたし、お上のお許しも出てる品なんで
「一発で止まらなかったら、もう一発です。旅の人も、撃てたら撃ってください」
効くのか。本当に、効くのか。
市で聞いたうわさが、頭の中でぐるぐる回った。でかい魔物には効かなかったって話もある。
僕も火筒を両手で構えた。持ち方は、横でギドが構えているのを見て、そのとおりにした。手のひらのまめに筒の木の部分が当たって、指が震えて、撃つまでのあいだずっと止まらなかった。
「今です!」
ギドの声で二人とも撃った。
二発とも当たった。当たった場所も見えた。魔物の肩の下に、二発とも同じあたりに入った。
でも、何も変わらなかった。歩く速さも、向きも、同じだった。距離だけが縮んで、木二本ぶん、こっちへ近づいていた。
効かない。
大きい魔物には火筒が効かないのだ。
市のうわさは本当で、売り手の男は、うそをついていたのだ。
頭の中が真っ白になった。
「……あれ、止まらない。もう一回です!」
ギドが次を込めはじめた。手は速いのに、なかなか込め終わらなかった。
朝の道は夜露で湿っていた。ギドの手も、火筒も、露でしっとりと濡れていた。
「あれ」
ギドの手が途中で一度止まった。それから、もう一度やり直した。
「……おかしいな。もう一回、やってみます」
濡らしちゃだめなんですよ、とギドは昨日言っていた。雨の日は使えない、と。露でも、同じなのかもしれない。濡れた火筒は、込めるのに手間取るのだろう。
僕は走った。
逃げようとしたのか、ギドの前に出ようとしたのか、自分でも分からなかった。十数歩で息が上がって、足が、思ったところに着かなくなって、濡れた草に足を取られて横向きに倒れた。
そのまま、道の外へ転げ落ちた。
斜面だった。二度ぶつかって、木の根にひっかかって、やっと止まった。左の肩と、腰の横を打った。痛くて息が吸えなかった。
腕を突いて体を起こそうとしても、肘から先に力が入らなかった。
上を見た。枝が重なっていて道は見えなかった。
「旅の人!」
上から、ギドの声がした。
「旅の人、どこですか! 大丈夫ですか!」
ギドは僕を探していた。自分のすぐそばに、あの大きな魔物がいるのに。
声を出せば、届いたと思う。ここです、と一言言えばよかった。
でも、僕は声を出さなかった。
声を出したら、魔物がこっちへ来ると思った。
怖かった。死にたくなかった。ギドを呼びたい気持ちより、自分が助かりたい気持ちのほうが、ずっと大きかった。
僕は口を手で押さえた。
「旅の人! 返事を……」
ギドの声が途中で切れた。
上で音がした。火筒の音だった。一度だけだった。それきり、鳴らなかった。
それから、何も聞こえなくなった。
僕は息を殺していた。上から、またギドの声が聞こえてくるのを、ずっと待っていた。
声はしなかった。
枝の擦れる音と、自分の息の音だけがしていた。自分の息の音のほうが、ずっと大きかった。
しばらくして、重いものが道を離れていく音がした。枝を押しのける音が、少しずつ遠くなっていった。
聞こえなくなってからも、僕は動けなかった。
*
やっと動き出したとき、日の位置が変わっていた。
息が勝手に落ち着いてお腹が鳴った。こんなときにお腹が鳴る自分の体が、情けなかった。
斜面を上がることにした。三歩上がっては、手をかけるところを探して、また三歩上がる。途中で二度ずり落ちて、手のひらのまめが潰れて、そこに土が入った。
途中で一度、上に向かって声を出そうとした。
「……ギドさん」
今さら、声が出た。
ギドが僕を呼んでいたときに、出すべきだった声だった。
打った肩と腰のせいで、腕で体を引き上げられなかった。上がりきったときには、日が傾いていた。
道の真ん中に火筒が一つ落ちていた。昨日、上から下へ、同じ向きに三度、布を当てていた火筒だった。
僕の火筒はどこにも無かった。走ったときに、斜面のどこかへ落としたのだ。
ギドは、道の端に倒れたまま、動かなかった。肩の当て布が見えた。片方だけ新しい、あの布だった。
死んでいるのは、離れていても分かった。
僕はそこから先へ近づけなかった。近くで見たら、立っていられなくなると思った。
僕が返事をしなかったから、ギドは僕を探して、逃げ遅れたのか。
返事をしていたら、僕も一緒に死んでいたのか。
どっちなのかは分からなかった。
でも、はっきりしていることもある。
ギドが信じて握っていた火筒は、僕が「たぶん」と言ったから作られた物だ。そして、「英雄様が請け合った」という言葉を信じて、ギドはそれを買ったのだ。
市の売り手は、大きい魔物に効かなかったといううわさを知っていた。知っていて、「当たりさえすれば、効かない魔物なんていません」と言い張って、ギドに売ったのだ。
*
道の真ん中に落ちていたギドの火筒は、拾わなかった。
荷は、ギドが置いたところにそのままあった。倒れたギドからは、十歩ほど離れていた。
ギドの荷は、外の縄をほどくと三つに分かれた。僕に持っていけそうに見えたのは、そのうちの一つだけだった。
担ごうとして、膝に載せたところで止まった。息を吸っても、上がらなかった。ギドに教わったとおりにやったのに、上がらなかった。
だから、荷を地面に置いて、引きずることにした。道の土に線が一本ついていった。
荷の中身は見なかった。妹に糸巻きを買うためのお金が入っているかもしれないと思ったら、開けられなかった。
日が落ちてからも引きずり続けて、夜は道の脇で止まった。火は焚かなかった。焚き方を、僕は知らないままだった。ギドに教わればよかった。
*
峠の手前の集落に着いたのは、次の朝だった。
大人が三人、こちらを見て、それから僕が引きずってきた荷を見た。一人が近づいてきて、荷の結び目を見て、顔色を変えた。
「これは、ギドの結び方だ。……あんた、ギドと一緒に峠へ行った人だろう。ギドはどうした」
僕は答えられなかった。答えたら、僕が返事をしなかったことまで話さなければならない。
「おい、ギドはどうしたんだ!」
「……峠の道で、大きい魔物に」
それ以上、言えなかった。
大人たちの顔が、みるみる白くなっていった。
「火筒は。あいつ、火筒を持ってたろう。英雄様が請け合ったっていう、あれを」
「……火筒は、効きませんでした。二人で撃って、二発とも当たったのに、止まりませんでした」
「効かなかった、だと」
男は、しばらく黙ってから、地面を蹴った。
「前にも、峠道でそういう話があったんだ。売ってるやつらは、撃ち方が悪いだけだと言いやがった。……ちくしょう。役所に言ってやる。王都まで行って、言ってやる」
男はそれから僕を見た。
「……ギドは、峠のどのあたりだ」
「上りが終わって、平らになったところです」
「迎えに行く」
男が短く言うと、ほかの二人がうなずいた。
大人たちは、ギドの荷を受け取って、黙って奥へ運んでいった。ギドのお母さんと妹さんに、知らせに行くのだろう。
僕はついていけなかった。
市の立つ柱に紙が一枚貼ってあった。まわりに人が集まっていて、字の読める年寄りが、みんなに聞こえるように読み上げていた。
「王都よりの触れ。十四日の後、王都の広場にて、式を執り行う。英雄が、都の井戸の水を一杯飲み、水が安全であることを民に示す。英雄が安全だと申しておる。民は安心して、井戸の水を飲むべし」
十四日の後というのは、この触れが貼られた今日から数えてなのだと、年寄りが言い足した。王都から届いた触れは、写す者が、貼る土地の日数に直して書くのだという。
読み上げが終わっても、僕はしばらく柱の前から動けなかった。
年寄りが指で押さえた、いちばん大きな字は、僕にも読めた。英雄、だった。
英雄は僕だ。王都を追い出されて今ここにいる。
なのに、その英雄が王都で水を飲むと書いてある。
壇に立つのは僕じゃない誰かだ。国は、英雄の顔を民が知らないのをいいことに、別の誰かを英雄に仕立てるつもりなのだ。
「英雄が安全だと申しておる」とも書いてある。
僕は、そんなことは一度も言っていない。僕が言ったのはたぶん、だけだ。
王都の井戸にも変わり水が来ている。市で聞いたうわさは本当だったのだ。
変わり水を飲み続けたら、体がどうなるのか。僕はあの村で倒れて、身をもって知っている。でも、王都の人たちは知らない。
英雄様が飲んで平気だったのを見たら、王都の人たちは安心して、あの水を飲み続けるだろう。英雄様が安全だと言ったのだから。
そして、たくさんの人が、あの村の人たちと同じようになる。
「英雄はそんなことを言っていない」と言えるのは、この国で僕一人しかいない。
門の内側に入ったら縛り首だと、あの広間で言われた。行ったら、殺される。
でも、行かなかったら、また誰かが死ぬ。ギドみたいに。僕が黙っていたせいで。
伏せ火や変わり水を止める方法は、今も知らない。僕は何も持っていない。
僕が持っているのは、「僕は本陣で、最初に『危ない』と答えた。『たぶん』と言ったのは、そのあとだ」という本当のことだけだ。
「……行きます」
誰に言ったのでもなかった。自分に言い聞かせた。
ギドの結び目を見た男が、奥から戻ってきて、小さな包みと水の袋を僕に押しつけた。包みには、干した肉と、焼いた芋が入っていた。ギドの荷を運んできた礼だ、とだけ言った。
足が震えていた。止まらなかった。それでも僕は、王都のほうへ歩き出した。
縛り首になるかもしれない。
それでも、あの広間へ戻ることにした。
※火筒の不発につきましては、お取り替えもお返しもいたしかねます。濷らさぬようにと、お伝えしてございます。




