第五話 これ、あれば峠を越えられますよね?
「峠の向こうの秋の市に、荷が間に合わないかもしれないんだ。うちの村の者は峠下まで運んで、そこから先は峠下の荷運びが越える。峠下までの人手が足りない。あんたも付いてこないか」
村の男にそう声をかけられたのは、起き上がれるようになって、半月ほどたったころだった。付いていけば、そのぶんの日銭が出るという。
僕は行くことにした。
この村にいたら、変わり水を飲み続けることになる。そうしたら、あのおじいさんが言ったとおり、だんだん体が言うことをきかなくなる。
死にたくない。
お金を貯めてこの村を出たかった。水のきれいな、もっと遠くの土地へ行きたかった。
上の道の石のことは、考えないようにした。次に鳴ったらまた積みに行くと見張りの男に言ったのは、僕だったけれど。
荷は、驢馬の背と村の男たちの肩で運ぶ。僕は重い荷を担げないので、荷の脇について歩いて、休むときに荷の番をする役になった。僕が持つのは、自分の飲み水と、寝るための布だけだった。
それでも、上り坂にかかると、僕だけ遅れた。
途中で二度、足が止まった。一度止まると、すぐには動き出せなかった。
村の男は、先の曲がり角で待っていてくれた。急かしはしなかった。
「こっちも荷が重い。ゆっくりでいいさ」
道は川から離れて、だんだん木が減り、石が増えていった。
半日歩いたところで、腿の付け根が動かなくなった。足の裏より先にそっちが音を上げた。
道の脇の草むらを見るたびに、伏せ火が埋まっているんじゃないかと思って、足がすくんだ。この道には埋まっていないと村の男に言われていたのに、それでも怖かった。
その夜は、道の脇で、村の男たちと荷を囲んで寝た。
峠の手前の集落に着いたのは、次の日の夕方だった。村の人たちは、ここを峠下と呼んでいた。見上げた先の峠は、ヴァハギレ峠というのだそうだ。
集落には家を囲う壁が無かった。板と布でできた粗末な家ばかりで、まわりを囲う柵は腰の高さしかない。魔物が来たら、とても防げそうになかった。
子どもたちが、水の入っていない空っぽの桶を三つ並べて遊んでいた。
ここは三年前まで何も無かった場所なのだと、村の男が教えてくれた。王都にも、よその町にも、壁の内側に住む場所が無い人たちが、しかたなくここに集まってきたらしい。
その晩は荷のそばで寝た。そうすれば、宿代がかからない。
*
次の朝、荷を渡して、手間賃に二十粒のお金をもらった。村で稼いだのは百四粒。もう村へは戻らないかもしれないと思って、そのうち四粒は、世話になったお礼にグレナさんへ置いてきた。残りの百粒と合わせて、ちょうど百二十粒になった。
手のひらに載せて一粒ずつ数えた。数え終わってから、もう一度数え直した。
小さな粒が手のひらの皺に入り込む。二度目は一つ多かったので、三度目を数えた。三度目は一度目と同じだった。
百二十粒。これが僕の全財産だった。僕は粒を懐にしまった。
集落には市が立っていた。
地面に布を広げただけの店がずらりと並んでいて、そのあいだを人がひしめき合って歩いていた。鍋、縄、干した肉、靴の底。どれにも値段は書いていなくて、みんな声で聞いていた。
「王都だと、値段を書いた札が店に出てるそうだ」
村の男がそう言った。少ない字で数を書ける、新しい書き方があるのだという。こっちにはまだ回ってきていないらしい。
その話には聞き覚えがある気がした。本陣で聞かれて、僕が答えたことの一つだったかもしれない。でも、はっきりとは思い出せなかった。
市の隅で、女の人が連れに話しているのが聞こえた。
「ヴァハノレの、上の道の、三つ目の曲がりの右。石が積んであるから、あそこは近づいちゃだめなんだって」
僕が石を積んだ場所の、村での言い方だった。誰から聞いたのかまでは、女の人は言わなかった。
あの石がここまで伝わっていた。
僕のしたことで、誰かが一人、死なずに済むかもしれない。そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
その向こうでは、男が二人、うわさ話をしていた。
「王都の井戸の水、味が変わってきたらしいぞ」
「英雄様も、王都から逃げちまったって話だ」
「峠道で、でかい魔物に火筒が効かなかったって話もある」
「まさか。英雄様が請け合った品だぞ」
川は王都まで流れている。変わり水は、もう王都の井戸にまで来ている。
あの広間の人たちも、今ごろはその水を飲んでいるのかもしれない。
ざまあみろ、とは思えなかった。王都には、門の外で荷物を枕に夜を明かしている人たちもいる。追い出された日、王都の門の外で、空っぽの桶の陰に丸くなっていた、あの子もいる。
そして、火筒が効かなかったという話。
僕の胸が嫌な音を立てた。
「さっきの、村の荷ですよね? 渡してたの、見ましたよ」
いつのまにか、横に男の子が立っていた。十七くらいで、上着の袖が手首より短い。肩に当て布をしていて、片方だけ新しい布だった。
「僕も荷運びをやってるんです。ここから峠の向こうまで荷を運んでて。父が死んでから、一人で越えるのは今度が初めてで。家はこの峠下で、母と、妹がいて」
僕が返事をする前に、男の子の話は荷のことから母親のことへ移っていた。聞いてもいないことまで話して、返事は待たなかった。
「これ、食べます? 一人だと余るんで」
男の子は包みを開いて、中の焼き菓子を半分に割って差し出した。割り方が雑で僕のほうが大きかった。
市の端で、別の男が声を張り上げていた。腰の帯に火筒を三本差している。
「英雄様が、魔物にも効くと請け合われた品ですよ。戦掛様のお許しも出ている品です。そこらの写しとは違いますよ」
心臓がどくんと鳴った。
火筒だ。僕が本陣で「たぶん」と言ったものだ。
売っている男は、王都の門の前でお札を売っていた男とは別の人だった。年も背格好も違う。
でも、言っていることの中身は、まったく同じだった。
「ねえ、でかい魔物には効かなかったって聞いたけど」
人だかりの中から、誰かが言った。
「ははあ、そのうわさですか。撃ち慣れない人が、あわてて外しただけのことですよ。当たりさえすれば、効かない魔物なんていません。英雄様が請け合った品なんですから」
売り手の男は、笑顔のまま、少しも迷わずにそう言い切った。
男の前には人が集まっていて、火筒を手に取って重さを確かめている人もいた。
男の子がその前で足を止めた。
「これ、あれば峠を越えられますよね?」
「峠を越えなさる? でしたらなおさら、ええ、なおさらですよ」
口の中がからからに乾いた。水は持っていたけれど、それは村の井戸の水だった。変わり水だ。飲みたくなかった。
値段を聞こうとして、僕は懐から粒を出し、手のひらの上でもう一度数えた。売り手の男は、僕が数え終わるまで黙って見ていて、それから口を開いた。
「おいくらか、とお思いでしょう。百二十ですよ」
さっき数えたのと、同じ数だった。僕の全財産だ。男は、僕の手の中を見て値段を決めたのだ。
村へ戻れば、また変わり水を飲むことになる。水のきれいな土地へ行くなら、この峠を越えるしかなかった。
買うな、と思った。
火筒が大きい魔物にも効くのか、確かめた人を、僕は一人も知らない。さっきのうわさだってある。
でも、走ることもできない体で、柵も無い峠道を歩くのだ。何も持たずに魔物に出会ったら、僕は死ぬ。
死にたくない。
だから、買った。
自分が作らせた物を、自分の全財産で買ったのだ。
お金を渡すとき、手のひらから粒がこぼれた。売り手の男は、僕が拾って渡し終えるのも待たずに、もう次の客に話しかけていた。
受け取った火筒は、見た目よりずっと重かった。持ち上げると、手が下がった。表面は冷たくて、細かい傷がいくつも入っていた。
どう持つのが正しいのかも知らないまま、僕はそれを両手で抱えた。ほかの人たちは、片手で軽々と腰に差していた。
懐は空になった。もう、一粒も残っていなかった。
男の子も火筒を一つ買った。こちらは八十と言われていた。お金を数えるのに手間取って、途中で一度数え直していた。
それから、男の子は僕に言った。
「峠を一人で越えるの、やっぱり怖いんです。誰かいてくれるだけでいいんで。手間賃は半分ずつにしますよ。……だめですか?」
僕が荷を担げないのは、この子も見ていたはずだった。それでも、そう言ってくれた。
帰りの日銭は出ない。今夜寝る場所も決まっていない。お金ももう一粒も無い。
僕は頷いた。
「ギドです。よろしくお願いします」
僕は名前を名乗らなかった。旅の者です、とだけ言った。
村の男たちには、峠を越えることにしたと告げた。止められはしなかった。
*
昼過ぎに二人で峠の道に入った。
峠道にも伏せ火が埋められたことは、知っていた。僕は、ギドが踏んだところだけを踏んで歩いた。荷運びが毎日通る道の上なら、埋まっていたとしても、とっくに鳴っているはずだった。
「荷は、こう持ち上げてから肩に回すんです。先に肩へ載せると、腰が先に悲鳴を上げるんで」
ギドは、立ち止まって、自分の荷を担ぎ直して見せてくれた。一度下ろして、膝に載せて、肩へ回す。三つの動きがなめらかにつながっていて、途中で止まらない。
「これ、父がやってた通りなんですけど」
ギドの荷を借りて真似してみると、膝に載せたところで止まってしまった。
「あ、そこで息を吸うんです。吸いながら持ち上げると、上がります」
言われたとおりにすると、少しだけ上がった。でも、すぐに肩から下ろしてしまった。
ギドは、腰に差した火筒に布を当てていた。上から下へ、同じ向きに三度こすって、持ち替えて、また三度。目は道のほうを見たまま、手だけが迷いなく動いていた。
「濡らしちゃだめなんですよ、これ。雨の日は使えないって、売ってた人が言ってました」
「……使えない日があるんですか」
「そう言ってました。でも今日は晴れてるんで、大丈夫です」
大丈夫じゃない。そう思った。
「……それ、大きい魔物には、効かないかもしれません」
言ってしまってから、しまったと思った。うわさで聞いた、と言えば済む。でも、その先を聞かれたら、本陣のことまで口にしてしまいそうだった。
「大丈夫ですよ。英雄様が請け合ったって、売ってた人が言ってましたから」
ギドはもう別の話を始めていた。聞き返されなかった。
ほっとした。
ほっとしてしまった。ギドの身より、自分が英雄だとばれないことのほうを、僕は喜んでいた。
「妹が、来年から糸を紡ぐんです。手先は僕より器用なんですよ、あいつ
「母は、せめて雨の日くらいは家にいろって言うんですけど。雨の日は道が空くから、いちばん稼げるんですよね」
母親の話をするとき、ギドは肩の当て布に手をやった。片方だけ新しい、あの布だった。母親が当ててくれた布なのだと、ギドは言った。
雨の日は火筒が使えない。ギドがいちばん稼ぐ日に、腰のあの筒は役に立たないのだ。
上り坂で僕はまた足が止まった。
ギドは戻ってきて、僕の水と寝るための布を、持ってくれた。
「いいですいいです。僕、こういうの慣れてるんで」
そのまま、自分の荷と一緒に、さっき教えてくれたとおりのやり方で肩に担いだ。
僕の手に残ったのは、火筒だけになった。
*
日が落ちてから、道の脇で火を焚いた。
ギドは自分の食べる分を減らして、僕によこした。今度も割り方が雑だった。
「英雄様に、会ったことありますか?」
息が止まった。
「……いえ」
言ってから、手の中を見た。ギドが割って、大きいほうをくれた分だった。
僕が英雄だと言ったら、この子はもう分けてくれないだろう。一緒に歩いてもくれないだろう。
一人で峠を越えるのが怖かった。
「僕も会ったことないんですけど。会ったら、何て言いますかね」
ギドは答えを待たずに、火に枝を足した。
「うちのほうも、水が変わったときは、みんな言ってたんです。英雄様のおかげで戦が終わったんだから、水のこともそのうち英雄様が何とかしてくれるだろうって」
胸がぎゅっと痛くなった。
何とかなんてできない。僕は何も知らないのだ。
「この峠道の崩れたところを直すのを、王都のベズナ様が止めてるんですよね。だから、こんなに荒れてるんですけど」
なぜ止めているのかは、ギドも知らないようだった。
僕は火のほうだけを見ていた。ギドの顔を、まともに見られなかった。
「明日、峠を越えたら、妹に何か買って帰るんです。何がいいと思います?」
僕は何も言えなかった。ギドはそれでも、自分で三つくらい思いついて、自分で一つに決めた。
火が小さくなるまで、ギドは喋り続けていた。途中から、僕が返事をしなくても続いた。
火を消す前に、ギドはもう一度だけ、火筒に布を当てていた。
*
朝は冷えた。
ギドが先に起きて、焚き火の跡を足でならしていた。
そのとき、道の先で、鳥がいっせいに飛び立った。
あの村の夜にも、鳥はこうして飛び立った。あのときは、その前に、どん、と何かが鳴っていた。
道の先に何かがいる。
※市に出ております品の値は、売り手が決めます。お許しの有る無しは、値には関わりません。




