010話 「鳥籠の中」
「んんっ……」
重い瞼を押し上げると、見慣れた天蓋付きのベッドの天井が目に入った。
全身の筋肉が軋むように痛む。大学生の頃にチューハイを一気飲みした時の二日酔いのようなガンガンとした痛みだった。
「……ルシア様っ! お目覚めになられましたか!」
ベッドの傍らで、椅子に座ったまま剣を抱いて浅い眠りについていたレイが、勢いよく顔を上げる。
その目元には、うっすらと隈ができていた。おそらく、俺が気絶してからずっと一睡もせずに見守ってくれていたのだろう。
「レイ……おはよう。ここ、私の部屋だよね。あのあと、どうなったの?」
「もうお聞きになっているとは思われますが、応援が駆けつけ、残党はすべて捕縛されました。ルシア様はご自身の魔力を瞬時に酷使されたことによる、重度の魔力酔いです。」
「そっか……」
昨日、あんなにも簡単に命が散っていくのを見たというのに。圧倒的な力の差を前に、自分がどれだけ無力だったかを思い知らされたというのに。
震えそうになる手を、ギュッと強く握り込む。
――俺は、スローライフを送りたい。
誰にも脅かされない、安全で平和な日常。それを手に入れるためには、ただのんびりしているだけじゃ駄目だ。
ゆっくりと身を起こし、ふと窓の外へと視線を向ける。
この世界の空は、いつも綺麗だ。星空は同じように夜空を駆け巡り、雲も同じように流れていく。
「……まるで、よくできた絵画みたいだね」
無意識に漏れた独り言に、レイが不思議そうに首を傾げた。
今はそんなことよりも、平和な日常を取り戻すのが先である。
「ううん、なんでもない! なんだかお腹空いちゃった。バースデーケーキの残ってないかな?」
のんきに笑う俺の頭を、レイは泣きそうな顔でそっと撫でてくれた。
「それよりも先に、着替えましょうか?」
レイがそう言うと、後ろからニコニコしているメイドが三人ほど出てくる。
「あはは……」
どうやらお手上げするしかなさそうだ。
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同じ頃。ウィリアス公爵邸の地下深く。
分厚い石壁と何重もの魔力結界に覆われた地下牢獄の最奥にて、重苦しい金属音が響いていた。
「いやぁ、参った参った。あのじいさん、ただ者じゃねえとは思ってたけど、まさかあんなバケモノだとはなぁ。ちょっと油断しちまったぜ、へへっ」
太さ数センチはある対魔獣用の拘束鎖で壁に磔にされながら、ヘブンはあっけらかんと笑っていた。
その巨体には無数の切り傷や打撲の痕があるものの、致命傷は一つもない。
昨日腹に刺されたはずの傷跡も綺麗さっぱり消えていた。それどころか、拷問を受けているはずの彼の顔には、焦りや恐怖の色が微塵も浮かんでいない。
「……笑えない冗談だなぁ。僕の特製拷問器具を三つも壊しておいて、まだそんな余裕な顔ができるなんて。一体君は何処から来たのかな?」
血塗れの白衣を着たレイムンドが、刃のこぼれたナイフを放り投げながら深いため息をついた。
飄々とした態度の奥に、苛立ちと底知れぬ警戒心が滲んでいる。この男、本当に捕まっているのか?
「へへっ、元騎士団長サマの腕が鈍ってるだけじゃねえの? まあ、今回は俺の負けだ。おとなしくしといてやるよ……今は、な。」
ヘブンがニヤリと笑った、その時だった。
「――そこまでにしろ、レイムンド」
低く、しかし絶対的な威圧感を持った声が地下牢に響き渡る。
鉄格子が開き、近衛兵と共に足音を響かせて現れたのは、ウィリアス公爵家の当主――ルシアの父親であった。
豪奢な外套を羽織り、威風堂々とした体躯から放たれる覇気は、そこにいるだけで空気を重く沈み込ませる。
「おや、これは閣下。お出ましになるとは思いませんでした」
レイムンドは白衣のまま、騎士としての完璧な礼の姿勢をとった。
公爵はレイムンドを一目すると、冷ややかな視線をヘブンへと向けた。
「貴様らの雇い主は誰だ。闇ギルドか? 目的は何だ。」
「さあねえ。俺はただの雇われの傭兵ってもんよ。金払いのいいボスの言う通りに、ちょっと可愛い六女サマを攫いに来ただけさ。」
公爵の圧倒的な覇気を前にしても、ヘブンはそのにやついた態度を崩さない。それどころか、面白そうに目を細めて公爵を見つめ返した。
「ただまあ……あんたらのその余裕ぶった顔を見てると、少しだけ可哀想になるぜ」
「何?」
「いいご身分だよなぁ、公爵サマ。立派な屋敷という鳥籠の中で、自分たちが世界の頂点にいると信じ切ってる。まったく、外の奴らの気持ちにもなれってもんさ。」
ヘブンの意味深な言葉に、公爵の瞳孔がわずかに収縮した。
しかし、公爵はそれ以上は何も問わなかった。ただ静かに踵を返し、レイムンドに冷徹な声で命じる。
「レイムンド。お前は優秀な男だ。私の娘を守るためにあの性格を演じていることも、その裏で公爵家の暗部を完璧に処理していることも評価している。だが――」
公爵はヘブンを一瞥し、冷酷に告げた。
「これ以上は、知るな。この男の尋問は終わりだ。この男は生かしておけ。警備を現在の三倍に増やし、決して外へ出すな」
「はっ……よろしいのですか?」
「ああ。こいつは何かを知っている。いずれ、吐かせる時が来る。」
公爵が地下牢を去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ヘブンは鎖をチャリッと鳴らし、満足げに薄く笑った。
「せいぜい見張っててくれよ。お迎えが来るまでの、いい暇つぶしになりそうだ」
レイムンドはそんなヘブンの不気味な余裕を横目で睨みつけながら、静かに鉄格子の鍵を閉めた。
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時を同じくして。
昨晩の襲撃で半壊したパーティー会場では、厳重な立ち入り禁止線が張られ、警備兵や数人の魔術師たちが忙しなく床の魔力痕跡を調べていた。
「ルーク様は王城へ行きましたか……ふむ、ならばこちらは私の独壇場ですね」
白衣の上に魔法陣の紋章が施された特注のコートを羽織った灰色の髪の青年――ウィリアス家の魔術研究部門であるシリウスが、片眼鏡の位置を直しながら独り考える。
政治や根回しはルークの仕事だ。シリウスは現場にだけ集中していればいい。
「さて……それにしても、異常ですね。」
シリウスの瞳が、探求心にギラギラと輝き始める。
彼は、公爵家の敷地全体に展開し、警備兵達を苦しめた魔力分解領域の痕跡を採取した試験管を光にかざした。
「通常、魔力分解領域とは、空間に居る生物の魔力を強制的に奪い取る術式ですが、しかし………これはなんでしょう?」
シリウスは試験管の中身を凝視し、眉をひそめた。
「魔法じゃない。ただの気体ですか。ですが、この大気成分の比率……この大陸のいかなる環境とも一致しない。高濃度の魔力を含んだ、極めて有毒な空気。こんなものが自然界に存在するはずがない……何らかの新兵器なのでしょうか……ライアンとキーリーはここを頼みます。」
「はっ、了解です。」
背筋に微かな悪寒を感じながら、シリウスは次に、仮面の男とブラッディが逃亡に使用した転移魔法陣の焼け焦げた痕跡へと歩み寄った。
空間魔法の解析は彼の得意分野だ。彼の手にかかれば、転移先を特定することなど容易い――はずだった。
「……計算式がおかしいのか?」
展開した解析用の魔法陣が、エラーを示す赤い光を明滅させている。
何度計算式を組み直しても、弾き出される座標が、物理的な場所を示さなかった。
「一体どういうことだ。」
シリウスの片眼鏡の奥で、瞳が驚愕に見開かれる。
「ハハッ……まさか、ね。そんなおとぎ話のようなことが……」
シリウスは狂気に触れたように低い笑い声を漏らし、それ以上考えるのをやめた。
これ以上踏み込めば、魔術師としての自分の常識が、いや、人間としての正気が崩壊する予感がしたからだ。
「……この件の報告書は、公爵閣下のみにお渡しすべきですね。ルークには、適当な結果をでっち上げておきましょうか。」
シリウスは今にも崩れそうな天井の間から見える、美しい空を眺めた。
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「はっくしょんっ!」
ふかふかのベッドの上で、俺は盛大なくしゃみをした。
誰かが噂でもしているのだろうか。
「ルシア様、お風邪ですか? やはりまだお休みになっていた方が……」
「平気平気! それよりレイ、ケーキのお代わりはある?」
窓の外では、今日も変わらず鳥たちが群れを成して飛んでいた。




