第三話 おじさん、これ、いつ終わるの
膝に落ちた芋を、拾うことができなかった。手が震えて指がうまく動かなかった。
逃げなきゃ。でも、どこへ逃げればいいのか。お金も無いし、足ももう動かない。
ドゥーカさんは、鍋から目を上げなかった。
「心配するな。村の衆には言わんよ。言ったところで、誰も得をせん」
そう言って、ドゥーカさんは鍋の中をかき回し、また別の芋を取り出して僕に渡した。
止まっていた息がやっと吐けた。
「そこの板の絵な。あれの元は、あんたが描いた絵だよ。わしは向こうでも釜番で、鳴る火の元を作る側におった。あんたの描いた絵が、これを作れと言われてわしらのところへ回ってきたのを、この目で見とる。元を届けに本陣へ行ったときには、偉い人らの前で頷いとるあんたも見た」
僕は板壁の絵のほうを見た。ちょうど村の人がもう一人、あの絵に手を当てて通り過ぎていくところだった。
「先に言っとくが、あんたを責める気はない。あの頃は、この国は戦に負けとったんだ。わしらも、何かにすがりたかった」
ドゥーカさんは、木べらで鍋の縁をこんこんと叩いた。
「あんたも知っとるだろうが、鳴る火ってのは、もともとこの国にあったもんだ。大きな音を立てて燃える火でな、魔物を追い払うのに焚いとった」
「それを道に埋めようとか、筒に詰めようとか、思いついた者は誰もおらん。焚いて魔物を追うための物だったんだから」
「ところが、あんたが本陣でそう言ったから、わしらのところへ注文が回ってきた。埋める形と、筒に詰める形の二つだ。それが伏せ火と火筒になった」
「最初の分は、村々が魔物よけに蓄えとった鳴る火を、国がかき集めて詰めたそうだ。それだけじゃ足りんから、わしらが山の石を焼くことになった」
鍋の中の芋を一つ、ドゥーカさんが木べらで裏返した。
「あんたの絵が回ってきてからは、わしがおった去年の秋まで、休みなしに山の石を焼いて、鳴る火の元を取り出しとった。戦が終わっても、国は止めさせなんだ。石を焼いても取れるのはほんの少しで、焼いたあとの『かす』が山ほど残る」
「変わり水が出てきたのは、戦が終わってからだ。国が、要らなくなったそのかすを、峠の上の水場へ運んで捨てさせたんだよ」
「かすを水に入れておけば、魔物が寄りつかなくなる、と言ってな。本陣の英雄様が『水にも、たぶん』と言った、と、わしらはそう聞かされた」
それから、村の下を流れる川のほうへ、木べらの先を向けた。
「この村の川は、その水場から流れてくる」
僕は、ここまで六日かけて、この川に沿って上ってきた。
下流でも、川の水は飲んでいた。そのときは何も起きなかった。下流の水はまだ薄かったからだ。
でも、この村で飲んだ一杯は、ずっと上のほうの、濃い水だった。
この村までつながっていた。
本陣で僕が「たぶん」と言ったことが、伏せ火になって、火筒になって、変わり水になって、この村の井戸まで流れてきていたのだ。
僕が追い出された王都は、この川のいちばん下だ。下流の水が薄いのは、今のうちだけかもしれない。
鍋の中で、何かが小さく、ぽこりと鳴った。
「うちにも、若い弟子が一人おってな。よく食う子だった。……去年の秋に死んだよ。火筒の試し撃ちをしとった場で、たまたま釜のそばに立っとったんだ。外れた玉が釜に当たってな、釜ごと弾けた。……それで、わしも釜場を出て、この村へ来た。去年の秋の終わりだ」
ドゥーカさんは、鍋の中を見たまま言った。
僕は何も言えなかった。その子を殺した火筒も、僕の「たぶん」から作られたものだ。
「……で、何の話だったかな」
ドゥーカさんは、それ以上その話をしなかった。
「明日の朝も食え。冷めたのを温め直したやつが、いちばんうまい」
それから、芋を二度目に温めるときの火加減の話を、長々と始めた。
ドゥーカさんのそばを離れて納屋へ戻る途中、さっき「煮ても、濾しても、同じでした」と答えてくれた女の人が、空になった桶を並べていた。グレナさんという名前だった。
「……この水で、畑は大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃありません。王都に納める麦も、今年は半分でいいと言われました。水が変わってから、麦が取れなくなったので」
国は、この村の水が変わったことを知っているのだ。知っていて、麦を減らしただけで、水のほうは何もしていない。
「……上の道の伏せ火は、誰も掘り返さないんですか」
「掘り返すのは、王都のベズナ様のお達しで止まってます」
ベズナさん。本陣で僕を斬らせなかった人で、あの広間では一度も僕を見なかった人だ。なぜ止めているのかは、グレナさんも知らなかった。
*
その夜、村の外で、どん、と一つ大きな音が鳴った。
遠くの音だった。少し間を置いて、森の鳥がいっせいに飛び立つ音がした。
村の大人たちが、板壁の戸口へ走っていった。さっき、桶を運んでいたときとは、足の運びがまるで違っていた。
大人たちが戻ってきたのは、しばらくしてからだった。誰も怪我はしていなかった。
何があったのか、誰も僕には言わなかった。次の朝になっても、その話は出なかった。
鳴ったのが伏せ火だったのか、それとも魔物が何かしたのか、僕には聞き分けられなかった。
もし伏せ火だったのなら、何かがそれを踏んだということだ。
その夜は一睡もできなかった。
喉が渇いて、水瓶に手を伸ばしかけて、途中で止めた。水瓶の中の水も、井戸から汲んだ変わり水だ。
朝までに同じことを何度もした。
*
朝になって僕は村の人たちに言った。
「上の道の伏せ火を、僕が掘り返します」
何かしなきゃいけないと思った。僕が作らせたものなのだから、僕がなんとかしなきゃいけない。
お達しで止められているのは、昨日グレナさんから聞いていた。それでも、言った。
でも、見張りの若い男は困った顔をした。
「お達しで、掘り返すのは止められてる。今年の春、自分で掘り返そうとした人がいて、それで死んだ。……あんた、どこに埋まってるのか、分かるのか」
分からなかった。
どこに埋めたのかを書き残した紙は、どこにも残っていない。作らせた僕も、埋めた場所なんて一つも知らない。
それでも僕は、上の道の入り口まで行って、土の上に立った。
でも、そこから一歩も動けなかった。
草の色も土の色も、右と左でまったく同じに見えた。どっちが踏んでもいい側で、どっちが踏んだら死ぬ側なのか、見ただけでは決められない。
一歩出したら、死ぬかもしれない。
戦を終わらせた英雄が、自分で作らせたものが怖くて、足一本動かせなかった。
後ろから見張りの男がついてきて、僕の三歩手前で止まった。それより前へは来ようとしなかった。
「……ゆうべ鳴ったのは、この道ですか」
「いや。この道で鳴ったんなら、土がえぐれて黒くなってるのが、ここから見える。……去年の秋、村の男が一人踏んで死んだのは、この先の三つ目の曲がりの右だ。春の人も、そのそばを掘ろうとして死んだ」
見張りの男が道の奥を指さした。
「あそこまでなら、秋の人を運び出したとき、踏んだところに小石を並べておいた。小石の上だけなら、たぶん大丈夫だ」
「……たぶん、ですか」
「ああ。たぶん、だ」
そうして立っているうちに、日が高くなり、やがて傾きはじめた。
そのころになって、僕はやっと一歩を出した。並べてある小石の上だけを、一歩ずつ、息を止めて踏んでいった。
三つ目の曲がりまでは、ふだんなら、ほんのひと息で着く。それなのに、着いたときには、日が山の端にかかっていた。
僕は、去年の秋に鳴った場所のそばに、石を一つ積んだ。
鳴ったところの近くには、まだ鳴っていない伏せ火があるかもしれない。だから、そこには近づくな、という目印の石だ。
帰りも、来たときと同じ小石の上だけを踏んで、入り口まで戻った。
その場所の言い方は、見張りの男が言ったとおりにした。上の道の、三つ目の曲がりの右。
「それなら、村のみんなが言える」
入り口で待っていた見張りの男が言った。
「石が増えたら、また言い方を足せばいい」
それから見張りの男は、道の奥に目をやったまま言った。
「この道に自分から入ったよそ者は、あんたが初めてだ」
褒められることじゃない。この道に伏せ火が埋まっているのは、僕が本陣で頷いたからなのだ。
だから、言った。
「次に鳴ったら、また僕が積みに行きます」
「……ああ。頼む」
誰がその言い方を覚えておくのかは、村の人たちが決めた。紙には書かない。この村で字が読めるのは、二人か三人しかいないからだ。口で言って、口で返して、覚えていく。
暮れ残りのうちに、子どもが二人、上の道の入り口まで来て、奥のほうを指さしながら、言い方をそのまま声に出して覚えていた。
一人が言い間違えると、もう一人が直していた。
僕にできたのは、石を一つ積むことだけだった。伏せ火を掘り返すなんて、とてもできなかった。
杖が道の小石に当たる、こつ、こつ、という音が近づいてきた。
昨日、あの椀を差し出してくれた女の子だった。グレナさんの娘で、名前はゾナといって、八つになるのだと教えてもらっていた。
「おじさん、これ、いつ終わるの」
ゾナは、そう聞いたあと、僕の答えをじっと待っていた。待っているあいだ、一度も目をそらさなかった。
この子の足は、たぶん、伏せ火で無くしたのだ。
僕は答えられなかった。終わらせ方なんて知らないのだから。
ゾナはしばらく待ってから、杖を鳴らして帰っていった。
*
その日の夜、僕は立てなくなった。
体を起こそうとしても、腕から先に力が抜けていく。何度か試してみたけれど、あきらめるしかなかった。
この村で飲んだ、変わり水のせいだ。
死ぬのかもしれない、と思った。
自分が作らせた水で、自分が倒れている。
納屋の天井の板を、何度も数え直した。体はぴくりとも動かなくて、ほかにできることが、何も無かった。
「うちの人も、水が変わってすぐの頃に、同じように寝込みました」
グレナさんは、少し黙ってから言い足した。
「倒れたってことは、下のほうの水は、まだ変わっていないんですね。下の人も、同じ水に慣れていると思っていました。お客さんには、うちの井戸の水を出すものなので。知っていたら、お出ししませんでした」
濃い水を初めて飲んだ人には、いっぺんに来る。一度寝込んで起き上がれば、それから先は倒れはしない。そのかわり、飲み続けたぶんだけ、少しずつ体が弱っていく。村の人たちは、そうやって暮らしているのだという。
グレナさんは、枕元に水を置いていった。
同じ水だった。僕を倒した、井戸の変わり水だ。
でも、飲むしかなかった。この村には変わり水しか無いのだ。井戸も川も、濃いか薄いかの違いしかない。
*
九日たってやっと起き上がれた。
死ななかった。
歩くことはできるようになったけれど、水の入った桶を二つ担ぐことはできなかった。一つずつ、二回に分けて運んだ。
川から上がる坂の途中で、グレナさんが、僕の桶の水を半分、自分の桶へ移した。
「無理しなくていいですよ。半分でいいです」
村の水汲みは、川まで下りていって汲んでくる。井戸は、川の水が土にしみて溜まったものだから、かすも一緒に溜まって、川の水より濃いのだそうだ。
グレナさんが、坂の上を見ながら続けた。
「川の水は、坂を下りて少ししか汲んでこられないけど、井戸よりはましなので、子どもたちに回します」
子どもたちも桶を持って、川へ下りていく。杖をついたゾナも、同じ道を下りていく。
水汲みと荷運びの手伝いで、一日に八粒のお金がもらえた。門の前のお札なら、二枚と少し買える額だ。僕は半日しか動けていないのに、村の人は一日ぶんくれた。
手のひらの、桶の縄が当たるところに、まめができた。英雄と呼ばれていたあいだ、一度もまめなんてできたことのない手だった。
ある朝、村の男たちが、腰に火筒を差して戸口から出ていった。
「村の外に、また魔物が出た」
戸口で見張りの男がそう言った。
グレナさんが、桶を両手で置きながら言った。
「小さいのですよ。みんなで行けば追い返せます。火筒は、魔物よけに要るんです。英雄様が請け合ったものですから」
あの火筒も、僕が「たぶん」と言ったものだ。
人を撃てるのは知っている。でも、魔物に本当に効くのかどうか、僕は知らない。
夕方、男たちは一人も欠けずに帰ってきた。
「追い返してきたぞ。小さいのには、火筒はちゃんと効く」
「さすが、英雄様が請け合った品だ」
村の人たちは、ほっとした顔で笑っていた。
小さい魔物には、効く。
でも、もっと大きい魔物が出てきたら、どうなるのだろう。
僕は知らない。作らせた国も、売っている商人も、たぶん確かめてはいない。
確かめないまま、この国の人たちは、今日も火筒一本を頼りに、魔物の出る道へ出ていくのだ。
その火筒を、僕が自分の手で握ることになったのは、男たちが小さいのを追い返したこの日から、十日ほどあとのことだった。
僕が村で寝込んでいた頃、僕を追い出した王都でも、井戸の水の味が、少しずつ変わりはじめていた。僕がそれを知ったのは、火筒を買ったのと同じ、峠の手前の集落の市でのことだった。
※伏せ火の在り処につきましては、書き留めたものがございません。お心当たりの向きは、お近くの村へお伝えください。




