第四話 その頃、王都では
「英雄がいなくなったって、何も変わらんじゃないか!」
「伏せ火はどうした! 水はどうした! 国は何をしてる!」
王都ヴァハドラの役所の門の前で、男たちが叫んでいた。十人あまりいた。上流の村から逃げてきて、城門の外の石垣で寝泊まりしている者たちだ。
門番が槍を横にして押し返すと、人垣は少し下がって、また前へ出た。
英雄を王都から追い出して、半月ほどがたったころ。
その声は、役所の奥の部屋まで届いていた。年のいった役人は、窓のほうを一度も見ないまま、積み上がった書類に目を通していた。部屋の隅には、白い衣の神官が一人、目を閉じて立っていた。
英雄を追放したあの日、広間で申し渡しを読み上げたのは、この役人だった。
「この半月で、上の村々から届いた数だけでも、伏せ火で死んだ者が七人。変わり水で寝込んだ者が四十人あまり。……減らぬ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。それから書類を一枚めくって、小さく息を吐いた。
英雄を追い出せば、民の怒りは英雄に向いて、国には向かない。そういう筋書きだった。実際、追い出した次の日には、町のあちこちで、「英雄が逃げた」「あの男のせいだ」と騒ぐ声が上がった。
町に「英雄が逃げた」と流させたのは、役人自身だ。追い出したと言えば、伏せ火と変わり水の後始末をするのは国だと、国の口から認めることになる。逃げたことにしておけば、責めは英雄一人のものになるし、いつでも呼び戻せる。
ところが、半月たっても、死ぬ者の数は減らない。伏せ火は道に埋まったままで、変わり水は川を流れ続けている。当たり前のことだった。英雄一人を追い出したところで、埋めた物も流した物も、何ひとつ消えはしないのだ。
峠の上の水場に山ほど捨てさせたかすは、今もそこから少しずつ川へ溶け出している。山の石を焼く釜が止まらないかぎり、かすは今も、水場へ運ばれ続けている。
伏せ火の掘り返しは、戦掛のベズナが止めたままだ。止めた理由を、ベズナは誰にも話していない。
民の怒りは、少しずつ、英雄から国のほうへ向き直りはじめていた。
「失礼しますよ」
戸も叩かずに入ってきたのは、恰幅のいい男だった。上等な服を着て、指には太い指輪をはめている。
国に品物を納めている商人で、英雄を追い出したあの日、役人の後ろに立って英雄を笑っていた男だ。追放の前から、火筒を国へ納める商人の一人だった。あの日のあと、この男は、火筒を作って売る商いをまるごと任された。任せる書類を書いたのは、この役人だった。
「英雄様のおかげで、今月も火筒がよく売れております。いやあ、ありがたい、ありがたい」
男は、にこにこしながら役人の机の前に座った。
「追い出した英雄の品が、まだ売れるのですか」
「売れますとも。英雄を恨んでいる者でも、魔物は怖い。『英雄様が請け合った品です』と言えば、みんな喜んで買っていきます。英雄様を追い出してからのほうが、かえってよく売れるくらいでしてね」
男は声を立てて笑った。
「あの男は、どうせもう野垂れ死んでいるでしょう。死んだ英雄の名前ほど、使い勝手のいいものはありません。文句も言わないし、分け前も欲しがらない」
「分け前の話は、この部屋でなさらぬように」
役人は書類から目を上げずに言った。
この商人が、火筒一本をいくらで作らせて、いくらで売っているのか、役人は知っていた。そして、その儲けの一部が、国の偉い人たちの懐に入っていることも知っていた。役人自身の懐にも、毎月、分け前が届いていた。
だから、それ以上は何も言わなかった。
「ところで」
男が急に声をひそめた。
「峠の手前の集落から、妙な話が上がってきておりましてね。峠道で大きな魔物が出たとき、火筒がまるで効かなかった、と」
「効かなかった、とは」
「当たりはするが、止まらなかった、と。……まあ、田舎者の言うことです。撃ち方が悪かったのでしょう。私のところで止めておきましたよ。こんな話が広まったら、商いに障りますからな」
男はまた笑った。
役人は、その話を書類には書かなかった。
そのとき、部屋の戸が勢いよく開いた。
「お役人様、大変なことになっております!」
飛び込んできたのは、王都の井戸を見回る役目の、井戸番の男だった。走ってきたらしく、肩で息をしていた。
「都の井戸の水が、苦くなってきております。北の井戸と、市場の井戸で。飲んだ者の中から、体が動かなくなって寝込む者が出はじめました」
「北の井戸、と言ったか」
役人が低い声で問い返した。
「へえ。……お役人様のお屋敷のも、北の井戸の水で」
役人の手がそこで止まった。
王都の井戸の水も、あの川の水が地面にしみて集まったものだ。峠の上の水場に捨てさせたかすが、川を下り、井戸の底に少しずつ溜まって、捨てさせはじめてから一年あまりで、とうとう王都まで届いたのだ。
これまで変わり水で苦しんでいたのは、上流の村の者たちだけだった。王都の民は、よその村の話だと思っていた。
でも、自分たちの井戸の水が苦くなったとなれば、話は別だ。王都の民の怒りは、もう英雄一人に向けたくらいでは収まらない。国に向く。
役人の背中を、冷たい汗がひとすじ流れた。
英雄一人に怒りを向けておけば済むと、あの日の広間にいた誰もが思っていた。役人自身もそう思っていた。かすは水場で薄まるから、川を下って王都までは来ない。白い髭の方をはじめ、偉い方がたはそう言っていたし、役人も、それを信じていた。自分の屋敷で飲む水まで苦くなることなど、考えもしなかったのだ。
「……このことは、まだ誰にも言うな」
役人は井戸番にそう言いつけて、部屋から下がらせた。
恰幅のいい男は、笑うのをやめていなかった。
「水が駄目になるなら、壁の外へ移り住む者が増えますな。壁の外には魔物が出ます。出ていく者は、みんな火筒を買うでしょう。私にとっては、悪い話じゃありません」
「あなたの商いの話をしているのではありません」
役人の声が初めて尖った。男は肩をすくめて口を閉じた。
役人はしばらく黙って考えていた。
それから、筆を取り直した。
「民の前で、英雄に都の井戸の水を飲ませます」
「ほう」
「広場で式を開いて、英雄が都の水を一杯飲んでみせるのです。民は、変わり水を作ったのは英雄だと思っております。その英雄が詫びに戻ってきて、都の水は大丈夫だと言って飲めば、民は信じます。作った者の言うことですから。式が済めば、英雄はまた国を出ていったことにすればよろしい。それで民は収まります」
「追い出した英雄を、また使うのですか。あの男は、今どこにいるのかも分かりませんからな」
「英雄の顔を、民は知りません」
役人は、紙に何かを書きつけながら言った。
「英雄は、本陣と館にいただけで、民の前には一度も出ておりません。だから、こちらで一人、それらしい男を立てればよろしい。英雄だと名乗らせて、水を飲ませます。それで済みます」
替え玉を立てる、と役人は言ったのだ。
都の水を飲んだ替え玉が、あとで寝込むかもしれない。だが、一杯ですぐに倒れることはあるまい。倒れるのが式のあとなら、それで構わなかった。
恰幅のいい男は手を叩いて喜んだ。
「さすがでございます。それなら、英雄様の名前もまた役に立つ」
部屋の隅の神官が、目を閉じたまま口を開いた。
「壇の上で英雄と名乗った者がいれば、書き留めるのはその名でございます。誰が立ったかまでは、書き留めません」
書き留めた言葉が正しいかどうかを決めるのが、この男の役目だ。英雄を追放したあの日、英雄の言い返しをはねつけたのが、この神官だった。
神官はそれだけ言うと、また黙った。
役人はちらりと神官を見た。
本陣の書類には、英雄の答えが全部書いてある。水のことを聞かれたとき、英雄は最初に「……危ない、と思います」と答えていた。「たぶん」と言ったのは、そのあとで、聞いた者に「効くのか効かんのか、はっきり申せ」と詰め寄られてからだ。
広間で読み上げたのは、問いと、最後の「たぶん」だけだった。英雄が「最初に危ないと言った」と言い返したとき、神官は「書き留めたものの中に、そのような言葉はございません」と言って、それを無かったことにした。民の怒りを英雄一人に向けるための嘘だった。
役人は、その嘘を知っていて、黙っていた。
そのかわり、本陣の書類の写しを三つ作って、別々の場所にしまってある。英雄が本当は何と答えたのかも、広間で神官が何と言ったのかも、全部書き添えてある写しだ。
責めが自分に回ってきたときは、写しを出して、嘘をついた神官と、決めた上の方々に負わせればいい。いつか誰かが責めを負わされることになっても、それは自分ではない。役人は、そういうふうに生きてきた男だった。
「替え玉は、式までに見つけておきます。日取りは、決まり次第、触れを出しましょう」
役人は筆を止めずに言った。
「お任せしますよ」
恰幅のいい男が、椅子の背にもたれたまま言った。
役人はまた書類をめくった。神官は最後まで目を開けなかった。
恰幅のいい男は立ち上がって、機嫌よく部屋を出ていった。廊下から、男が供の者に話す大きな声が聞こえてきた。
「英雄様の顔なんぞ、誰も覚えちゃいませんよ。死んだ英雄の名前で、これからもたっぷり稼がせてもらいますからな」
*
その夜、役人が屋敷へ戻ると、台所の板の間に、下働きの娘が寝かされていた。
この何日か、北の井戸で水を汲むたびに、その場で飲んでいたのだという。昼に倒れてから、手足が重くて、自分では起き上がれないらしかった。
「旦那様、お屋敷の水は、もう……」
女中頭が青い顔で言った。
役人は、しばらく娘の顔を見下ろしていた。
「明日から、水は遠くの泉から運ばせる。屋敷にも、役所にもだ」
それだけ言いつけて、役人は奥へ入った。娘には何も言わなかった。
民には、式が済むまで、井戸の水を飲ませておく。自分の屋敷と役所だけは、泉の水にする。役人は、それを少しもおかしいとは思わなかった。
※都の井戸の水につきましては、ただいま調べてございます。お汲みの際は、よく澄ませてからお使いください。




