第二話 どうぞ。うちの井戸の水です
喉がからからに渇いていた。
王都の門の外で一晩明かして、次の朝から歩きはじめた。今日で六日目になる。僕の顔を知っているのは、あの広間の人たちと、本陣にいた人たちくらいだ。どちらももう王都にいるはずだ。王都の近くにいたら、いつ誰に英雄だと気づかれるか分からない。だから僕は、王都の横を流れる川に沿って、王都から遠いほうへ、ひたすら上流へと歩いてきた。
戦争が終わってからずっと、僕は館からほとんど出ずに暮らしていた。そんな体でいきなり何日も歩いたものだから、一日目で足の裏のまめが潰れて、二日目には股が擦れて、一歩ごとにひりひりと痛んだ。会社にいたころだって、こんなに歩いた日は一日も無い。
お腹も空いていた。道に落ちていた木の実を拾って食べたら、その夜に一度、全部吐いてしまった。
飲み水は川の水しかなかった。変わり水のことは知っていたから最初は怖かったけれど、喉の渇きには勝てなかった。飲んでみても、体には何も起きなかった。
この川は、僕が歩いてきた道をずっと下って、王都のわきを流れていく。あの広間の人たちが飲む水も、この川から来ているはずだ。
夜は、大きな木の根元で丸くなって眠った。草を何かが踏む音がするたびに、魔物じゃないかと思って飛び起きた。
死にたくない。
その気持ちだけで、足を前に出していた。
一日目の夕方には、後ろから荷車に追い抜かれた。王都のほうから来た荷車で、御者台の男二人が、大きな声で話していた。
「英雄が、逃げたんだとよ」
「伏せ火も変わり水も放り出して、夜のうちに消えたってな。朝から、門の中はその話ばっかりだ」
「そりゃ逃げるわな。あれだけ死なせりゃあ」
僕はうつむいたまま道の端に寄った。
逃げたんじゃない。追い出されたのだ。
追放を町に知らせて、民の怒りを僕に向ける。それが国の筋書きのはずだった。
でも、「逃げた」という話になっている。
誰かがそう言いふらしたのだ。あの広間の誰かが。
国は、僕を追い出しただけでは足りなかった。僕が自分から逃げたことにして、全部の責めを、もう一度僕に押しつけたのだ。
荷車は、次の分かれ道で川から離れていった。僕は、その車輪の音が聞こえなくなるまで、顔を上げられなかった。
途中に小さな村はいくつかあったけれど、どこも戸口を閉ざしていて、よそ者は入れてもらえなかった。
五日目に、川沿いの道で、荷を背負って下ってくるおじいさんとすれ違った。
「あんた、上へ行くのかね」
「はい。……この先に、村はありますか」
「ヴァハノレって村がある。ただ、あそこの井戸の水はやめときな。変わり水だ。飲むと、だんだん体が言うことをきかなくなるんだ」
おじいさんは、それだけ言って、川下へ歩いていった。
*
「あの道には、入らないでくれ」
六日目の夕方、やっと村らしいものが見えてきたところで、見張りに立っていた若い男に呼び止められた。男は、村の上のほうへ続いている細い道を指さしていた。
「柵が壊れたままだから、分かりにくいけど」
「……柵、ですか」
「伏せ火が、埋まってる」
足がそこで止まった。
言われてみると、その道には草がぼうぼうに伸びていて、新しく人が歩いた跡は、一つもなかった。
伏せ火。道に埋めておいて、踏んだ人を殺すもの。本陣で僕が「たぶん、できると思います」と言ったせいで、この国が作ったものだ。
「……どこに、いくつ埋まってるんですか」
「それが分かれば苦労しない。埋めた兵隊も、場所を書いた紙を残していかなかった。村の者は、あの道にはもう誰も入らない」
作らせた僕でさえ、どこに埋めたのかは知らない。
膝の裏がすうっと冷たくなった。
村はぐるりを板の壁で囲まれていた。家は三十くらい並んでいるように見えた。
「ヴァハノレだ。小さい村だよ」
見張りの男はそう言って、少しだけ笑った。あとで聞くと、三十二軒の村だった。
板壁の内側に、一枚の板が打ちつけてあった。その板には絵が彫ってあった。
右へ倒れた、下手な絵だった。
王都の門の前で売っていたお札と、同じ絵だ。誰かがお札を見ながら、そのまま板に彫り写したのだろう。
村の人たちは、その板の前を通るときに、一度だけ手を当てていく。小さな子どもも、背伸びをして同じ高さに手を伸ばしていた。
「あれは、英雄様のお札を写して彫ったもんだ。魔物よけさ。あれに手を当ててから出かけると、魔物に会わないって言われてる」
見張りの男が、自慢するように教えてくれた。
やめてくれ、と叫びたかった。その絵は魔物よけなんかじゃない。伏せ火の絵だ。人を殺す道具の絵なのだ。
でも、言えなかった。なぜそんなことを知っているのかと聞かれたら、僕が英雄だとばれてしまう。
「どこから来たんだ」
「……旅の者です。下のほうから来ました」
名前を名乗るなと言われたことだけは、ちゃんと守った。名乗ったら、縛り首だ。
戸口の内側では、女の人が、水の入った桶を地面に下ろしていた。水が一滴もこぼれないように、両手でそっと置いていた。
「こら、走らない。こぼしたら、今日の分は無いよ」
女の人は、桶のまわりを走り回る子どもたちを叱っていた。この村では、水はそれくらい大事なものなのだ。
「納屋でよければ、泊まっていけばいい」
見張りの男がそう言ってくれた。
「すみません。本当に、助かります」
屋根の下で眠れる。
それだけで泣きそうになった。
*
「どうぞ。うちの井戸の水です」
小さな女の子が、両手で椀を差し出してきた。片方の足が無くて、背丈に合わない長い杖を脇に挟んでいた。
「これ、いちばんいいお椀なんだよ。お客さんにしか出さないの」
女の子の言うとおり、差し出された椀は、ふちが一つも欠けていないきれいな物だった。村の人たちが使っている椀とは、形からして違った。
すれ違ったおじいさんの言葉が、頭の中で鳴った。あそこの井戸の水はやめときな。変わり水だ。
変わり水。飲み続けると、体が少しずつ弱っていく水。
本陣で僕が「水にも、たぶん」と言ったところから、この国が作り出してしまったものだ。
飲みたくない。
でも、ここで断ったら、この人たちに恥をかかせることになる。村の人が何人も、僕のほうをじっと見ていた。
それに、断ったら、ここに泊めてもらえなくなるかもしれない。また外で、魔物におびえながら夜を明かすことになる。
僕は椀を受け取った。なみなみと注がれていて、手にずしりと重かった。
受け取ってから口をつけるまで、少し間が空いた。そのあいだ、村の人たちは誰も動かなかった。
怖い。
でも、飲むしかなかった。
一口目で舌の奥に何かが残った。苦いような、錆びた鉄のような味だった。途中でやめたら、この水を嫌がっているとこの人たちに気づかれてしまうから、二口目も三口目も、その味のまま喉に流し込んで、最後まで飲み切った。
空になった椀を返すと、村の人たちが、ほっとしたように笑った。見張りの男が真っ先に口を開いた。
「よかった。旅の人は、うちの水だと分かると、みんな断るんだ」
「ちゃんと飲んでくれた人は、久しぶりだねえ」
そう言って笑った年寄りの口には、前の歯が二本無かった。
桶を持っている人たちの指は、どれも同じ向きに曲がっていた。まわりに立っている子どもたちは、みんな年のわりに体が小さかった。
全部、この水のせいだ。
そして、この水は、僕のせいだ。
「飲んでくれて、ありがとう」
水を注いでくれた女の子が、そう言った。
僕は何も言えなかった。
この村の人たちは、この水を毎日飲んでいるのだ。そして僕は、さっき飲んだ一杯が、これから自分の体の中でどうなっていくのか、そればかり考えていた。
なんとかしなきゃ、と思った。でも、何をすればいいのかは、何ひとつ分からなかった。
「あの、この水、煮たら少しは違うんじゃないですか」
「それ、去年みんなでやりました」
さっき子どもを叱っていた女の人が、こちらを見もしないで答えた。
「じゃあ、布を何枚か重ねて、濾してみるのは」
「煮ても、濾しても、同じでした」
「灰を混ぜるとか」
「灰も、日に当てるのも、上澄みだけを取るのも、全部やりました。旅の人はみんな同じことを言いますけど、この村で思いつくことは、もう全部やったんです」
女の人はそう言うと、返事も待たずに次の桶のほうへ行ってしまった。
僕が思いつくようなことは、この村の人たちがとっくに全部試していた。英雄と呼ばれていたくせに、僕にはこの人たちより良い考えなんて、一つも無かった。
*
火のそばに、四十くらいの男が座っていた。袖を肘までまくっていて、その腕には古い火傷の跡がいくつも散らばっていた。
男は、鍋の底から芋を一つ取り出して、僕のほうへ放ってよこした。
「その芋はな、二度目に温めたほうがうまいんだ。一度目は水気が抜けきらんから、芯に残る」
「……はあ」
「いいから食え。腹に入れば同じだ」
六日ぶりの、温かい食べ物だった。かじったとたんに涙が出てきた。おいしいのかどうかも、よく分からなかった。涙はなかなか止まらなかった。
「泣くほど腹が減っとったのか」
「……すみません」
「謝ることはない。わしは釜番のドゥーカだ。この村の薬も飯も、同じ釜で煮とる。腹が減ったら、ここへ来ればいい」
ドゥーカさんは、僕が芋をかじっているあいだ、黙ってこちらを見ていた。
それから、鍋をかき回しながら、何でもないことのように言った。
「あんた、戦のころ、峠の向こうの本陣に来て、偉い人たちに頷いとった人だろう」
手の中から芋が滑り落ちて、膝の上に転がった。
ばれた。
英雄だと名乗ったら、縛り首だ。名乗らなくても、ばれた。
この人が村の誰かに一言でも話したら、僕はもう終わりだ。
※井戸の水が変わりました村は、掘り直しのお願いを出していただけます。お返事までに、二年ほど頂戴しております。




