005話 「婚約者の前じゃ強気になれないお姉さま」
窓の外には、真珠のように綺麗な正円の満月が昇っていた。
時刻は夜。パーティーの準備もすっかり終わり、着々と会場に人が集まり始めている頃合いだ。
鏡台の前に座らされた俺は、自分の顔に謎の白い液体や粉がパンパンと容赦なく叩き込まれていくのを、死んだ魚のような目で眺めていた。
そう、化粧である。
中身が男の俺としては全く興味がないのだが、レイに『化粧しないと他のご令嬢方に裏で何言われるかわかりませんよっ!』と脅されたため、渋々首を縦に振ったのだ。
ただ、鏡の中で自分の顔が少しずつ綺麗になっていくのは一種の芸術を見ているようで面白かった。
「おぉ、け、化粧ってすごいね……」
「ええ、そうですわ! 元々ルシア様はお顔の造形がお綺麗なので、素材を活かした薄い化粧に留めましたのよ。」
俺が感心して呟くと、化粧係のオバはんもとい、リリアンが鼻息荒く胸を張った。
もはや女の化粧という名の魔法を信じないことに決めている。女性たちが毎朝、何時間も鏡の前に座る理由が痛いほどよく分かった。
「とてもお似合いですっ。いつものルシア様は可愛らしいお顔立ちですが、これなら大人の中の女性と言っても過言ではありません!!」
「いや、それはないと思うけどね?」
十歳の子供相手に過激に褒めちぎってくるレイが少し恥ずかしい。
ちなみに、いつもの教育係である変態は、執事のルークさんに用事があるとかでどこかへ消えたらしい。今夜の平穏は半分約束されたようなものだ。
「いいですか、ルシア様は公爵家の六女というお立場上、他の貴族の方々と公の場で会う機会が極端に少なかったはずです」
「まあ、そうだね」
記憶を辿ってみても、赤ん坊の頃のお披露目と、自分の五歳の生誕パーティー、あとは長男アーリウスお兄様の十五歳の生誕パーティーくらいしか思い浮かばない。
……え、待って。たった三回しかないだとっ!?
「今回は、近隣や遠方からわざわざ来た王侯貴族がかなり参加されます。王族の方や商会の有力者も多数いらっしゃいますので、くれぐれも失礼のないようにお願いしますね。とはいえ、ルシア様なら大丈夫ですっ!」
レイが両手をぎゅっと握ってガッツポーズを作った。俺は引きつりそうになる頬を引き上げ、ニコッと笑い返す。
「大丈夫ですワ」
「……なんか語尾が変ですけど?」
マナーの授業でやったとはいえ、ぶっつけ本番なんだからこれくらい勘弁して欲しい。
「ルシア様、もうお時間です! 早く参りましょう、主役のいないパーティーなんて始まりませんよ?」
「ああ、このリリアン、感激で胸がいっぱいですぅ!」
オバはんがハンカチを目に当てて意味不明なことを言っているが、無視した。
「ドレスの裾に足を引っ掛けないよう、気をつけて歩いてくださいね」
「わかっておりますワ」
自室を出て、別館にあるパーティー会場へと向かう。
ぎこちない俺の歩き方をレイがクスクスと笑っていると、廊下の向こうから赤髪の高身長イケメンが歩いてきた。
「あ、アーリウスお兄様!」
「ルシアじゃないか。十歳の誕生日、おめでとう。そのドレス、よく似合ってるよ。」
「ありがとうございます、お兄様っ!」
目の前で優しげに微笑むのは、現在十九歳になる長男、アーリウス=リィ・ウィリアス。
学業優秀、剣術の腕も立ち、さらには火魔法の上級魔術すら使いこなすという、非の打ち所がない完璧超人だ。
次期当主として周囲から最も期待されている存在である。
「それじゃあ、僕はお父様に呼ばれているから失礼するよ。後で会場でね」
「はい!」
爽やかな風のように去っていくお兄様を見送り、再び静かな廊下を進む。
前世でも思ったのだが、なぜこういう会場に続く廊下というのは妙に静かなのだろうか。嵐の前の静けさというか、結婚式場やホテルの宴会場に向かう時のような、あの胃が痛くなる独特の緊張感がある。
「ルシア様、早くこちらへ」
「あ、ファイさん」
会場の入り口に到着すると、執事のファイさんが手招きしていた。
重厚な扉の向こうからは、先ほどかすかに聞こえていたものより一回りも二回りも迫力のある、華やかなオーケストラの生演奏が響いてくる。
「――お待たせいたしました! 本日の主役、ルシア=リィ・ウィリアスお嬢様のご入場です!」
中からアナウンスが響き渡った。
え、もう行くの? 心の準備が! いや、行くしかないっ。
「ほら、胸を張って。」
レイに背中を押され、ゆっくりと扉が開く。
最初に目に飛び込んできたのは、目が痛くなるほどにきらきらと輝く豪華に装飾された大広間だった。
見上げるほど高い天井には、お父様の趣味なのか巨大な黄金のシャンデリアが。
準備中には無かった魔法のランプが無数に宙を舞い、幻想的な光を落としている。
会場の端から端まである長机には色とりどりの豪勢な料理が並び、むせ返るような香水と酒の匂いが鼻腔をくすぐった。
俺がレイと共にカーペットに足を踏み入れた瞬間、会場内がさざ波のようにざわめく。
え、俺なんかやらかした? あ、主役だからか。
「あれが噂の六女? 思ったよりもドレスがお地味ね。」
「まだうちの男爵家のご令嬢のドレスの方が華やかだわ。」
「まあ! お綺麗なこと。」
ひそひそ話のつもりなのだろうが、明らかに聞こえる声量で悪口、品定めの声が耳に飛び込んできた。
俺がレイの顔を窺うと、彼女は言わんこっちゃないとでも言いたげな視線を返してくる。
「……だから、だいぶ控えめにしてあると言いましたよ?」
小声で呆れられる。
なるほど、そういうことか。
周囲を見渡せば、着飾った貴族の女性たちは、これでもかと胸元を異常に強調したドレスや、歩くのも困難なほどフリフリのレースを纏っている。
目立たないように地味なドレスを選ぶと、逆に標的にされてわーきゃー言われるわけだ。
貴族社会、面倒くさすぎる。
このドレスもきれいだと思ったんだけどなあ。
すると、人混みを掻き分けるようにして、茶髪の高身長な男がこちらへ向かってきた。どこかで見た記憶がある。
「ルシア様、私次女エメリアの婚約者、侯爵家のアダム=ロウ・レシリドと申します。本日はおめでとうございます。」
ああ、思い出した。確か去年、一度だけ顔を合わせたことのある侯爵家の男だ。
俺が記憶を探っていると、レイに背中をツンッと突かれた。早く挨拶を返せという合図だろうか。
「え、えっと。お初目に……じゃなくて! ルシア=リィ・ウィリアスと申します。お姉様が、いつもお世話になっております?」
なんとか頭に残っている知識を引きずり出し、両手でドレスの裾をつまんで淑女の礼をしてみせる。
しかし、語尾に『?』がついたのがマズかったのか、背後からレイの鋭い眼光が突き刺さった気がした。言葉は乱暴になっていないはずなのだが。
「はっはっ、君は面白いね。流石はあのエメリアの妹だ」
「そ、そうでしょうか?」
これが正解のお嬢様言葉なのか!? くそっ、わからんっ!
冷や汗を流していると、噂をすればといったタイミングで、アダムの後ろから去年十六歳になった次女のエメリアお姉さまがツンと澄ました顔で歩み寄ってきた。
母親譲りの真紅の髪に、絶対的な圧力のある紅蓮の瞳。
そして何より、あの圧倒自信のあるふるまい方。
正直、俺はこの姉が苦手だ。
第一夫人から産まれた正妻の娘というプライドがあるのか、顔を合わせるたびに『礼儀がなってないわね、これだから庶民の血が入った子供は。フッ』などと、母親の身分を引き合いに出して口撃してくるのだ。
俺自身がとやかく言われるのは構わないが、今世の母を侮辱されるのは腹が立つ。
それに、俺が五歳の頃に喧嘩をした際、
『そんなにお菓子ばかり食べてるから、少しふくよかなんじゃないですかね?』
と反撃のつもりで言ったところ、烈火の如くブチギレられた過去がある。
前世の感覚からすれば、レディの体重をとやかく言うのは男として少し抵抗があった。だが、エメリアお姉様から先に『もうちょっとマシなものを食べたらどうですの?』とケンカを売ってきたのだ。お互い様である。
以来、お互いに牽制し合う微妙な関係が続いている。
ここ一年程は彼女が全寮制の学園に通っていたため会う機会がなかったが、久しぶりに目の前に立つお姉様の顔を見て、俺はニッコリと微笑んだ。
「お久しぶりですね、エメリアお姉様。学園での生活はいかがですか? また少し、ふくよかになられたようですけど。」
「え、えぇ”っ……!? そ、そうね。学園のお食事が美味しすぎて、少し食べすぎてしまったの。ルシアも入学したら食べてみるといいですわ。」
おや?
声が上擦り、明らかに顔が引きつっている。もしかして、婚約者であるアダムの手前、いつものように強気でブチギレることができないのだろうか?
フハハハハ! なるほど、これは面白い。なら、もうちょっとイジって――。
――その時だった。
ドォ“ッッボォォカカァ“アアアアン!!!!!
床を揺るがす凄まじい爆発音。
直後、魔法ランプとシャンデリアが弾け飛び、華やかなパーティー会場は一瞬にして完全な暗闇と悲鳴に包み込まれたのだった。
お嬢様言葉、ワカラナイ。ワカラナイ。




