2-1 短い二人暮らし
遼叔父さんの家ですごした半月ほどは、
思っていたよりずっと静かで、
そして思っていたよりずっと“普通”だった。
斎宮家の静けさは、
影が揺れないように整えられた静けさで、
神社っていう、「役割のための空気」だったように思う。
叔父さんの家の空気と比べると、
確かに“神域”だったのかも、と思う。
そのくらい超自然的な静けさだった。
でも叔父さんの家の静けさは、
人の温度がする、人が作る静けさだった。
朝、台所でお湯を沸かす音。
洗濯機の低い回転音。
犬の足音。
遼叔父さんの息遣い、衣擦れの音。
そういう生活の音が
自然に混ざっているのに、ばたばたとした感じがしない。
そして、あの何とも言えない
「問答無用で静か」という感じもない。
私はその静けさに
本当に居心地の良さを感じながら、
「こういうのが普通の生活なのかな」
と思った。
叔父さんは、
毎朝必ず声をかけてくれた。
「イヴ、おはよう。
夕べは少し寒かったな、眠れたか?」
「……はい。よく眠れました」
「よかった。
朝ごはん簡単でもいいか?
パンと卵でいいならすぐ作る」
“パンと卵でいいか?”
その言い方が、また不思議だった。
家で食事の献立なんて話題に上がったこともない。
誰かが「これでいい?」「あれが食べたい」と
話すこともなかった。
叔父さんは、
私の好みを聞いてくれる。
選ばせてくれる。
選ぶ余地を残してくれる。
そのうえで、叔父さんが困ることは、
なるべく避けてほしいことも伝えてくれる。
ほんの小さな違いのはずなのに、
ものすごく胸の奥を軽くしてくれる。
朝食を食べながら、
叔父さんはゆっくり話す。
「イヴ。
下宿は急いで決めなくていいからな。
…見に行った中でイヴが気に入ってそうなところは
あそこだろうけど。笑」
「……はい。あそこです。笑」
「じゃあもう契約しちゃうか、
先越されたら大変だもんな…
生活のリズムが整うまで俺ん家に寝に来る、
とか、まあ、落ち着くまで好きにしたらいい。
ゆっくりいこう」
ゆっくりいこう──
遼叔父さんは、絶対に急かさない。
どうしてなんだろう。
ただ、斎宮家には、
“ゆっくり”という概念はなかったように思う。
影が揺れないように、
呼吸が乱れないように、
役割を果たすように、
お父さんやお母さん、
または何か見えないものに導かれるように、
言われるまま淡々と行動してきた。
そこには私のペースはなかった。
遼叔父さんは、
私のペースを、リズムを探してくれる。
その優しさが胸の奥に静かに染み込んでいく。
この半月ほど、
大学までの道を一緒に歩いたり、
必要な書類を揃えたり、提出したり、
下宿候補を見に行ったりした。
遼叔父さんの歩調はずいぶんゆっくりしていた。
「歩くのが遅いんだ。もうずいぶん東京人のくせにね」
って笑っていたけど、
周りの人に追い抜かれていく中、
叔父さんと並んでゆっくり歩けることに
こっそりと、にっこりしていた。
遼叔父さんの佇まいすべてが、
私の影を静かに整えてくれる。
本音を言えば、
遼叔父さんの家に下宿したい気持ち、ある。
けどそれは一旦しないことにした。
「年頃のお嬢さんが、中年独身のオッサンと二人暮らしなんてとんでもない」
って、遼叔父さんがすごく困ってしまっていたのが1つ。
そして、私が“一人暮らしをしてみたい”と思ったから。
一人暮らしの方向で定まったときの
叔父さんのホッとした顔、
なんだかすごくかわいらしかったなあ。
男の人にかわいいなんて、ダメかもしれないけど。
距離が近すぎない。
でも遠すぎもしない。
その絶妙な距離感が、
私の呼吸を整えてくれる。
それなのに、
新しい疑問や感情にも気づかせてくれる。
夜は、
一緒に夕食を作ったり、
遼叔父さんがジェムノットに出ない日は
一緒に映画を見たりした。
生活や神事以外の音が家の中で鳴ることは、
家ではありえないことだった。
映画の内容についてああだこうだと話した。
そんなことも、今までしたことなかった。
たぶんこういうのが“普通の生活”なんだ、
って、私の中の何かが嬉しくなった。
叔父さんは、
私がテレビに集中していると、
そっとお茶を置いてくれる。
でも、飲めってことでもない。
「熱いから気をつけて」
飲んでも飲まなくてもいいけど、
熱いのだけは気を付けてね。
そういう意味。
優しさが、胸の奥をじんわり温める。
たった半月程度だけれど、
私は、“普通の生活”の輪郭を、大事なことを
遼叔父さんに教えてもらった気がする。
影が揺れてもいい。
呼吸が乱れてもいい。
選べなくてもいい。
選んでもいい。
自由でいてほしいって、伝わるように伝える。
そんな大人がいる世界は、
私が知っている世界とはまったく違っていた。
その違いが、私はとても好きになった。
この半月程度は、今後の私を絶対に変える。
“私も普通の女の子”。
その気持ちが、胸の奥で静かに芽を出し始めていた。




